76 怨霊
「まだ……」
「ッ!」
ロゼッタの青ざめた唇が言葉を紡いだのを見て、俺は素早く後ろに下がった。
まだ、生きてる。死に瀕した敵ほど、何をしてくるか分からない。
そのことを経験から良く分かっている俺は、重傷のロゼッタを前にしても油断なんてできるはずもなかった。
「ハッ……アッハハハハハハハハ! 私が、人間なぞに負けてたまるかアアアアア!」
天にも届くのではないかというような高笑いだった。そして、何か重々しい感情の籠った慟哭だ。少なくとも、胸に重傷を負った女の出す声には聞こえなかった。
変化はすぐに訪れた。仰向けに倒れたままのロゼッタの体が、高密度の魔力に包まれる。ロゼッタを取り巻く禍々しい気配の魔力は、薄っすらとした黒色で、さながら繭のようにその体を包んでいた。
やがて、限界まで高まった魔力が晴れ、羽化を迎えた蝶の如く、ロゼッタが姿を現した。血の気のなかった先ほどまでとは打って変わって、その顔には殺気が漲っている。しかし傷が治ったわけではないらしい。胸に空いた穴からは、血液が垂れ流されている。
そして、何よりも目を引いた部分。右目が、不自然なまでに光り輝いていた。瞳が薄紫色に光る様子は、不思議と見る者を不安にさせる何かがあった。何か、この世にあってはならないものを見たような、そんな感覚だ。
「……殺されるのを行儀よく待っていたのか人間」
「それはさっきまでのお前だろ。大人しく死ぬまで地面に這いつくばっていればよいものを」
「……ふん」
先ほどまでとは打って変わって静かな様子のロゼッタ。その様子に、俺は内心動揺していた。
元々ロゼッタは、精神的な不安定さが弱点となっていた。だからこそ、勇者だった頃の俺は、勝利を得ることができたのだ。
そんな、ロゼッタの唯一といっていい弱点が突然なくなった。重症を負わせているとはいえ、俺は勝利が遠のいたのを感じた。
ただならぬ様子に、攻撃を仕掛けることもできずにじっと観察する。隙が見当たらない。一歩踏み込めば、その瞬間に体を引き裂かれそうな迫力だ。
膠着状態の中、ロゼッタの不自然に輝いた右目が、俺を見て大きく開かれた。
その瞬間、俺の体に奇妙な悪寒が走った。まるで、何者かに体の深いところまで全部見透かされているような、不思議な感覚。
すぐに不思議な感覚の正体に気付く。あの目は、ロゼッタの薄紫色に輝く右目は、俺の何か深いところまで見抜いている。
そして、俺の予想は的中する。何かを悟ったらしいロゼッタは、高笑いを始めた。
「アッハハハハハ! ああ、見える見える見える見える! 見えるぞ! 肉体も魂も全部、そして、お前の死の記憶まで全部だ! ハ、ハハハハハ! なんだその歪んだ魂は!?」
狂ったように笑いながらも、その発光する瞳は、俺をじっと見据えていた。
「……なるほど、人類に何度裏切られても魔王討伐を志す、悲劇の勇者様。さらに神の使徒によって女の体に移されて、なお魔王討伐を志すか。泣かせるな。憐れな神の走狗」
「……お前には、関係のない話だ」
ロゼッタが俺のやり直しを見抜くことは知っていた。だからこそ俺は仲間たちを遠ざけて、俺のループを暴露されることを止めようとしたのだ。
けれど、ロゼッタの暴き立てるものはそれだけではなかった。
「アッハハハハ。その落ち着きよう、貴様、以前にも私に会ったな? だが、今ここにいる私には、それ以上の真実が見えるぞ。ハッキリ言ってやろう。──今のお前、怨霊に憑かれてるんじゃないか?」
「……は?」
思わぬ言葉に、一瞬思考に空白が生まれる。その隙間に、ロゼッタの言葉は恐ろしいほどにすんなりと入ってきた。
「お前の魂、体の女性化に伴って、何か別のものが入り込んでいるぞ。まあ、神の位階に近い勇者の魂を、凡人のそれに変質させたのだから、多少の変化はあるだろう。しかし、どうにもそれだけでは説明がつかんな。お前の魂には、もう一つ人格が入り込んでいるように見える。自覚はないのか?」
「なにを……」
「自分の奥底に別の誰かがいるような感覚。あるいは、誰かが自分を責めているような感覚。そんなものがあるのなら、それはきっとお前が殺してきた人々の怨念に他ならん」
「……」
心当たりがない、と断言することはできなかった。だって俺は、常日頃から自分の過去の行いを悔いている。あの時助けられなかった誰かを、いつか死なせてしまった仲間を、思っている。それが、俺の心に巣食った亡霊の仕業だったと言いたいのか。
「なあ、憐れな元勇者様よ。時空を超えてもなお怨霊に憑かれ続けているお前は、本当に今ここで戦い、生きている価値のある人間なのか?」
「……」
「魂になって尚恨まれ続けているお前は、なぜ戦うのだ? まだ罪を重ねる気か?」
「……」
嘘だ、とすぐに断言できなかった。
分かっている。敵の言うことにいちいち耳を貸すのが、馬鹿げていることは。
しかし俺は知っている。人間を毛嫌いし、それよりも優れた存在であろうとするロゼッタは、潔白であろうという意思が強い。だから、まず嘘は吐かない。たとえ敵を陥れるためだとしてもだ。
であれば、俺は本当に死なせてしまった人たちの亡霊が──。
「というわけで死ね」
余計な思考に勤しむ脳の空白を縫うように、ロゼッタの魔法が飛んでくる。威力に欠ける、なんでもないような魔法。
「『水よ、燃え盛る炎を鎮めたまえ』」
慣れ親しんだ詠唱から出た水流が迎え撃つ。けれど、その魔術は俺の想定よりもずっと弱弱しく、ロゼッタの魔法を防ぐに至らなかった。
「がっ……」
炎が俺の体を撫でる。想定外のダメージだ。
「アッハハハハハ! おい小娘、知らんのか。魔法の基本はイメージだ。確固たる自信だ。それなくして魔法は成立せず、発動すらままならん。とても精神が揺らいだ状態で扱えるものではない」
「うる、さい……」
そんなことは分かっている。もう一度、意識を集中させる。確固たるイメージを。何度もやってきたことだ。形成するのはいつもの氷柱。強度は十分に。
「『氷よ、我が敵を穿ちたまえ!』」
しかし、打ち出した氷はひどく小さい。もはや拳程度の大きさにしかならなかったそれを、ロゼッタは魔法すら使わずに手で払いのけた。そして、嗜虐的な笑みを浮かべて俺に話しかけてくる。
「おいおい、お粗末な魔法だな。思い悩むことがあるのか? 私が聞いてやろうか?」
「黙れ……!」
言葉と同時に、魔法が飛んでくる、今度のは、拳大の岩だ。けれどその速度は凄まじく、常人であれば即死しかねない威力だ。
魔術での迎撃を諦めた俺は、大剣でそれを裁いていく。体の中心に飛んでくる岩を弾き、身を翻して腕を掠める弾を避ける。しかしその対処に夢中になっていた俺は、ロゼッタの魔法の前兆を見逃してしまう。
突如として俺の踏みしめている地面が揺れ出した。立っていることすらままならない大きな揺れに、俺は無様に地面に倒れ込んだ。
「アッハハハハハ! なんという無様! それでこそ人間だ! 貴様らには、己の無力を嘆きながら地面に倒れ伏しているのが相応しい!」
うつ伏せに倒れこむが、なんとか両手を付き、顔面が地面と衝突するのは免れた。しかし、安堵する間もなく俺の頭上に現れた何か大きなものが、影を作る。
見上げた先にあったのは、まるで巨大なシャンデリアのように、陽光を受けてキラキラと輝く氷の塊だった。
──まずい、対処が間に合わない。
「貴様ら人間が踏み潰してきた虫のように、無様に潰れろ」
侮蔑と嘲笑に塗れた声と共に、俺の体の五倍はあろうかという氷の塊が、自由落下を始めた。魔力の籠ったその攻撃は、間違いなく俺の体を押し潰し、破壊するだろう。
それを見た俺が最初に感じたのは恐怖でも焦りでもなく、安心感だった気がする。
やっと死ねるのだ、という安堵。これまで幾度となく感じてきたそれは、今この時もっとも高まっているようだった。
体が痛いだとか、迫りくる死が怖いだとか、俺が誰に復讐したいだとか、俺が本当は何者かだとか、俺の責務だとか、どうでも良く感じるような、不思議な解放感。
けれど、諦めかけた俺の耳に、遠くから聞こえてくる声があった。
「──メメ!」
◇
我ながら完璧な詰めだった。ロゼッタはそう分析する。魔王直々に討ち取ってこい、と送り出されたターゲット。
最初は想像以上の力量の低さに油断していた。おかげで手痛い一撃をもらってしまった。
しかし、魔眼を解放してからのロゼッタは終始優勢だ。まあ、神からの授かり物である魔眼を使って負けるわけにはいかないのだが。そんなのは、誇り高く敬虔なエルフの在り方に反する。
魔眼を解放したロゼッタは、メメの記憶を一瞬にして読み取った。そして、驚愕した。十代だと思っていた目の前の少女は、百年を超える記憶を所持していた。一瞬で全て解析するには、あまりに時間が足りない。ロゼッタは瞬時に、メメの記憶から、何をもっとも恐れているのか解析した。
その結果、ロゼッタは的確にメメの嫌がる言葉を吐くことができた。
『──お前、怨霊に憑かれてるんじゃないかか?』
メメの中にあった、自分の救えなかった命への罪悪感。それを刺激する推測を伝えてやると、あっさりと動揺を誘えた。
精神が揺らぐと、精神魔法のつけ入る隙が生まれる。
ロゼッタは高度な魔法戦を繰り広げるのと同時に、少女への精神干渉を図った。
人間にしては魔力が多く、その扱いにも長けていた少女の精神干渉への耐性はなかなか強固だった。おかげで、完全に掌握するには至らず、効果は暗示と言える程度となった。
しかし、元からネガティブな気質を持っていた少女の動きは明らかに変わった。
剣先がわずかに伸びてこない。魔法の威力がわずかに落ちた。
高い集中力を維持する少女は大きな隙を見せなかったが、精神干渉の影響は少しずつ出てきていた。
この様子なら、戦闘のうちに精神を完全に掌握するに至るかもしれない。
狂気的に笑いながらも、ロゼッタは常に冷静に思考を続けていた。
だから、想定外の援軍が来たとて、冷静に対処できた。
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