21話 怒れる主は

 事の発端は帰り道。


「……もう一回だけ言う。お前は来るな!!」

「いいえ。私もヒュドラを誘導します」

「毒のことは説明しただろ……俺の魔法でなんとかできる。だから邪魔だから来るな!」

「毒の対策に穴が無いことはわかりました。わかった上で言っているのです。

 今日の夜に作戦を決行する。ならば、私は足手まといにはならないはず」

「目が見えても邪魔だ!警護対象を確認しながらバケモンと鬼ごっこする俺の身になれ!!」

「では守っていただかなくて結構です。私も私で対処しますよ」

「……来るな」

「行きます」

「来んな」

「行きます」

「だあああああああああああああああああ!!」



 ………………絶対に、ぜーったいに連れて行かないつもりだったが……淡々と延々と続いた問答の末、あいつの頑固さの前に俺は屈してしまったのだ。

 戦う前から疲れた上に〆はコリンの説教。

「姫様を攫うなど!何と野蛮な!!」だの「姫様は神聖な存在……身分をわきまえろ」だの、歯の浮くような言葉と度し難く乱暴な言葉が飛び交うあれはいつ聞いてもうるさい。

 怒号を右から左に聞き流した後の夕食は腹八分目で済ませ、ビアンカの部屋に独り籠りじいさんやコリンが寝静まるのを待っていたら、気配が消えたのは月が高く上った頃。

 俺は家の軒先へ出て、しばらくあいつを待ってみた……のだが、どうにもくる気配がない。

 ついてくるならコリンが寝たのを確認してさっさと出て来いと約束したはずだ。

 焦っていら立つ俺とは対照的に、あたりは川のせせらぎと虫の鳴き声しか聞こえず、山フクロウの声が間の抜けた調子で響く。

 いつも通りに見える夏の夜の中。

 ビアンカは、ビアンカの生死の天秤は時を刻む毎に傾いている。

 何を優先すべきか、判断を間違えてはいけない。


(……遅れたのはそっちなんだから、文句は言うなよ)


 深く息を吐きだしてゆっくりと瞼を下した。

 内なる力に感覚を委ね、瞼の裏の色彩の変化を感じる。


 緑から赤く、紅く……


 息を吸うと同時に目を開けた。

 小石のような赤い光たちが俺の周りを二三度跳ねては溶けるように消えていく。

 夜でもよく見える視界には黒い前髪が映った。

 最後に腰に帯びた魔法の剣を確認し、俺は夏の星を仰ぎ見た。

 目標は、北東。

 そして、枯れた山にそのまま目線を移す。


 ……同時にやっと、背後の扉が微かな音と共に開け放たれた。


「遅い」


 肩越しに見遣ると、キャンディッドは赤と紫のオッドアイで俺を一瞥し、気まずそうに視線を逸らす。


「その件についてはすみません。ですが……耳に入れておいてほしいことが」


 言葉の途中、遠くでかすかな音が聞こえた。


(まずい……!)


 音の正体に気がついた俺は、続けるキャンディッドの口を手でふさぎ、引き寄せてその場に伏せた。扉はゆっくりと閉めて、その人に気づかれないように細心の注意を払う。


「いま、だれかおったかのぅ」


 扉の向こうから聞こえたのはじいさんのくぐもった独り言。

 近づいてくる足音から逃れるため、伏せたまま砂利音をたてずに死角へ移動する。


 再び扉が開いた。


 しばらくの間きょろきょろと辺りを見回していたじいさんだったが、一見平和なあたりの光景に安心してくれたようだ。扉がギぃと音を立てて閉められた。


 ゆっくりと体を起こしキャンディッドについてこいと目配せする。

 川に沿ってに移動し、十分に距離を取ったところで来た道を振り返った。

 煉瓦造りの家の一階、その窓には蝋燭の橙の光が揺らめいている。

 ……恐らく、寝ないつもりなんだろう。


(違うな、眠れないんだよな)


 たった一人の孫であるビアンカが消えて十日ほどたった。

 俺の前では比較的気丈にふるまっていたが、内心、不安で気が狂いそうな心地でいたのだろう。

 だからと言ってじいさんの体じゃこの森を探し回ることはできない。ラピス王都までこれたこと自体、火事場の馬鹿力だ。

 じいさんを安心させたいからと言って、俺の口から今わかっていることを洗いざらい話すこともできない。

 話したとしても、妖精が関わっているのが間違いない以上、信じてやれなかった自分のことをより一層責めるだけだ。

 あまりにも辛そうなあの顔が脳裏にチラつく。

 だけど

 

『全部俺のせいなんだ』


 思い出した言葉はじいさんのものじゃ無かった。

 痛みに耐え、ぎりぎりと嚙み殺したあの感触が感情が再び思い起こされ、一瞬、自分の血の味がしたような気がして


「絶対にビアンカを見つける」


 飲み込まれそうなその感覚を振り払うようにつぶやいて、あとは振り返らずに夜の森の中へ走った。







 一時間ほどは移動していただろう。

 森枯れの進むエリアにだいぶ近づいたはず。

 先ほどとは打って変わってあたりは耳が痛くなるほどの静寂だった……

 歩みを止めて瞳を閉じる。

 奴等妖精達の声に耳を傾けた。

 だが


(……何も聞こえないどころか、誰もいない)


 でもそれが、何よりの証拠だった。

 鼓動がひときわ大きな音を立て、次の瞬間から速くなる。

 奴がそこまで来ていることを教えてくれているのか……

 いつもと変わらぬ様子で左側を歩くキャンディッドに、小さな声で呼びかけた。


「……場所は覚えているな」

「はい」

「お前が先頭だ。毒に当たったら一発で死ぬ。だから絶対に俺の前にいろ。

 走り続けることができる魔法は?」

「……すでに準備はできています。あの場所まで行きましょう」

「あぁ」


 瞬間、鼻先を掠める水と草木の血の匂い。


「来る……」


 キャンディッドが走り出したのと同時に俺は剣を引き抜き叫んだ。


「《フェアトラーク!》」


 薄紫の刀身に刻まれた古代文字が浅葱色に眩く輝く。

 生い茂る草葉の中、その光が照らしたのは……


泥にくすんだ白い鱗、爛々と光る血走った金の目。


 ギョロリと動き俺を見つけたその時、まとわりついていた樹々たちは瞬きの間になぎ倒され、どんどん生気を失い朽ち果てていった。

 水を与え森を生かし、毒を与え草木を滅ぼす。

 生と死を司る妖精の王……ヒュドラの姿は俺の想定とは違っていた。


 全身を大きな鱗が幾重にも覆い、三つ首ではなく、首は一つ。

 四肢と尾は鰭状。

 見上げるほどの高さではあるが、城の天井画で見たものよりずっと小さい。


 違和感の正体が、わかった。

 こいつはヒュドラの


 長い首を持ち上げ夜空に甲高い咆哮を轟かせる。それからこちらに向かって動き出したのを確認し、俺は踵返して走り出した。

 鰭を地面に叩きつけるようにして体を持ち上げ、喉奥で低い音を立てながら一直線に追いかけてくる。

 事前の算出通り、速くはない。

 位置関係を確認しながら距離を保っていると、視界の端に鮮烈な赤がチラついた。

 正体はヒュドラの体の下……

 胴体から流れる赤い血が地面にべったりと塗られている。染み渡るように溶けて行った直後、葉を茂らせていた樹が、地に生えていた草たちが枯れた。

 童話の中の森を枯らす赤い林檎の正体に合点がいく。

 手からこぼれ落ちた林檎ヒュドラの血が、今みたいに地面に溶け込んだんだ。

 本当であれば僅かな量で全てを枯らせるそれがここまで弱くなっているのは……


 少し先を走るキャンディッドの背に声を飛ばす。


「こいつはヒュドラの幼体だ!森が枯れるのはヒュドラの血の所為……!」

「それが赤い林檎……の所以ですか。しかし」

「そうだ、明らかに毒性が弱い!童話通りなら山が全て枯れ果ててもおかしくない!

 ……毒性の違いも弱毒化も全ては、幼体だったからだったんだ」

「幼体が1人でいるのですか?他の個体は」

「おそらくいない!何日もこのまま森を彷徨っていたはず……ほかの個体がいるのならもう少し冷静な筈だろ!」


 ひときわ大きな衝撃音が鳴り響く。

 鰭のついた長い尾が樹を薙ぎ払ったがためのものだった。

 太い樫の木がいとも簡単に折られ砕ける……命の危機に胸がすくむと同時に、俺の耳に飛び込むかすかな音……


『…………シイ……ケテ』

「……!」


 足は止めぬままもう一度、かすかな音に意識を集中させる。


『クルシイ……タスケテ……』


 瞳を閉じていないのにその声ははっきりと聞こえた。

 声の主は1人しかいない。


「ヒュドラ……!」


 ブルートの伝承では怒ったら毒を吐く……はず


(いや、そうじゃないのか……!)


 ビアンカはヒュドラが助けを求めて呼んでいると言い残して家を出た。

 伝承はあくまで成体の事を言っている……実際のヒュドラはまだ未熟な幼体で……苦しみながら毒を吐いている……!


「おい!何が苦しいんだ!何をすればいい!」

『クルシイ………………クルシイ……クルシイ……!』


 刹那、ヒュドラの動きが止まった。

 さっきのように首を持ち上げて空を仰ぐ、すると今度は喉から悲鳴に似た咆哮を絞り出す。

 衝撃波に舞い上がり襲いかかる砂埃。

 腕で庇い狭くなった視野の中……俺が見たのは、口から漏れ出て蒸発する青い煙。

 おそらく、あれがヒュドラの毒


 瞳に燃えるような熱を感じながら剣で空を切り裂いた。


「《エヴィヒ・ゼーレ!》」


 足元から巻き起こった銀色の風は緩やかな放物線を描きながらヒュドラのまわりを囲んでゆく、すると、気化した毒はたちまち青色の液体に戻り、雨のように降り注ぎ血と共に大地へ消えた。

 対象物の状態変化を止める魔法。散々考えた、ヒュドラの毒から確実に身を守る方法……森を枯らしてしまうのが心苦しいが解毒手段がない以上、これしか術は無い。


(やはり間違いない。さっきの声も毒の吐き出し方も……まるで……ガキが吐血しているみたいだった)


 風がほどけたその後、ヒュドラはまた動き始める。

 けれど、その動きは先ほどより勢いがなく、黄金の双眸も光が弱くなっている気がする。


「聞こえるか!この光が見えるか!」


 浅葱色に光る刀身を振る。けれど、


『…………クルシイ………………タスケテ』


 俺の呼びかけにヒュドラは応えない。

 いや、違う。

 ……背鰭がわずかに逆立った。

 まだ聞こえている!

 状況が違えど手段は変わらない。ヒュドラを正気に戻すにはこれしかない……

 

「水辺に行く!俺たちについてこい!」


 また大きな鰭が地面をたたきつける。その轟音の中、短い悲鳴が聞こえた。

 弾かれたように顔を向ける。

 先頭を走るキャンディッド。

 蹴り上げた土がはね、地を踏み締めるはずだった体は沈んでいく。

 宙に投げ出された泥だらけのドレスがはためく一瞬一瞬が、目に飛び込んできた。

 体が、強張る。


 ここ近辺では土砂崩れがあった。

 あの洞窟も塞ぐほどの大規模なそれは、山道の中に崖を作り出したのだ。


 目が見えてなかったあいつは知らなかった。

 足を踏み外したのは……俺の、俺のせいだ。


「キャンディッド!」


 強張ったのは一瞬で、すぐさま崖から身を投げ出し後を追った。

 力なく揺れる細腕目掛けて手を伸ばす。

 ぐんぐんと近づく地面のことなど忘れて、唸る風の中でようやくつかまえる。

 その刹那、風になぶられる長い髪の中、紫の瞳が脈打つように光った。


「《チューテレール》」


 胸の宝石から紅い光があふれ出し、落下速度が遅くなっていく……崩れた斜面に沿ってそのまま空を飛ぶように滑空し、足がついたら、キャンディッドは俺の手を引いて走り出す。


「邪魔ではなかったでしょう」


 顔を向けぬまま、いつも通りの淡々とした声だけが聞こえる。


「……あぁ。そうだな」


 1人安堵したのも束の間。遠く、後ろから、俺たちの背を刺すような雄叫びが鳴り響いた。

 音の鳴る方を見遣る。

 崖の上から斜面を流れ、大量の水流がこっちへ向かってくる。

 突如現れた水の出所はヒュドラ。

 透き通った透明な毒水の中を一匹の白い竜が矢のような速さで駆け抜ける。


「走れ!」


 脆い赤土を踏み締めて走りついた場所はあの洞窟の真上……

 土砂崩れの跡からして近いとは思っていたが真上に出るとは思っていなかった。


「昼に来たところだ!そのまま滝の音がするまで登り続けろ!」


 キャンディッドに続いて洞窟の上から飛び降り、山をあがり始めた瞬間、背後で水の弾ける音がした。

 樹々をなぎ倒し地を削り、水はあっという間に染み込んで消える。


「ヒュドラ!こっちだ!もう少しでつく!」


 焦点が定まらぬ虚な目をした竜からは、もう声すらも聞こえない。

 体全体がぐったりと弱り切った姿をしている……それでも刀身の光に気がついたのか、力を振り絞って向き直る。

 額に滲む汗を拭い、俺もまた走り出した。

 前を行くキャンディッドは、肩で荒く呼吸しながらも一定のリズムで駆け上る。

 あいつ…魔法の効果がきれかかってるのに気力だけで走ってるのか。

 ブロンドの髪が揺れる小さな背中に祈る。


 頼む。もう少し…

 あと少しだけもってくれ


 一秒が永遠に思えた時の中で、決して足を止めることなく、俺たちは山の斜面を登った。

 両者ともに限界が近い。

 俺もキャンディッドも、ヒュドラも…

 最後の力を振り絞って足を振り上げたその時

 水音が聞こえた。

 音がするのは、真横。

 俺はキャンディッドの背に軽く触れた。

 頷いて、手を引いて、草木を踏み分け、そのまま高く高く宙へ飛んだ。

 眼下のくぼ地には滝と川が広がり、背後に視線を向けるとヒュドラが水に目掛けて落下しているのが見える。

 また赤い光が俺達を包む。そして、ゆっくりと水の中へ落ちた。


 酸欠でぼやけていた脳は水の冷たさで一気に目を覚ました。


「……っはぁっ!!」


 水の中から顔を上げると、間を置かずにキャンディッドの顔も勢いよく浮上する。

 幸い足がついて、水の高さはキャンディッドの腰ぐらいだ。


「……っエスティー……!ヒュドラは……」

「どこだ……っ」


 突然水面が大きく膨らみ、大きな水柱が現れた。

 笛の音のような美しい声が聞こえると柱は勢いを無くし、瞬きの間に湖面が静まり返る。

 水の中から現れたのは純白の竜。

 優しい光をたたえたまなざしで佇んでいる。

 汚れや傷は消え去り、月の光が反射して鱗が虹色に淡く輝く。

 幼体とは言えその姿は、纏う空気は、まごうことなき王者の風格。

 

「これが……ヒュドラ」


 ヒュドラはもう一度、美しい声で鳴いた。まるで誰かを呼ぶように何度も何度も空へ声を放つ。

 呼応するように水底が青く光り輝いた……激しい光がほとばしり俺たちは目を瞑る。


「見つけた……アムニス」


 深い響きを持った低い声がして、何事が起きたかと目を開けるとヒュドラの傍らには、どこからともなく表れた青年が立っていた。

 僅かに見えた頬には赤い血が流れていたが、青年が水ですすいだ瞬間、何事もなかったかのように消えてしまう。

 一目見てわかった。

 ヒュドラと対面した時同様、俺の心臓がドクンと音を立てる。


「やっと終わったよ。ここで休んだらまた、湖を探しに行こう」

「エスティー……あの人は」

「……どうなってんだ一体全体」


 ヒュドラに話しかける青年は、藍のローブに身を包み、黒糸鍔の三角帽子を深々とかぶっている……黒髪の人間。

 にわかには信じがたい……けれど、佇まいそのものがそいつの正体を物語っている。

 間違いない……

 

「あれは……純血の魔法使いだ」

「……!」


 やっと気づいたのか、魔法使いはゆっくりと顔を向ける。


「……君たちだぁれ?」


 スラリと通った鼻筋に吸い込まれそうな紺の瞳。

 浮世離れした端正な魔法使いは、子供のようにそう言った。

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