スチュードタング①
チョビ髭の男が恰幅の良い身体を小さく丸めて眉間に深いしわを寄せ、首を右に左に傾けながら開いたメニューを見つめていた。その姿は達磨か起き上がりこぼしのようで、何とも滑稽である。
スッと背筋が伸びると同時に腕が上へ、腹が前へと突き出された。
パタパタとやってきたウェイトレスに、チョビ髭男が再び眉をひそめつつ、ひとつのメニューを指差した。
「何だね、このス、ス、ス……」
「スチュードタングですね、タンシチューです」
するとチョビ髭男の丸い顔がみるみる真っ赤になっていき、眉と目尻が吊り上り、口角は力強く左右に引っ張られ、端から噛みしめられた歯が覗いた。
身体が二倍にも三倍にも膨れ上がるような威圧感が溢れ出たので、小さく整えられた口髭はより一層小さく見えた。
ウェイトレスが危険を察知して後ずさりをするとドカン! とテーブルが鳴り、窓辺の花もソース差しも驚いて飛び上がった。
「敵性語ではないか!」
この一喝に、弾むような会話も、皿と
ゴトゴトと車輪が重々しく跳ねる音と、ジィィィッと油が弾ける微かな音だけが響く、深夜の夜行列車のような静寂が訪れた。
「先の大戦では協力関係だったのに、こっちが困っているときは非難ばかりで、連携したかと思えば手の平を返す。そんな米英の奴らの言葉など、使うべきではない!」
数々の事変を繰り返して本格化した大陸での戦闘は、泥沼の様相のまま三年も続いており、その終わりが見えなかった。
空爆をして非難され、和平交渉は決裂し、血みどろにして大混乱の戦闘を繰り返して都市を制圧、東亜の安定を宣言すると批判され、ソビエトとも衝突し、アメリカの経済制裁を受け、相手の抵抗はとうとう反撃となり、敵国の輸送路遮断に協力したイギリスは手の平を返した。
互いに接近し合っていた日本とドイツとイタリアの三国で同盟を結び、世界は二分されることとなった。
「五族協和の王道楽土という満州国の理念が、何故わからん!
ウェイトレスに熱弁を奮ったところで、どうしようもないことなのだが、茹で蛸のように真っ赤な顔で、腕を振り上げながら訴えられる愛国心の暴走は、誰にも止めることができなかった。
「そのようなときに何だ、これは! メニューなどと書きおって、敵性語から始まっているではないか! 日本には『献立』や『お品書き』という言葉があるだろう、即刻改めろ!」
時々ごく稀にではあったが、チョビ髭のような極端な国粋主義や、民族主義に染まった意見を巷で耳にすることがあった。
実際、そのようにすると生活が不便極まりないので反応は冷ややかであったが、これに反論すると愛国心がないのかと言われてしまいそうで、ただ黙って聞いていることが多かった。
できる反撃と言えば、言い替え方を質問攻めするくらいだろう。
「それに洋食ばかりではないか! 刺身や煮魚や焼魚はないのか!」
運の悪いことに、今では希少になってしまった洋食しか提供しない食堂車である。
列車が違えば昼定食に焼魚、夕定食に煮魚や刺身が供され、一品料理に親子丼や鰻丼があり、幕ノ内弁当の販売もあっただろう。
チョビ髭男の不運を呪った。
「それで今日の夕定食は何だ」
ウェイトレスは恐る恐る、フライドフィッシュとビーフステーキです、と告げた。
列車食堂に怒号が響き、窓辺の花とソースは再び跳ね上がり、恐怖に互いの身を寄せ合った。
周りの客は敵性料理を食べている気まずさから手を止めたままで、この間にみるみる料理が冷めていく。
しかし温かいうちにと口に運んだところで、今の気分ではきっと砂を噛むようであろう。
普通のコックであれば、嫌なら出ていけ弁当を買えとつまみ出すところだったが、今日は普通ではなかった。
油の音が止んだと思うと、パントリーが盛り付けた料理をハチクマ自らが給仕して、チョビ髭の元へと向かっていった。
「当列車食堂のコッ……調理師です。ご注文にお困りのようなので伺いました」
えんえんと怒鳴り散らされたウェイトレスは、ハチクマの陰に隠れてチョビ髭をキッと睨みつけていた。もうひとりのウェイトレスは、お気になさらず、お召し上がりくださいと各テーブルに声を掛けて回っている。
「今、大日本帝国がどんな時かわかっているのか! 敵性語ばかりを並べて、敵国の料理ばかりを供して、日本食堂は緊張感がない!」
大事な職場を非難されて、さすがのハチクマもカチンときた。眉間に一本のしわが寄り、奥歯にギリギリと力が入った。
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