第72話 野望と記憶の狭間

 今日も敦也の帰りが遅い。ここ数日前から何か様子がおかしい。冴子との営みも遠ざけるようになった。あれほど冴子の体を求めた敦也に何があったのだろう。

「あなた、今日も遅いの?」

「わかんねえよ」

 結婚以来初めて口にした敦也の乱暴な言葉に、冴子は敦也の心に憎しみがあるのを感じた。

「どうしたの?私に何か」

「分かってんだよ、オレはな歌子から全部聞いてんだよ」


「歌子って誰?知らないわ」

「お前、ベンツの雨宮知ってんだろ、その雨宮の彼女だ」


「雨宮さんは知ってるわ。車も買ったし」

「雨宮はうちの会長の秘書だ、その雨宮の彼女をオレが知ってて当然だろ」


「雨宮さんは下の階の蘭さんと付き合ってるのよ」

「雨宮が蘭と付き合ってる………本当か? 蘭さんは結婚したんじゃなかったのか?」


「正式な結婚じゃなかったの。今は蘭さんと雨宮さんは縒りを戻したのよ」

「じゃあお前は雨宮とは何も………?」


「私と雨宮さんを疑ってたの?そんなこと絶対ないわよ」

「そうだったのか、じゃああれは歌子の嘘か………」


「あなた、その歌子って人とどこであったの?」

「七十士会の集まりで焼肉店の駐車場に車を入れた時、雨宮と歌子が車の中で言い争っていたんだ。オレの車の隣だった」


「最上さんの車ね」

「雨宮がオレに『原口さん一緒に行きましょ』と二人でエレベーターに向かった時、歌子がオレに『あなたが原口さんなの? あなたの奥さん、その翔馬と浮気してんのよ。かわいそ』ってな。


「でも言ったでしょそれは噓よ」

「………分かった、雨宮の口を割ってやる。それからだ」


 敦也はまだ疑いを解いていない。


 歌子は最上邸にいた。池の上から流れる風は、涼しげにレースのカーテンを揺らしていた。

 二人の女の争う声を静めるように。


「理子さん、翔馬さんね、よかったでしょ。ハンサムだし…ウフフ あれも上手かったでしょ?」

「歌子さん何言うの、翔馬さんとは何もないわよ」


「理子さん、私知ってるの、翔馬さんの他にも玉川さんとか、あなたって好きよね」


「歌子さん、あなた何が目的なの?」

「わかってんでしょ、私今困ってるの」


「お金?お金なんて持っていないわ」

「そうよね、持ってなわよね、旦那様に全部とられたんでしょ」


「もともと店は最上のものよ。私は権利はないの」

「権利はないですって?あなた妻でしょ。半分はあなたのものよ」


「そんな権利なんて死んだ時のものよ」

「死んだ時なんて大袈裟な。生きてたってもらえるわよ。皆んなやってるわよ。テレビの前で泣いて」


「テレビで?」

「そうよ、週刊誌だって書いてくれるわ

『資産家夫婦を襲った悲劇、若い人妻の狙いとは?』なんてね」


「最上にはそんな女はいませんよ」

「いるわよ、知ってるでしょ、冴子って女」


「最上と冴子さんはそんな関係じゃないわよ」

「あってなくてもいいの、世間がかってに作ってくれるから」


「かってに作ってくれるですって?」

「理子さん、あなたが一番よく知ってるはずよ。リゾートホテルのこと。あんなすごいことやった人なんだから。あなたって、ほんと見習いたいわ」


「冴子さんをどうするの?」

「理子さん、あなたと私、冴子、三人とも赤坂の出よね。あの冴子一人だけ呑気に暮らしてるのよ。幸せな妻なんて演じちゃって」


「結婚するのは悪いことじゃないでしょ」

「あの女はどこからか流れてきて、赤坂面してやってたけど、さっさと逃げた赤坂の面汚しよ」


「面汚し?………」

「そうよ、だから私一手打ったの、今頃もめてるわ、きっとウフフ」


「もう何かやったの?」

「理子さん、あなたのためでもあるのよ。翔馬が旦那様の近くにいるとあなたも不安でしょ。

 いつバレるか分かんないわよ。あなた、何も感じないの?」


「翔馬はあなたの恋人でしょ。あなたは恋人を捨てるの?」

「だから言ったでしょ、あなたのためだって、私は自分を犠牲にしたのよ。あなたにも責任あるわよね」


「分かったわ、でもお金は無理よ」

「皆んな知ってるのよ。旦那様に内緒にしていることも。そんな危険なとこによく居られるわね。お金よりも大切だと思うけど」


「私は何をすればいいの?」

「また来るわね。


 敦也に親切な情報の提供があった。差出人不明の一通の封書。現代は封書自体が怪しい感じがする。こっそり秘密を知らせる。嘘でも本当でも封書であれば信用したくなる。旧郵政省の築いた功績といえる。


「敦也様へ奥様は子どもの敵です一児の母より」


 なんだこれは!?


 敦也は仰天した。冴子については歌子の件がある。あれは歌子の嘘と分かったが、オレに隠してることが本当にあるのでは?

 だが今度は誰が書いたモノか不明の怪しい手紙。しかも子どもとは?その意味を測りかねた。

 幼児趣味の男は知っている。だがこの子どもちとは何のことだ。

 たて続けに起きた冴子への疑惑の芽、事実の否かはともかく、敦也は冴子を憎む者の存在を知った。妻を憎むヤツとは誰だ!


 敦也の所属ゴルフ倶楽部でコンペが開催された。主催したのは七十士会の会長、最上。

 ハンディキャップ5以下のメンバーがずらりと並ぶ、豪華なコンペであった。


 優勝したのは七十士会のメンバーの一人A氏。敦也は善戦したがハンディキャップ4は厳しい。みごと(?)ブービーに輝いた。

 コンペ終了後A氏の祝勝会が赤坂のスナックを貸切りで開催された。


 一通りの挨拶と商品の授与が終わり歓談の時間となった。


 会長の最上が壇上に上がって言った。

「皆さん、我々七十士会の中から少年を非行の道から救いだした、真の武士が現れました。

 倉橋君、君から説明して下さい」


 倉橋が壇上に上がった。

「原口さん、あなたもここにきて下さい」


「なんだ、ブービー賞の答辞か?」 

 どっと笑いが起き会場は一層盛り上がった。


「私の老人ホームを毎週訪ねてくれる少年と少女がいます。二人が来てくれるようになって老人たちは元気を貰っています。その少年を非行の道から救いだしてくれたのが、原口さんと奥さんの冴子さんです」


「いや、ボクは何も、ほんとに何も………」


「その少年だけでなく原口さんと冴子さんは高校生の少年も助けました。彼は今、医者を目指して頑張ってます」


 倉橋につづき会長の最上が言った。

「皆さん我々七十士会は武士道精神で、人を助けることを目的に集まった会です。原口君と奥さんの冴子さんに習い精進しましょう」


 拍手と喝采で敦也はヒーローになっていた。

 酌がれて飲んだグラスの数は10杯で後の記憶がない。歌った曲は5曲で後の記憶がない。

 多分これほど称えられたブービーはいないだろう。


 老人ホーム理事長の倉橋と七十士会の会長の最上の言葉で、敦也は冴子があの封書とは逆に人助けをしていたことを知った。


 記憶が戻ったのは翌日の夜。目を覚ましたベッドの横に冴子が座っていた。敦也は冴子の手を握りベッドに引きずりきこんだ。意識不明の男は一瞬に猛獣に変身して冴子に襲いかかった。

 一週間の飢餓状態は食っても食っても終わらない。また朝を迎え再び意識を失った、


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