ハヤシライス①

 まさか私が、このような生活をするなど夢にも思わなかった。

 そう言うと憧れや願いを叶えたように聞こえるが、そういうことではない。では夜毎枕を濡らしているのかと問われれば、思わず笑ってしまうだろう。


 モダンな生活に憧れた私は松江の親元を離れ、東京は目黒の結婚式場、雅叙園がじょえんに勤めることになった。

 贅を尽くした竜宮城のような職場で、紳士的な上司や優しい同僚に囲まれながら、ハレの日を祝う毎日は忙しくも充実していた。

 こんな日が永遠に続かないものかと、願ってやまなかった。


 そんなある日、取引先である京都の呉服屋の旦那様が、妙なことを言い出した。

「大陸がえらいことになってきたが、あんたがつまらん兵隊に嫁入りした末、未亡人なんちゅうのは似合わん。しかし偉い兵隊に嫁入りして家のこもっているのも、よう似合わん。兵隊に嫁入りせんと、今の仕事を続けられる方法があるさかい、一年ばかし待っとってや」


 そして年が明けると、旦那様は上機嫌で私の元にやってきた。

「近頃、ちまたで贅沢するな節制せい言うのを見かけるが、獲って食わんのが一番の贅沢や。そやから正月は、汽車に乗って蟹を食うてきた」

 豪快に笑った後、たもとから一枚の写真を取り出して私に見せた。

 私とそう変わらない歳のコックが、窮屈そうな厨房に立っている写真だった。


「そんな写真で申し訳ない、伝手つてを使ってようやっと手に入ったのが、そんだけなんや。唐突で申し訳ないが、この男と会ってくれへんか。そちらのご両親に話はしてある、蟹はそのついでや」


 旦那様の話によると列車食堂のコックで、その中でも異例の若さだという。

 頼りなく見えるが、どういうわけだか人に頼られやすい性質たちで、料理の腕もあるから仕事に困ることはない。

 食道楽で浮気の心配もなく縛られること、人を縛ることを嫌う性分だから、もし結婚しても今まで通りに仕事ができるだろう。

 徴兵検査で肺に影があると言われてしまったのが難点だが、裏を返せば戦地に送り込まれる心配がない。


「気に入らんかったら遠慮のう断ってもええ、嫁入りしてから嫌になったら三行半みくだりはんを突き付けたらええ。戦地から帰ってきた中に勇敢なのがおったら、そっちに乗り換えてしまえ」

 そんな気軽な見合いなどあるのかと思ったが、旦那様に頭を下げられては断るわけにはいかず、お受けすることにした。

 すると旦那様は鋭い目つきで

「掴みどころのない男や。盆休みを狙って大津の家に不意打ち掛けるから、宜しゅう頼むわ」

 私は、とんでもない人と見合いをすることになったようだ。




 今までに何度、惜しいことをしたと思っただろう。そういう思いが、彼を頭の片隅に長らく居座らせていたのかも知れない。

 滋賀の大津から私の呉服屋にやってきた青年は、人の心を掴む性質だった。

 常に笑顔でいられるが、商人という雰囲気ではない。武家の家柄なのでキリリとした立ち居振る舞いではあったものの

「うちの膳所ぜぜ藩は琵琶湖に突き出た城を持っていましたから、石垣が波に洗われるもので、貧乏やったそうです。維新の後、さっさと城を潰してしまったほどです。そんなんやから誇りなんかで飯を食えないことは、よう知ってます」

と、余計な誇りは微塵もなかった。


 店に入ってすぐ客の心を掴み、商談では礼節を重んじていながら腰が低い。しかし客のいいようにされない雰囲気が醸し出されている。

 意外なことに手先が器用で、小さい着物や帯を千代紙で作り、客への説明や店の飾り付けに使って新規客を獲得していた。

 売り手よし、買い手よし、世間よしの近江商人を期待していたのだが、いい方に期待を裏切られた。こういう商人は、なかなかいないものだ。


 面白い青年だと思い、すぐに可愛がるようになった。

 手が空いているときは、取引先に手伝いとして連れて行った。

 と言っても、入って日も浅いうちから事細かに教えても仕方ないので、私の仕事を脇から見せているだけだ。

 が、その数日後には見聞きしたものを店の陳列や蔵の整理に生かせないかと、相談を受けることが多かった。

 私や番頭のようにドンと構えることには向かないだろうが、彼のような柔軟な発想が、年々厳しくなる呉服業界には必要だと思えたのだ。


 私が取引先との食事に出掛けようとすると、彼の仕事がひと段落したようで、今日の客人と彼だったら馬が合うかもしれないと思い、誘ってみることにした。

 訳のわからない様子で荷物を抱える彼を連れ、先斗町ぽんとちょうの料亭に入った。


 今日の相手は、東京にある料亭の主人だ。

 結婚式を専門に執り行う新しい料亭を計画しており、そこで貸し出す晴着の相談であった。

 このような話が、京都の隅で細々と営んでいる私の店に舞い込んだことに驚かされた。最終的には大きく格式のある呉服店が契約するのだろう。

 ならばせめて、彼の話を京都土産にしてもらえればと思ったのだ。


 食事をしながら彼の工夫と実績の数々を話すと主人は感心していたが、当の本人は凝り固まっており、出された料理を私たちより一足遅れて砂を噛むようにチマチマとつまんでいた。

 いきなり、かしこまった場に連れてきたのは、間違いだった。申し訳ないことをしてしまったと反省し、主人同士で仕事の話に精を出す。

 いよいよ新しい料亭の話になった頃、部屋中に叫び声が響いた。

「ど、どないした!」

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