カレーライス②
あっという間に食堂の席は埋まり、客が後方車両へと列を成していた。
値段を聞いて断念する者は、予想に反してひとりもいない。余っていたはずのカレーとウスターソース、卵が足りず、その後の営業に差支えが出ることは明白であった。
駅通過時に立会いの駅員へ投げ文をして、パントリーに飯炊きを頼む。あとはひたすらカレーとライスを練るだけである。
寿命を宣告されたフライパンは、最後のご奉公と言わんばかりに老体に鞭を打たれ、馬車馬の如く働いた。休む間もなくカレーとライスを混ぜ温める。
この一日で全身にカレーの匂いが染み付いてしまうのは間違いない。他のフライパンは加勢してしまうと本来の役目を果たせなくなるので、古兵フライパンの孤軍奮闘である。
波寄る相手を蹴散らすたびに、体の芯までカレーに染まっていく姿は痛々しく涙を誘う、ということはなくハチクマも古兵フライパンも忙しさで目を回しそうになっていた。
ぐぐっ……と、ブレーキが掛かる感覚が足から伝わった。停車駅が近いのだ。
客はもうまばらで、カレーもウスターソースも卵も底を尽きかけていた。ここで注文品を積み込むことができれば、夕食客に対応できる。
「カレーライスを食わせてくれ、これと同じものを」
今度は反対側から客が来た。ブレーキが掛かったことで、食堂車の匂いが前方の客車に押し流されてしまったらしい。みるみる席は埋まり、並んで待つ客まで現れた。
「カレーライスは、もうありません。売り切れです」
「次の駅で積まないのか?」
ハチクマが唇を噛んで唸っている。古兵フライパンは、もうへとへとである。皆で顔を見合わせた結果、嘘を言っても仕方がないと意見が一致した。
「注文しています」
「なら座って待つ。積まなかったら諦めるよ。なあ! 皆、それでいいだろう?」
待っている客の全員が、おおっ! と声を上げた。値段を説明しても、誰ひとり欠けることはなかった。全員が見ず知らずの間柄なのに一体どうしたのだ、この結束力は。
停車駅には注文品が準備されていた。
注文したのだから届いて当然で、そうでなければ困るのだが、この状況を考えると複雑な気分である。
搬入扉を開けて積み込もうとしたところ、弁当売りが一斉に駆け寄り、食堂車を取り囲んだ。
「カレーを売らんでくれ! 弁当が売れなくて困るじゃないか!」
弁当売りに平謝りして、急ぎの方は弁当を! と食堂に向けて声を掛けた。食堂車のコックが駅弁の宣伝をするとは、何とも妙な光景である。
しかし、全員がカレーライス待機中の身体となってしまっている。
古兵殿の「もう勘弁してくれ」という声が聞こえた。ハチクマは慈しむような目で彼を見つめて
「えらいすんませんなあ」
とつぶやいてから、再び戦場へと送り出した。
「バカモン!」
日本食堂本社に雷鳴がこだました。怒られているのは、もちろんハチクマである。
レジの緻密かつ芸術的な勘定により、列車食堂に売上の狂いは発生しなかった。だが客のひとりが日本食堂本社宛にお礼の手紙を送ってしまったのである。
「泣かせるじゃないか、ハチクマ。どうだ、列車内営業取扱手続を破り、メニューにないものを客に出して感謝される気分は」
目に怒りを満ち溢れさせる支配人に、ハチクマは正座して詫びていた。分厚く柔らかい絨毯のお陰で、足が痛くならないことだけが救いであった。
しかし難波の混ぜカレーとは違って辛みが少なく深みのある味わいだったのは、やはり高級な列車食堂のカレーライス故のことだろうか。卵、ウスターソースと混ぜると上品なカレーに果物のような香りが加わり卵の甘さで酸味がほどよく抑えられ云々と、味の感想まで事細かに記してあった。
手紙を怒りにまかせて読み上げている支配人は、その部分に差し掛かると次第に口調から棘が取れて、とうとう生唾を飲み込んだ。
「どうして、このようなものを勝手に作った!」
「研究を兼ねて、まかないとして作ったのです。客にどうしてもと押し切られ、仕方なしに作ったのです。すると続いてくる客が口を揃えて、同じカレーライスをくれと言うもので、信じられない数を売ってしまったのです」
そういった必死の弁明むなしく
「言い訳無用!」
言い訳させたのは支配人なのだが、それは腹の底に仕舞った。今はただ、絨毯の感触を額で感じるだけである。
「それでその、一体どんなカレーライスなんだ」
「手紙に記してある通りでございます」
そう答えると
「だから、どんなカレーライスなのかと聞いているんだ! 四の五の言わず作って持ってこい!」
脱兎のごとく支配人室を飛び出したハチクマは、厨房へと駆け込んだ。
支配人室にはよく呼び出されているが、
借りてきた猫のように緊張した面持ちで、こそこそキョロキョロと隅にいると、同期のコックに見つかった。
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