第5話

 一人、暗闇の中を歩く。

 LEDランタンの光を頼りに立ち入り禁止のトラロープを慎重に乗り越える。黄色と黒の縞々。この国でも安全対策の色は日本と同じなんだな。


 答えなんて期待していなかった。ただ、一人じゃないんだよと、相手に伝えるために選んだ言葉にサラは「一つお願いがある」と答えた。それを叶えるには多少の勇気が必要だったけれど、自分で言い出したことを、やっぱりなしでとは絶対に言えないタイミングだった。だからこうして不法侵入みたいなことをやっている。


 キャンプファイヤーの臭い。それが第一印象だった。間近で木が燃えたあとに近づいた経験がそれくらいしかないからだと思う。

 サラの言葉でぽつぽつと語られていた以上に、焼けてしまった家屋というものは凄惨で、自らが過ごしていた場所がこうなってしまう可能性があるのだと想像すると、突然膝が抜けて歩けなくなってしまうような不安がある。加えて、どこか朴訥としたこの臭いはあまりにも不釣り合いで、ひどくグロテスクな景色を見せられているような気分。サラが思わず嘔吐してしまったというのもわからないでもない。俺がそうなることはないにせよ、明るい日の下で見てしまえば言葉を失うほどの喪失感を覚えていたと思う。

 少女が俺に願ったのは、この家に『何か残っていないか』見てきて欲しいということ。

 当然こんな真夜中に真っ黒な炭の山を掘り返せと言っているわけではなく、目的の場所はちょっとずれる。家屋があったはずの場所から十メートルほど離れた所に、まだ建物の形を残している四角い影。ガレージの中を見てきて欲しいのだと。

 日中、ここへやってきたサラはガレージがどうなっていたのかなんて覚えていなかった。あまりにも酷い景色にそこまで意識が向かなかった。もしかしたら延焼して跡形もなく消え失せていた可能性もあったし、一方で記憶にないからこそ、『何か残っている』ことをまだ期待できる。事実、目の前にある四角い建物はライトを当てれば盛大に煤けているものの健在だ。

 そう伝えられるだけでも来て良かったという気持ちになる。ほんのひとかけらでも、思い出を手にしたいというあまりにもささやかな願いを叶えたい。

 今の彼女にもう一度この場所へと舞い戻る勇気はない。たった半日では酷すぎる現実と再び対面するには時間が足りなさすぎる。加えて逃亡中の身となると自宅のあった場所へ戻るのはあまりよくないという考えもあるのかもしれない。

 警察や公僕が全て敵であるかのような彼女の認識が、どの程度に正確なものかはわからないにせよ、本人の意見を尊重しない理由にはならない。

 サラが言うには、ガレージにはいつも母親の車が停めてあったらしい。車両自体は事故にあってしまった以上、あまり多くのものは残っていないはずだと。それでもガーデニングの道具くらいはあるはずだから、花の種なんかが残っていれば持って帰ってきて欲しいと。

 ここにある物を持ち帰ってしまうとれっきとした火事場泥棒なのだけれど、それくらいなら、と願いに答えることにした。

 言われた通り建屋の裏手にまわると裏口がある。右手には水道とそのとなりに重ねられた植木鉢。良かった。ちゃんと残っていた。はるばる日本から持ってきた自転車整備用の軍手をつけると、二つぶん鉢植えを持ち上げる。するとそこにはビニール袋に入った鍵が置いてあった。これがガレージの鍵のはず。サラの母親はものぐさな人で、すぐに車を出せるようにと、ここに予備の鍵を置いていたらしい。そっと袋を手にとると、となりのドアノブの鍵穴を探す。

 よし、それらしい穴が空いているな。試しに鍵を差し込んでみると、ジャリっとした質感とともに中に入って行く。くるりと捻り、解錠、のはずなのだけれどそこで違和感があった。

「ん?」

 なにか変だ、おかしい。たしかに鍵の型は合っているようだし、ちゃんと回転するのだからいいはずなんだけど……、あまりにも手ごたえがない……。

 気持ち悪いなと思いながらノブを捻ると、どこがおかしいのかやっとわかった。

「鍵が壊れてる?」

 普通はバネ仕掛けで抵抗があるはずのドアノブがどこまでもくるくると回る。試しにひっぱってみるとほとんど抵抗もなくドアが開いた。中は言われていた通りあまり物は置かれていないようだ。先に様子のおかしいノブの方を確認してみる。どうやら、せり出して開閉を疎外するためのかんぬきが、開いた状態で動かなくなっているらしい。詳しく確認すると、ドアノブの影になる部分に小さな穴が開いている。ふちは粗く、まるでドリルか何かでむりやりあけたような……。

 ぞっとした。今までどこかでサラの言葉を信じきれていなかったのだと思う。汚職を暴こうとして逆に殺されるなんて話はサスペンスの中だけの話で、現実ではないと無意識に考えていた。けれど、今、目の前にある戸は鍵が壊れている。ずっと前からこうだったならわざわざ予備の鍵を置いたりしないはず。不自然な穴のことを考えると、ここ最近のごく短い期間に壊された可能性がある。

 ……なんのために? 誰が?

 違法行為を辞さないヤツが、何かを調べるか盗むため。あるいは……。

 今日聞いたばかりの話と辻褄が合ってしまう。

 今更、危険なことに足を突っ込んでしまったという事実に背筋が寒くなる。

 ……結局、俺は話を真面目に取り合っていなかったんだな……。

 幸い、と言えるのかはわからないが、とりあえず中で誰かが待ち伏せしていたりはしない。さっさと様子だけ確かめて帰ろう。

 そう考えながらガレージの中に入って、より一層大きな後悔をすることになった。それこそ、たった今感じたばかりの寒気が消し飛んでしまうほどの……。


 ――例えば、俺がテントの中で出会った女の子は本当はサラなんて名前じゃなくて、キャンプ場荒しの悪ガキで、やっぱり騙されていただけだったんじゃないか。そんな想像をしてみる。

 待ち合わせ場所に指定した近くの古びた街灯の下には、当たり前のように誰もいなくて、あまつさえキャンプ場に戻ってもテントはおろか形見の自転車まで何も残っていない。少女はどこかでほくそ笑んで仲間と戦利品を値踏みしている。焼け跡は何かの間違い。

 俺は春も終わりとはいえ内陸国の冷える夜をたった一人、道具もなく過ごして朝まで待ち、なんとか持ち歩いていたパスポートや貴重品を持って日本大使館に駆け込む。そこで「なんて迂闊なんだ」と困った顔のお説教半分、同情半分の言葉を貰って必要な手続きを教えてもらう。当然予定していた旅はおじゃん。半年バイトして貯めた貯金のいくらかはただ往復した航空券と盗難で消えてしまう。家に帰れば両親にそら見たことかと叱られることになるのだ。


 ――それでもいいと思った。


 見聞きした残酷なお話はやっぱり嘘で、遠い外国の悪ガキの懐がちょっと潤っただけで済むというのなら。しばらくの間は嫌な思い出が残ったとしても、何年も経てば笑い話になる。「なんでそんな話を信じたんだ」と訊いてくる友人に「それだけ凄い演技だったんだ」と熱弁を振るう日がくる。もしかしたら、それがきっかけでヨーロッパの映画に興味を持って、ある日、東欧出身の有名女優が生まれる瞬間を目の当たりにするかもしれない。

 そうすれば、あのとき、俺はこの女性にすっかり騙されたんだと、誰も信じてくれない情けない武勇伝を語って終わりなのだ。


 ――現実だったならば、どれだけ良かったことだろう。けれど、そんなことはありえないのだと、もう知ってしまった。


 約束通り、待ち合わせの街灯の下には少女がいた。世界の全てから拒絶され、闇から切り取られた狭苦しい光の空間にひとりぼっちでたたずんでいる。悲しいという感情すら抜け落ちた表情。ただ寂しいのだということに本人だけが気付いていない。目前の真っ暗な空間をぼんやりと眺めていて、まるで何かの風刺画のような超然さを感じさせる。

 俺が手元のライトを向けてゆっくりとその場へと近づくと、サラの顔にはわずかな厳しさが宿る。彼女の位置からは俺の方が暗くてよく見えないから警戒しているのだろう。そんな負の側面ですら、まだ彼女に感情の揺らぎが残っているのだと感じられて安心してしまう。

「サラ」

 あまり不安にさせるのも悪いと、こちらから先に声をかけた。

「タイチ?」

「そう。言われた通りガレージを見てきた」

 彼女がただそこにいることを脅かす人間ではないということを、まず伝える。

 さあ、ここからが問題だ。俺はろくに日常会話も経験したことのないスペイン語で、この子に状況を説明しなければならない。何を、どうするのが一番ましなのか、丁寧に考える必要がある。とはいっても、何も難しい話ではない。見てきたものから何を伝えて、何を伝えないかを取捨選択するだけ。そして仮に俺が何を言わなかったとしても、ある一つのことだけはサラにわかってしまう。もう気が付いている。俺が、一台の自転車を押して来たということに。

「それは?」

 だからまず、その説明。最も大切で、最も気が重い。そんな話。

「これ」

 返事の変わりに、一つのものを先に手渡すことにした。どんな言葉よりも、この自転車がどういうものなのかわかるだろうから。

 サラは俺から一通のはがきのような物を受け取り、表、裏と確かめた上で二つ折り構造になっていることに気が付いた。気負いなく開き、中を確かめて……、そのまま硬直する。


 恐る恐る中に入ったガレージには、事前に教えられていた通り車はない。壁際には園芸用具が置かれた棚。そして一台の自転車がそっと停められていた。俺が今、ハンドルを握っているこれだ。

 最初はあまり気にしていなかった。ガレージに置いてあってもおかしくない物だから。先に園芸の棚を調べて、言われた通りの花の種を見つけてさっさと退散するつもりだった。

 鍵の壊れたドアへ向かおうと考えて、ふと自転車のことが気にかかる。この旅を始めるきっかけと縁があるとか、そんな理由だったのかもしれない。振り返って見てから二つの点が気になった。

 まず、ペダル。フロントギアからのびるクランクの先に、本来付いているはずのペダルがない。変わりに左右二つ分が紐で結わえてハンドル部分に結び付けられている。ペダルというものは交換が可能なパーツだし、車体と別売されていることがある。購入したばかりだとこんな感じで配送されることもあるかもしれない。

 それを証明するように、ライトを当ててみれば傷一つない車体がピカピカと輝く。細身だが丈夫そうなフレーム。スポーツ用というわけではないけれど、細部のパーツは良いものが使用されている。コンポーネントなんかは有名メーカーのマウンテンバイクに使用されるものだな。カゴはなく、かわりにフロントとバックに荷物を固定できるキャリア。ホイール径は一般的な二十六インチあたりだろう。俺が持ってきたやつと同じくらい。

 日本では馴染みがないけれど、ヨーロッパで日常的に長く乗られる頑強で高性能な設計。そんな感じがした。

 なぜ、こんなところに誰も乗っていないような自転車があるのだろう。

 近づいて、もう一点、気になっていたブレーキワイヤーを確認した。何か平べったいものが挟まっている。

 サラに渡した白いカード。ここに、謎の答えがあった。

 何とはなしに手にとって開いてから後悔した。書かれていたのはたった一文。


『Happy birthday to Sara』


 ぽたり、

 ぽたりとカードの上に水滴が落ちる。

 今日二度目に見る少女の涙。本当は、一度だって見たくなかった。

 そして彼女は俺の前でなくとも、おそらく何度も泣いたのだ。母の安否を不安に思い。事故車両が母の物だと知り。そして最後の寄る辺だった、共に過ごした家が無残にも失われてしまったことを知って。そのたびに、あの夜空を宿したような藍色の瞳から涙を流したのだろう。

 やがてそれは枯れ果て、いっしょに感情も抜け落ちてしまい、ただただ孤独に街灯の下に立ちすくんでいた。そんな彼女を、また泣かせてしまった。

 でも、知らせないという選択は俺にはなかった。

 やっと見つけたのだ。誰からも否定され、もしかしたら世界には最初から存在しなかったのではないかと本人が思っているような温かい愛情の残滓。今ここを逃せば、もう二度と触れることができないかもしれない。最後の最後に残された思い出を。

 たとえそれが、かさぶたも出来切っていない。やっと麻痺して、仮初に痛みから逃れることができるようになった心の傷を再びさらけ出すことになろうとも。深く記憶に刻み込むために。

 ただただ、泣きながら立ちすくむ彼女を見守ることしかできない。

 せめてもの気持ちで一歩すすみ、目前に立つ。

 全てが世界から切り離されたような、古ぼけた街灯の光の下で。けれどひとりぼっちではないのだと知ってもらうために。

 それだけが俺に許される手助けだった。

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