カクテル①
席に着いた紳士が「何ができますか」と言ってカウンターまでやってくると、旧友にでも会ったような顔で厨房奥のコックに挨拶をした。紳士の笑顔とは対称的に、会釈を返すコックはいかにも気まずそうな顔である。
「ハンバーグの……」
コックはたまらずカウンターまでやってきて、脱帽してかつての非礼を詫びると、紳士は焦ったような素振りをしてみせた。
「ええんです、むしろ懐かしうて嬉しかったんです」
その件は終わりにしよう、そう打ち切るようにカウンターに並んだ瓶に目をやって、マティーニを頼むと食堂を見渡した。
夜も更けて、客は彼ひとりしかいない。
「コックさん、ちょっと付き合ってくれませんか」
三代目に自分のコーヒーを頼み、紳士の向かいに座った。いくらハチクマでも、客と同席するのは初めてのことであった。
「コックさんは、ほんにアメリカに行ったことがないんですか」
「満州はおろか、朝鮮も北海道も四国にも行ったことがありません」
つられて郷里の言葉や訛りが出てしまわないよう慎重に答えると、紳士は少し残念そうな顔をしてから語り始めた。
「十年ほど前になります。私は鉄道の技師なんですが、今までにない電車を開発するため、欧米を回りました。あの日は、その新型電車を工場まで見に行ったんですわ」
それは京阪電鉄の「びわこ号」と呼ばれる電車だった。大阪~京都~大津を直通する名目で使用していた土地を、直通運転しないのなら返すよう京都市に迫られて作った電車である。
京阪間の高速運転と高いプラットホーム、京津間の急勾配、急曲線、低い電停のすべてに対応するため、高速走行能力と登坂能力、二種の乗降扉と集電装置を小さな車体に詰め込んでいた。
最大の特徴は、ふたつの車体を連結器ではなく車輪を収めた台車がつないでいたことで、これは日本で初めて採用された機構であった。
「車庫に行って電車を好きに見てくれと言われて、まず連節部だと床下に潜りこんだら、アメリカ人技師がえらい驚いていましたわ。あっちの電車は進んでます、鉄道省の技官も行った方がええのに」
「私ども、列車食堂従業員も勉強になりますか?」
「そうでンな、鉄道省はヨーロッパがええと思います。ヨーロッパの車両は長いだけで幅は日本とそう変わらんけど、アメリカの車両は全部が大きすぎて、参考になるかどうか」
「どこの料理が一番美味かったでしょうか」
鉄道はいい、飯の話をしてくれ、前のめりにハチクマが尋ねたが紳士は落ち着いた様子である。
「イタリアかな、半島の国で魚をよう食べるし。スパゲッチとか、あれは何ちゅうたかな、薄いパンにトマトソースやチーズをかけて窯で焼いた料理とか、どれも美味かったなあ。それでイタリアには時速百六十キロで音もなく走るムッソリーニご自慢の電車があって、試験では時速二百キロを出したそうです。軍が防衛上問題ありと言うから鉄道省は電化に消極的ですが、地形が似とる同盟国やさかい、日本でもいずれ走らせるようになると思いますわ」
ハチクマは、ちょっと困ったような顔をしていた。
「フランス料理は如何でしたか」
「どれもソースが美味いけど味付けは日本の西洋料理店の方が好みかな。フランスはな! ゴムタイヤを履いたガソリンカーがおってビックリしたわ! タイヤが潰れるから車体を軽く、車輪を多くせなあかんけど、線路に粘るから速いし乗り心地もええ。そのまま使えはせんけど、何か生かせると思うわ」
これはもう駄目だ、諦めよう、彼は鉄道の話で夢中になっている。ハチクマがそんな表情を見せると、従業員たちは苦笑した。
「イギリスの汽車には時速二百キロも出るようなのがあるけど、凝ったことをするし設備が古いままや、参考にならんと思う。走っている最中に客車だけ切り離したり、客車から汽車を操作したり、ようやるわ。特急燕もC53やめたやろ?」
確かに今年から、イギリス生まれの技術を使ったC53が、既存の技術を最大限に生かしたC59という蒸気機関車に置き換えられた。
大きくて重いので苦労はあるようだが、速くて扱いやすいので、機関士たちから好評である。
「ドイツは技術あるで。イギリスと並ぶ速さの汽車があるが、速いヂーセルカーもある。これからはエンジンの強い国が世界を席巻すると思う。優秀な同盟国に勉強させてもらいたいなぁ。驚いたンはドイツには飛行機の形をしたプロペラで走るガソリンカーがあって、飛行船と同じツェッペリンいう名前なんですが、これが滅茶苦茶速いんですわ。ところが連結できん、駅のごみ箱を吹き飛ばすで、使い物にならん。確か一昨年、解体してしまったそうですわ。ドイツ人は堅くて真面目ですが、時々頭のネジが飛んだようなことします」
いつの間にか従業員全員がテーブルに着き、紅茶やコーヒーを手元に置き、紳士の話に聞き入っていた。その表情は、真剣そのものである。
「大日本帝国は世界から見て、どうなんですか」
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