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***


 記入してもらった離婚届は藤野さんの気が変わるより先に役所の夜間窓口に提出して、私は急ぎ足で自宅に戻っていた。もう一つ、今日中に解決しなきゃいけない問題が私にはある。リビングに行くと、テーブルの上に置きっぱなしにしていたスマホがチカチカと光っているのが見えた。画面を確認すると、優奈から何度か着信とメッセージが来ていた。


『穂花、配信見た~?』

『今家にいる?』

『電話出て』

『何してんの?!』

『おーい』

『これ見たらすぐ連絡してよ!!!』


 私は「本当にごめん!」とスマートフォンに向かって頭を下げる。優奈への返事を後回しにして、私は持っていたミートローフを冷蔵庫に仕舞い、その代わりにブッシュドノエルを取り出していた。崩れないようにそっと箱に仕舞い、紙袋に収めていく。そして、再びそのまま飛び出していた。


私が向かうのは、隣の、湊人君の部屋だ。震える指でインターフォンを鳴らす。押したのと同時に勢いよくドアが開いた。驚いて顔をあげると、焦った表情の湊人君と目が合った……本当に久しぶりに、彼の顔を間近に見ることができる。目の奥がツンと痛くなるのを感じた。


「……穂花サンっ!」


 湊人君は私の腕を掴み、引き寄せて、強く抱きしめてくれた。骨が軋むくらい強く。でもそれに痛みは全くなくて、心地が良いくらいだった。私は彼の胸のあたりをきゅっと掴み、何度も深呼吸を繰り返す。今ここに、湊人君と一緒にいる。たったそれだけなのに、頭の中が幸せで満ち溢れていく。湊人君は何度も私の名前を耳元で呼んでくれた。


「配信、見てくれた?」

「……うん」

「すぐ来てくれると思って待ってたんだけど、いつまで経っても来ないから……やっぱりフラれたんだと思った」


 湊人君の体がゆっくり離れる。私の手を取って、家に上げてくれた。湊人君の家に入るのも久しぶりだった。


「ごめんね。私、先にやらなきゃいけないことがあって。あのね……離婚した」

「はぁっ!?」


 湊人君は鼓膜が痛くなるくらい大きな声を出した。部屋にその声がビリビリと響き渡る。


「え? いつ?」

「ついさっき。会ってきて、離婚届書いてもらって、出してきた」

「もしかして二人きりで会ったの? 危ないじゃん!」

「でも、どうしてもコレをしておかないと……私だって先に進めないよ」


 私はリビングに座る。湊人君も同じように、私の前で正座した。私は持ってきた紙袋を彼に差し出す。


「あの、それでね、湊人君にちゃんと言いたいことがあって。……みんなのアイドルじゃなくて、私の彼氏になってください」


 私がそう告げると、湊人君はとても優しい顔で笑った。そして私に近づいて、今度は優しく包み込んでくれる。彼の甘い香りがふんわりと鼻腔をくすぐる。


「こちらこそ、俺の彼女になってください」


 私たちはほどくように体を離す。見つめ合い、互いに目を閉じて、唇を引き寄せていく。これが返事だと言うように、柔らかな口づけを交わす。離れた時、湊人君は嬉しそうに笑っていた。


「配信、びっくりした」


 私は湊人君の手を取った。大きくて温かい、男の人の手だ。指を絡めるようにつなぐ。


「うん。思いついたのは昨日なんだ。今日の夜がオフになるって急に分かって……それなら穂花サンに会いたいと思ったんだけど、絶対に会ってくれないだろうし。それに、俺もあの記事の事、どうにかしないと思っていたし」


 繋いでいない方の湊人君の手が、私の頬を包み込んだ。彼はまた顔を寄せて、瞼、鼻先、唇とキスを落としていく。優しくてくすぐったくて、まるでケーキみたいに甘い。


「社長にもマネージャーにも、みんなにも何もするなって言われてたけど……どうにかしないとって。それに、あれなら穂花サンも見てくれるかもしれないし」

「うん。優奈も出て、すごくびっくりしたよ」

「初めは一人でやるつもりだったんだけどさ。俺一人が何か主張してもダメだよなーって思ってたら、名刺貰ってたこと思い出したんだ。電話したらすぐに来てくれたよ、めっちゃいい人だね。穂花サンの事心配してた。俺たちに幸せになってもらいたいから、無料で協力するって」


 優奈にもあとでありがとうって言わなきゃ。


「……あとは、見た人がどんな反応するかだけかな。航太にはめっちゃ怒られたけど、洋輔は笑ってた。あと明日の朝また社長と面談だよ」

「あのね、湊人君」


 私はぎゅっと彼の手を握る。


「できればアイドルはやめないでほしい」


 そう言うと、湊人君の目が丸くなった。そして首を傾げて「どうして?」と呟く。


「だって、アイドルをしている湊人を見ているのも好きだから」

「いいの? 女の子にキャーキャー言われるんだよ? 穂花サン、やきもち焼かない?」

「大丈夫……だと思う。けど、私、【OceansのMINATO】も大好きだから」

「わかった。穂花サンにそう言われたらやるっきゃないか! できる限り、みんなに受け入れてもらえるように頑張るよ」

「うん、応援するね」

「心強い。ところで気になってたんだけど、アレ、何?」


 湊人君の視線の先に、私が持ってきた紙袋があった。


「あ! あれね、実は今日優奈とクリスマスパーティの予定で」

「うん、優奈サンそう言ってたね」

「そのために作ったブッシュドノエルなんだけど、パーティも有耶無耶になっちゃったし、湊人君と一緒に食べようと思ったんだけど……」


 私は紙袋を覗き込む。その中には、大きくひしゃげた箱が入っていた。私は大慌てで箱を取り出して開ける。中に入っていたのは頑張ってデコレーションしたケーキじゃなくて、つぶれてしまい原型がなくなってしまった『ケーキだったもの』が入っていた。


「えぇ! 何で!」

「……もしかして、さっきハグした時かも」


 湊人君は頭を掻きながら、何かを思い出すように首をひねった。


「何かお腹に箱みたいなものが当たった気がしたんだけど、それかな? 気にしないできつくぎゅってしちゃった」

「そうかも……はぁ」

「なんかごめん、でも食べられるでしょ? ほら、このまま食べちゃおう? 俺、フォーク持ってくるよ」


 湊人君は台所からフォークを二本取り出して戻ってくる。湊人君は箱についたチョコクリームを指で掬ってぺろりと舐めた。私はがっくりと肩を落とす。


「せっかくだから、綺麗な状態で食べて欲しかったのに……」

「大丈夫だよ、美味しいって!」

「いや、また今度作り直す」

「それなら、俺も手伝ってもいい?」


 湊人君は「彼女と一緒にケーキ作るとか絶対楽しいじゃん」と隣で笑っていた。そうか、これからは【一緒に食べる】だけじゃない楽しみも待っているんだ。私はフォークを受け取る。


「じゃ、いただきます!」

「いただきます」


 崩れてしまったブッシュドノエルを二人でつつきあうように食べる。それ以外にご馳走はないけれど、今の私たちにはこれだけでも十分幸せだった。そして、これから先、これ以上の幸せが待っているんだと思うと、楽しみすぎて胸がドキドキする。

 ケーキの甘味が口いっぱいに広がる。隣にいる湊人君の笑顔もエッセンスになって、いつも以上にケーキは甘く感じた。


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