― 35 ―
見上げると、息を切らした見慣れた姿の彼がいた。私の肩を抱き、藤野さんの事を睨んでいる。
「もう大丈夫だから。落ち着いて、深呼吸して」
彼に言われて、私の呼吸が浅く、忙しなくなっていることに気づいた。胸が苦しい。彼は私を隠すように前に立ってくれる。
「あ? お前誰だよ?」
藤野さんの声には明らかにいら立ちが籠っているのが分かった。
「アンタ、無理やりこの人のこと連れて行こうとしてただろ」
「はぁっ!? 自分の嫁連れて行こうとして何が悪いんだよ!」
「もうこの人は、アンタの嫁さんなんかじゃない!」
湊人君は藤野さん以上に声を張り上げていた。見上げると、首筋にうっすらと汗をかいているのがわかった。
「……穂花サン、ちょっと話聞いてくれない?」
「え?」
湊人君は振り返り、私の事をじっと見つめる。彼と目を合わせている内に、体を覆っていた恐怖がかき消されていくような気がしていた。
「アンタの返事、待つって言ったけど、あれ撤回するわ。一番近くにいないと、アンタのこと守れない」
湊人君は私の腕を掴む。そのまま私は引き寄せられる。見上げると、湊人君の顔がすぐ近くまであった。
「え……あ、」
彼の両手が私の頬を包み込んだ。思わず目を閉じてしまう。その瞬間――唇に柔らかなものが触れた。私のおでこに触れたそれと同じ感触。目を開けると、すぐそこに湊人君の顔がある。目は伏せられていて、まつげの長さがよく分かった。湊人君はゆっくりと目を開けて、そっと離れていく。
「お前、何してんだよ!!!」
藤野さんが腕を大きく振りかぶり、湊人君に向かっていった。湊人君は私をかばいながらもひらりと躱していく。
「みっともないよ、オジサン」
「ふざけんなよ!! くそ!! 殺してやる!!」
藤野さんの目は座っていた。本当に、湊人君に対してひどい事をしてしまいそうな、そんな勢いすらある。私が「やめて!」と叫ぼうとしたとき、近所の家のドアが開いた。若い男の人がこちらをまじまじと見つめている。
「ほら、喧嘩だって! 警察呼んだ方がいいよ!」
その言葉を聞いた藤野さんは血相を変え、何も言わず暗闇に溶け込む様に逃げていく。
「……穂花サン、行こう」
湊人君は腕で顔を隠し、マンションに私を引っ張りながら入っていく。そのままどんどん進んでいって、気づけば私は彼の部屋の玄関に立っていた。ハッと私は我に返る。
「ど、ど、どうして彼の前であんなことしたの?!」
「へ? あんなことって、もしかしてキスのこと?」
「そう! どうしよう、もしかしたら、それで離婚出来なくなるかもしれないのに……」
不安駆られる私を、湊人君が強く引き寄せた。気づけば私は彼の腕の中にいる。もがいても、彼の力は強くて離れることも出来ない。
「それでもいい」
湊人君はそう、耳元で囁いた。
「アンタのことさえ守ることができたら、穂花サンが結婚してようが離婚してようが、そんなのどうでもいい」
その声音は、何だか今にも泣きだしそうにも聞こえてきた。
「……穂花サンさ、俺のこと、まだ好きじゃない? 早く好きになってよ、お願いだから」
ぎゅっと湊人君はさらに力を込める。どうしても彼の事を抱きしめたい衝動に駆られていた。でも、湊人君にはアイドルとしての立場や、これからのキャリアがある。私個人がそれを感情に流されるまま、壊していいものじゃない。……けれど、私の中に芽生えた思いはそれらすべてに覆い隠していく。
――湊人君と一緒にいたい。離れたくない。
私はその想いのまま、彼の背中に腕を回していた。耳元で湊人君は大きく息を吐いて、今度は柔らかく私を包み込んだ。
「今日はもう帰らないで、ここにいて」
その言葉に私は頷く。私も同じ思いだったから。見上げると、湊人君は何だか悲しそうな顔で私の事を見つめている。大丈夫だよ、と伝えたくて、私は彼の頬を両手で包み込んだ。
「好き、好きだよ、穂花サン」
そう言って、湊人君が近づいてきた。私は彼を受け入れるように目を閉じた。唇同士が触れ合う。触れるだけの口づけは、次第に深くなっていった。彼は角度を変えて、唇を啄む。彼は私の腰を抱き、私をドアに押し付けて、体を密着させる。私が薄く口を開いた瞬間、するりと彼の舌が入り込んだ。私はそれを受け入れて、絡みつく。互いの吐息が玄関に響く。
しばらく口づけを繰り返した後、湊人君は体を離した。私を見つめるその視線は、まるで熱に浮かされているようだった。
「ねえ、もっとしたい……」
「みなと、くん?」
「ベッド、こっちなんだけど……いい?」
私は頷く。湊人君は私の手を取り、二人とも靴を脱いで彼の部屋の寝室に向かった。そのままベッドに寝かされる。彼の匂いに包まれると、頭がくらくらとしてくる。湊人君は私に覆いかぶさり、こう囁いていた。
「怖くなったら言ってよ。できるだけ優しくしたいけど……頭の中ごちゃごちゃになってるから、どうなるかわかんない」
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