1 お隣さんは(性にだらしない)アイドル!?

― 1 ―

『お前の作るメシってさ、まずいんだよね』

『うわ、これゲロマズ! ちゃんと味見した? お前、舌バカになってんじゃない?』

『お前のメシよりブタの餌の方がマシなんじゃね?』


『あーあ、お前となんか結婚するんじゃなかった』



―――



「――ほのか、ねえ、穂花ってば、ちょっと! 人の話聞いてる?!」

「え、あ、うん……聞いてなかった」

「もー。こっちは大事な話をしてるんだよ」

「ご、ごめんね」


 私はあたりを見渡して、誰にもバレないようにため息をつく。ここは鈴木弁護士事務所で、目の前にいるのは私の依頼を受けてくれた弁護士であり、中学の頃の友達でもある優奈。決して、あの男がいる家じゃない。深い茶色の髪を耳にかけて、優奈は「もう一度最初から話すね」と書類に視線を向けた。


「あっちのクソ男……藤野さんも弁護士に依頼したみたいで、しばらくは私とその弁護士間で話をすることになるから。穂花の希望は、とにかく早急に、一秒でも早く離婚すること。これで間違いない?」

「うん」

「慰謝料は一応請求するってことにしてあるけど……本当にこの金額でいいの? 相場はもっと高いんだよ?」

「大丈夫。……私にそこまでの価値ないし」

「ほら! またネガティブになってる!」


 優奈は持っていた書類を投げ出して、私の頬をむにっと摘まんだ。


「ネガティブ禁止って言ったでしょ! やっと自由になれたんだから、気分上げていこ!」

「う、うん……がんばるね」

「こら、優奈。あまり依頼人に自分の考えを強要しない。悪いね、穂花ちゃん」


 事務所の奥にいたはずの優奈のお父さんが面談スペースに顔をのぞかせる。優しい顔で微笑んでくれるのを見ていると、ちょっとだけ緊張がほぐれたような気がした。


「いえ! 大丈夫ですから。優奈も親切でそう言ってくれてるって分かりますし」

「はいはい、すいませんねぇ、お父さん」

「こら、優奈。職場じゃ『お父さん』じゃなくて『所長』と呼ぶように言っていただろ!」

 


 親子の小競り合いを見ていると、何だか羨ましくなってきた。強気になって言い返す優奈が身に着けている弁護士バッジがキラリと光る。寝る間を惜しんで勉強して、ようやっと彼女がつかみ取った職業の証。優奈が頑張ってきたその間、私は一体何をしていたのだろう。


 優奈と再会したのは、ほんの数か月前だった。私が結婚してから一切知人に会うことはなかったから、実に3年ぶりだった。街を歩いていると偶然出会って、そこで彼女は私の【異変】を見抜いた。優奈が言うには「だって、変におどおどしていたし。穂花って元はそんな感じじゃなかったからすぐにわかったよ」とのこと。彼女は一か八か私に自分の名刺を持たせて、助けを求めてくるのを待っていたらしい。もし来なかったら、もうその時は諦めようと考えていたけれど、私はすぐにやってきた。初任給で買った鍋と亡き母からもらった【お守り】を抱えて。優奈はその時、心底ほっとしたと言っていた。


 私の夫・藤野は、優奈曰く「とんでもないモラハラDV野郎」だ。優奈やこの弁護士事務所の所長である優奈のお父さんに言われた通り、できるだけ離婚に向けた証拠を集めて再び家を飛び出したのだけれど、優奈たちは私が持ってきた証拠の多さに驚いていた。ICレコーダーに残された罵詈雑言。私が書き留めたの暴言日記。そして、体に残っていた古い痣。優奈だけじゃなく優奈のお父さんもまるで噴火するように怒っていて警察に通報しようと言っていたけれど、私がそれを止めた。だって、大ごとにしたくないし……これ以上彼の怒りに油を注ぎたくはなかったから。


 家を飛び出してから、私のスマホには彼からは山のように着信やメッセージが届いた。私を非難するものから、懐柔するような甘い言葉まで。それを見てパニックと過呼吸を起こしてしまったため、私が使っていたスマートフォンは優奈が取り上げ、代わりに彼女がくれた違うスマホを使うようにしている。このスマホに入っている連絡先は優奈と優奈の父、そしてこの弁護士事務所だけ。私は天涯孤独の身の上だから、それ以外に繋がっていたい人は、どこにもいない。


「まあ、穂花が貯めてくれた証拠もあるし、あっちの弁護士は戦意喪失ぎみかな? あとは藤野さんが素直に離婚届さえ書いてくれたらいいんだけど……」


 今度は優奈がため息をつく番。藤野さんはあれこれ理由を付けては離婚届を記入してくれないらしい。まだまだ、前途多難な様子だった。がっくりと肩を落としたはずの優奈は時計を見た瞬間、ビシッと背筋を伸ばした。


「それで、穂花……例のブツ、持ってきてくれた?」

「い、一応……」

「優奈! ご飯が炊けたぞ!」

「はい、所長! 今持っていきます!」

「こら! 今は昼休憩だ、所長と呼ぶのはやめなさい!」


 優奈は私が持ってきた紙袋から保存容器を取り出して給湯室に向かう。容器の中身はカレー……私が作った、料理。優奈はそれを鍋に入れて温めていく。


「ありがとね、穂花。いつもお母さんがお弁当作ってくれるんだけどさ、今日は伯母さんと旅行に行ってて」

「うん、全然平気。私なんかの料理で良ければ、いつでも」

「ほら! またネガティブになる! 穂花の作るご飯はおいしいんだから、自信持ってよ。穂花だってさ、料理するの好きだって言ってたじゃん」


 それは、随分昔の話なってしまう。料理するのが好きだったことが高じて高校を卒業した後、フリーターや契約社員としてファミレスのキッチンで働いたこともあった。けれど、今の私には『料理をするのが楽しい』なんて気持ちは残っていない。あるのは、苦痛だけだった。



『どうせ今日もマズいんだろ? 俺、外で飯食うわ』



 頭の中で藤野さんの声が蘇る。私はそれを振り払うことができず、左の手首をぎゅっと強く摘まんだ。


「でも、大丈夫かな? ちゃんと食べられるかな? 美味しくなかったらどうしよう」

「大丈夫だって。ほら、もういい匂いしてるじゃない!」

「本当だ、カレーなんて久しぶりに食べるなぁ」

「うちのお母さん嫌いだからね、カレー」

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