平野水①

 慣れぬ東北路の心細さと、三代目がいる心強さが、ハチクマを考え事に至らせたのだろうか。


 知識も経験も腕前も十二分で、いつコックになってもおかしくない三代目ではあったが、列車食堂コックは充足しており空きがなく、未だパントリーに甘んじていた。


 揺れの中で長時間立ち続ける過酷な仕事とはいえ、東京から大阪、神戸、下関、青森や新潟にも行くことができる列車食堂勤務は、旅行気分を味わえると人気もあった。

 ハチクマが珍しく長続きしている理由のひとつも、それが食道楽を満たすことができるからだ。


 おかのレストランであれば時々空きが出ていたが、限られた人数と設備で多種多様な料理を提供する列車食堂のコックは、三代目本人の強い希望であった。おかからの誘いを断っている、という噂も聞くほどだ。


 そんなハチクマの思案を察したのか、三代目が何気なく問いかけてきた。

「ハチクマさんがコックになって初めて作った料理は、何ですか?」

 何だったろうかと考えているうち、何やら嫌なものを踏んづけてしまったような妙な顔をした。

 あれは確か九年前だから、昭和六年──




 瓶を積み込んだ際、嫌な音がした。

 恐る恐る様子を伺うと、王冠が歪んでしまったのだとわかり、まず周囲に気付かれていないかを確かめた。


 ウェイトレスは食堂の準備に忙しく、コックは厨房の準備に勤しんでおり、ついこの間まで台湾銀行にいたレジは、値段を覚えるべく穴が開くほどメニューを見つめていた。屋根の上では、新米パントリーが石炭レンジの煙突掃除をしている。


 このパントリーが、どうもいけ好かない。

 どんな雑用を押し付けても嫌な顔ひとつせず、音も上げない。

 ついこの間レストランに入って、つい先日列車食堂に移ってきたばかりの癖に、やたらと料理に詳しい。

 何より関西、滋賀の生まれのせいか、おっとりしていて反りが合わない。

 しかも奴が、そんなことをまったく気にしていないことに、益々腹が立つ。今日のコックも同じことを考えており、ふたりで「滋賀作」と呼んで馬鹿にしていた。


 そうそう、瓶の王冠だ。

 炭酸水だから放っておくと気が抜けてしまう。

 注文が入ったら、まずこの瓶を空ければいいのだろうが、すぐに注文が入る保障などない。

 コックに謝ろうという考えは、言葉になる前に泡と消えていた。

 滋賀作のせいにしようにも、今あいつは屋根の上だ。


 すると唐突にひらめいて、頭上にともった電球を見上げた。

 コックのところへ行き、こそこそと話してから例の瓶を見せると、ちょうど煙突掃除を終えて、プラットホームに積まれた食材を運び入れる滋賀作を見て、ふたりはいやらしく笑い合った。


 東京駅を発車して、一時間。

 パントリーが鼻の穴を見せつけながら、先輩風を吹かせてきた。

「おい滋賀作、平野水ひらのすいって知っているか」

「ああ、矢羽根のラベルの。兵庫川西の名物ですわ、甘くて爽やかで私も好きです」


 パントリーがつまらなそうに舌打ちをした。

 滋賀の田舎者なら知らないと思っていたが、関西の名物だとは、うかつだった。誤魔化すのに必死で、考えが甘くなってしまっていた。


 そもそも明治の頃からあるもので、しかも列車食堂の商品なのだから、知らないはずがない。

 しかしパントリーは往生際悪くカチカチと音を立てながら瓶をいくつか取り出して、蓋のあたりを隠すように掴んで持ってきた。


「皿洗いしかできない滋賀作に、平野水を教えてやるよ。これがサイダー、これがレモネード、これがジンジャエール、これがレモラだ」


 矢継ぎ早に渡された瓶を受け取ると、今度はコックが鬼瓦のような顔をして呼んできた。

「おい滋賀作、貴様に特別に石炭レンジを見せてやろう。早く来い」


 一旦、瓶を置こうとするとパントリーが

「倒れて割れたらどうする」

と言い、では仕舞おうとするとコックが

「早くしろ」

と言う。


 滋賀作は、あっと小声を出してパントリーに何か申し出ようとしたが、またコックが

「二度と見せないぞ」

と急かすので、仕方なく瓶を抱えたまま石炭レンジの勉強に向かった。


「いいか、上がコンロだ。鉄板の真ん中が一番熱く、その脇、そして端に行くにつれ火力が弱くなる。こら、もっと近くに寄れ。

 火力は一定なので調整は場所で行う、飯炊きでは最初は強火、吹き上がったら羽釜とコンロの間に、この蛇の目という輪を挟む。ほれ離れるんじゃない。

 下はオーブンだ、もっと近付け、よく見ろ。

 そしてここが投炭口だ。どうだ見えるか。石炭は、隣の箱に仕舞ってあるのは知っているな」


 赤々と燃え盛る石炭を見つめていると、歪んだ瓶の王冠が投炭口めがけて飛び込んでいった。

 同時に、手にしていた瓶の中身が勢いよく吐き出され、石炭レンジは断末魔の叫びを上げた。

 真っ赤に燃えた石炭が、みるみる黒くなってしまった。


 コックは硬直し、パントリーは青ざめ、レジは目を見開き、ウェイトレスは息を呑み、滋賀作は空になった瓶を抱えたまま呆然としていた。

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