第6話

夏の大会まで自然と連絡の回数が減った。

四月の春季地区予選大会では篠井のところとはあたることなく勝ち上がった。県大会ではやはり投手陣の弱みが出てしまったがなんとか持ちこたえ、県ベスト八に入った。水守はすべての試合を応援スタンドで見守ったが、そこまで落ち込まないことを不思議に思った。


怪我は一ヶ月で痛みが無くなった。その間筋トレに励み、痛みが引いたあとはフォームの改善に尽力した。よくよく顧みてみれば、身長が伸び筋肉が増え体格が変わっていたのに投球フォームが以前のままで、その負荷が肩にきたのではないかと推測された。

慎重な調整の結果、制球力はやや落ちたが得意のカーブは磨きがかかり、慣れているはずの部員も最初は打てないほどだった。筋トレの効果か球速も少し上がり緩急による揺さぶりが効果的になった。調子を取り戻したと実感できたのは六月中旬の練習試合。

夏に、間に合ったのだ。


そうして訪れた夏の大会、県地区予選の抽選日。

同級生の主将がシードのくじを引くのを見守り、その後の篠井の高校の順番を周りと軽く雑談しながら待っていた。篠井とよくバッテリーを組んでいる捕手が壇上に上がってくじを引く――勝ち上がれば、準決勝であたることになった。


抽選会場から帰るとき、偶然少し遠くにいた篠井と目が合った。しばらくじっと見つめ合ったが、どちらともなく視線を外した。


負けたくない。勝ちたい。

篠井と試合がしたい――


きっと、篠井も同じ気持ちだった。

なぜだか、そう思えた。




最後の公式試合だと気負うこともなく、チームメイトの打線も奮いコールド勝ちも交えて緒戦を制覇していった。準々決勝はさすがに苦戦したが、なんとか勝利を収めた。


準決勝前日の対策ミーティングでそれまでの夏の大会の篠井の分析をしていたが、改めてそのすごさを実感していた。けれど去年と変わらず、チームの馬力はこちらが上だ。それでも侮りはしない、全力で勝ちに行く。

水守も他のチームメイトも、同世代の怪物に負ける気はなかった。


そして迎えた準決勝の日。

水守も篠井も先発ではなかった。篠井は連投になるのでなるべく休めているのだろう。わかっていたことだが少し心配になる。水守は単に今回はリリーフになっているだけだった。


両校無失点で迎えた五回表、水守の高校の先発が四番に二塁打を打たれたのを皮切りに二点連取されてしまった。

昨年よりも随分と早いのは、シニアで有名だったスラッガーが篠井のチームに入っているからだ。一年生にして四番、今大会の打率は脅威の四割超え。

昨年四番だった篠井は七番打者になっている。五・六番にも良い打者が入っているので篠井は下位のクリンナップとして七番なのだろう。いまはまだベンチだが必ず出てくるので、水守は対戦するのをとても楽しみに試合を見ていた。


なんとか二点で抑え攻撃に移ると、こちらもお返しとばかりに安打を連発し、四点入った。

六回表、選手交代のアナウンスが流れる。水守は走ってマウンドに向かった。投球練習をし、調子を確かめる。良い調子だ。

ネクストサークル付近にいた打者は七番――代打、篠井。どうやらあちらも交代のようだ。


マウンドでは表情を変えない水守だが、嬉しくて、わくわくして、思わず口角が上がってしまう。

それに気づいた篠井も、ほんのりと楽しそうに笑っていた。


捕手からサインが出る。

一球目は内角高め、渾身の直球。見送り、ワンストライク。

二球目のサインは同じコースへ外す……遊び球ボールカウントはなしだ、却下。首を振った意図が伝わったのか次のサインは内角高めにカーブだった。うん、それがいい。空振り、ツーストライク。

返球されすかさずサインが送られる。内角高めにチェンジアップ。打ち上げさせる? いいね。うなずき投げる。

水守のチェンジアップは初速が直球と変わらないので打者はよく騙されてくれる。対策はされているだろうが、咄嗟の身体のぐらつきはどうしようもできない。

篠井は体勢を崩したがなんとか球をとらえた、が、狙い通り打ち上げてしまいファウルを一塁手が捕捉した。ワンナウト。

篠井を凡退にし、内野も外野もベンチも応援スタンドも盛り上がった。


(嬉しい、楽しい! けど、まだまだ始まったばかりだ)


「ワンナウトー!」


水守は気合いを入れ直して野手に声掛けし、八番打者に意識を切り替える。八番、続く九番も三振に抑え、きっちり九球で締めて交代となった。


「とーる! 調子めっちゃいいな!」

「おう!」


捕手の有田に声をかけられて満面の笑みで応えた。本当に調子がいい。


「さーて、やっと篠井の登場だな」


その言葉にマウンドを見た。篠井が投球練習をしている。

やがて選手交代のアナウンスが流れた。こちらの攻撃は下位からだが速球には慣れている。しかし絶妙なところに決まる豪速球はわかっていてもやはり打てない。こちらも三者凡退で六回裏が終わった。


篠井は誰とも笑い合わずベンチに戻った。その様子に思い出し笑いがしばらく収まらず、本当にコントロールを乱すところだった。再度気を引き締め直し打者に集中する。


かわし、打たれ、捕り、かわされ、打ち、捕られ、九回表、二対四。

ここで相手が二点以上取らなければ、こちらの攻撃はないバツゲームになる。

打者は今日二打席目の七番、篠井。

篠井はでかいのを一発やられる可能性がある。打たれたら駄目、でもかわすのは難しい。一打席目で簡単にアウトを取れたのは、フォームの変わった水守の球に慣れていなかったと推測されるからだ。直球もカーブもチェンジアップも見せた。他の打者に放ったスライダーも見せた。

この打席が本当の勝負だ。


一球目、外角高めにカーブ、ファウル、ワンストライク。

二球目、内角高めに直球、右翼のスタンドにファウル、ツーストライク……外角に入っていたら本塁打だった。篠井には投げる球がない。けれど、諦めはしない。

三球目、内角高めにカーブ、ファウル、ツーストライク。

四球目、内角低めにスライダー、外れてワンボールツーストライク。

五球目、同じコースに直球……ああ、ここぞというときに限って、はずれてしまうなんて。狙いが甘くなった直球は真ん中寄りになり……快音が響き、本塁打となった。

三対四。

篠井の前に出塁者がいなくてよかったと思うべきだろう。


「透、どんまい」


有田がマウンドにやってきて声をかけてくれた。


「ん、甘くなっちまった。でも、既定路線だな。打ち取りたかったけど」

「あれ決まってたら打ち取れたよなあ! ま、篠井はしょーがねーか。次は三球で終わらすぞ!」

「おう!」


ベンチに戻った篠井はチームメイトと笑い合っていた。本塁打は皆我慢しきれなかったか、と笑みが浮かぶ。打たれたのは悔しいが、嬉しそうに笑う篠井を見るとこちらまで嬉しくなってしまった。

とはいえ、チームまで負けるわけにはいかない。

続く八・九・一番は完全に抑え、三対四のバツゲームで幕を閉じた。


試合終了のサイレンが鳴る。

勝った。喜びが湧き上がる。寄ってきた捕手、内野の仲間たちと喜びを交わしながら整列する。

目の前には、昨年と同じように篠井がいた。うつむき気味なので帽子で顔が見えない。

帽子を取り、大きな声で挨拶をし、礼、顔を上げて、右手同士で握手。

その、瞬間。


「――っ!」


水守は、篠井に抱き寄せられていた。


熱い体温が伝わる。

首筋の汗が右頬にふれる。

汗のにおい、土埃のにおい、ミントのような爽快なにおいに包まれる。


「楽しかった。頑張れよ」


耳元にささやかれる。

動転していたが、反射的に水守も抱き返した。


「俺も楽しかった。頑張る」


数瞬ののち、力がゆるめられた。

顔を上げれば、篠井は太陽のように笑っていた。その眼にはうっすらと涙の膜があり。


――篠井に涙は似合わないけれど。


その涙も笑顔も、とても美しいと思った。




篠井に激励されて気合い充分で臨んだ決勝戦。奮戦したが、負けてしまった。

全力の結果だ。高校野球生活が、終わった。万感の思いに涙したけれど、後悔はなかった。それ程、最後の試合を全力で楽しめていた。



野球部を引退して後輩をしごいたり、大学進学について考える八月初旬、中里に相談を持ち掛けたりするなか、篠井とも会うことになった。

また公園に行きたいと言うので、内心どきりとしつつも了承した。

試合の前に会ったのは三月だった。こうやって会うのは久しぶりだと思いながら、並んでベンチに座る。


「水守は大学どーすんの?」

「あー、ちょっと悩んでて。篠井は?」

「S大のスポーツ科学」

「ああ、S大かあ、神宮優勝したんだよな」


S大学は春季の六大学リーグで連続優勝した古豪の名門だ。多くのプロ野球選手が排出されている。


「そっか、今度は強豪に行くんだな」


高校は強豪校に行かなかった篠井だが、目標のために大学は強豪校に行くのだろう。

プロになるという、目標。

篠井には球団のスカウトがあったのではないかと専らの噂だったが、それは真実だと水守は思う。けれど篠井は大学進学を選んだ。スポーツ科学部に行く辺り、なにか大学でも目標があるのだろう。

いつか話してくれるといいなと水守は思った。


「まあな。で、なにを迷ってんの?」

「家から通いたいんだよなーって。そうなるとひとつしかないんだけど、そこだと行きたい学部がないんだよね。でも、まあ、ほぼそこに決めてるんだけど」

「ああ……D大にするんだ? 学部どうすんの?」

「俺もスポーツ科学にするつもり。先輩もいるし」

「中里先輩?」

「そう」


中里に相談したのはこのことだった。学部の講義内容を聞いて、興味を持てたのでそこにしようと思っている。示し合わせたわけでもなく篠井と学部が同じで、少し嬉しかった。


「仲良いよな」

「リトルからだしな、めっちゃ良い先輩だし」

「そっか」


話が切れる。

篠井から話してくれるといいと思っていたが、この機会を逃すともう話してはくれないだろう。ずっと疑問に思っていたことを、訊くならいまだ。

篠井の、挫折に関わる部分。

少し緊張しながら、水守は口を開いた。


「……なあ、なんで高校は強豪に行かなかったんだ?」


答えてくれるだろうか。

篠井は少し口ごもったあと、教えてくれた。


「……スカウトに失望して、スポーツ推薦の進学はしないことにしたんだ。そうすっと、自分の学力で行けるとこになるだろ? その中で、なるべく設備が整ってる高校とこを選んだってわけ」

「そっか……」


うちに来てくれれば、とも思ったが、口には出さなかった。過ぎたことを言ってもしょうがない。

その代わりに、言うか言わないか迷っていたが、言いたくなってしまったことを言うことにした。引かれませんようにと願いながら、右側にいる篠井の横顔を見つめた。


「篠井と同じ大学に行きたいと思ったんだ」

「え?」


篠井が驚いてこちらを向いた。


「最後の試合で、ホームランのあとベンチで笑ってただろ? あれ見てさ、俺も一緒に笑いたいなって思ったんだ」

「水守……」


あまりにもジッと見られるので、恥ずかしくなってそっぽを向いて笑った。


「今度は俺が恥ずかしいこと言ってんな」

「……でも俺も、同じ大学行けたら楽しいだろうなって思ってた」

「マジ? よかった、俺だけじゃなくて」


よかった、引かれなかった。それどころか、同じ気持ちだったと知って嬉しくなる。


「けど、よく考えたらな、俺は、篠井と対戦がしたいんだ。だから、今度は大学野球で対戦しような」


所属する連盟が違うので、そう簡単には公式戦で対戦は無いだろうとお互いわかっている。

けれど、おう、と篠井は笑って答えてくれた。

篠井との対戦はすごく楽しかったしわくわくした。

また、あの気持ちを味わいたい。


「けど同じ大学、学部、野球部、いいなあ」


その魅力もやはり捨てがたかった。


「……大学行っても、こうやって会おう」

「うん」


笑顔でうなずいた。当たり前のようにそう言ってくれることが、本当に嬉しかった。

水守の返事を聞いた篠井はニカッと笑ってベンチから立ち上がった。


「なあ、キャッチボールしよう」

「おお、いいな。あ、グラブ持って来てるし! 先に言えよ! 家から持ってくる!」


篠井がバッグから取り出したグラブを見て目を剥いた。走って家からグラブを持って来て、そして、軽くキャッチボールをした。


(篠井とキャッチボール、初めてだ。……あ、いや――そういえば初めてじゃないんだ)


《俺が野球を始めたきっかけは、五歳のとき同い年の子とキャッチボールしたことだったんだ》


五歳の頃、篠井とここで、キャッチボールをしたことがあったのだった。

水守は覚えていない、けれどふたりだけの出来事。


公園に行きたいと言い、グラブを持って来ていた篠井。

嬉しそうで、けれど哀しそうだった。

水守が、覚えていないから。


(おまえにそんな顔、似合わないよ――)


笑って欲しかった。全力の笑顔で。太陽のような、輝く笑顔で。


《ねえ、ひだりききなの!? すっごーい!!》


「――っ!」


湧き上がるように、心の奥から記憶がよみがえる。

水守は目を瞠った。


まだ遊具があった頃、ひとり壁に向かって投げたボールは、砂場で遊ぶ少年に向かっていき、少年はそのボールを、左手で、返してくれた――


《しのいやまとくん。さうすぽーになってね!》

《うん!》


「――篠井」


「ん?」

「サウスポーに、なったんだな」

「!!」


じっと、見つめ合った。


目を見開く篠井の顔を見ながら、水守は昨年の夏に出会ってから――いや、再会してからいままでのことを思い返していた。


最初は反発心しかなかったのに。

どうしてこんなにも特別になったのだろう。

どうしてこんなにも、好ましいと思うのだろう。


出会えてよかった。

篠井が幼い出会いを覚えていてくれてよかった。

そして成長した水守のことを知りたいと思ってくれてよかった。


篠井を知らなかった頃にはもう、戻れない。戻りたいとも思わない。

篠井と過ごしてきた日々は、きっといつまでも、鮮やかに、輝き続ける。


「あのときの約束、叶えてくれてありがとう。篠井と野球ができて、すごい嬉しい」


五歳で出会ったあの頃の気持ちがよみがえる。とにかく嬉しかった。嬉しくてしょうがなかった。

だから、もう会えないと理解した反動が酷かったのだろう。

忘れてしまう程に。


憧れの人を見つけた上に、キャッチボールまでしてくれた、嬉しくて、楽しくて、とても幸せだったあのときのように、水守はただただ無邪気に笑っていた。


篠井も、つられたのか笑っていた。


水守が望んだ通り、太陽のような、大輪の向日葵が咲いたような、真っ青な空の下がふさわしい、そんな、輝く笑顔だった。



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