第47話 僕なんかの部屋にいる和水さん⑫
「お、おぷ、ぉ、ぉふっ、お、ぉぉおお」
「……一回深呼吸でもして落ち着いたら」
和水さんの少し呆れたような視線を受けながら、軽く呼吸困難になりかけていた僕は、言われた通りに深呼吸をしてみる事にした。
子供の頃に何度かしたラジオ体操を思い出し、全身をつかって深呼吸をする。
「ひっひっふー……ひっひっふー……」
流石は人類の英知が生み出した呼吸法。
何度も繰り返すうちに、あんなにも激しかった動悸は落ち着きを取り戻し、酸素が足りずにブラックアウト仕掛けていた視界も開けて来た。
あのままだったら僕は間違いなく心臓発作か何かであの世に行っていただろう。
和水さんが何でもないように言ったあの言葉は、僕にそれだけの衝撃を与えたという事だ。
「落ち着いた?」
「……えぇ、おかげ様で、なんとか」
「よかった。じゃあ給湯器の使い方教えて、お湯を沸かすのは、この風呂自動ボタンおせばいいの?」
「はい、それだけでお湯は貯まりますから、はぁはぁ、便利ですよね。あぁ、先に浴槽の栓を閉めないと」
「私が閉めてくるから座ってていいよ。まだしっかりと落ち着いてないみたいだし」
「あはは、すみません。実はまだ息がちょっと苦しくて、ありがとうございます和水さんじゃないんですよねぇぇええええ!!」
僕は叫んでいた。
突然の大声にあの和水さんも目を見開いて驚いている。
後でお隣さんか上下から苦情がくるかもしれないけれど、この際仕方ない。
ご近所づきあいの大切さが霞んでしまうほど、今の僕がおかれている状況は到底黙っていられるものじゃなかった。
「ちょちょちょ、ちょっと待ってくださいよ和水さん! なんかおかしくないですか? なんかおかしくないですか?」
「……なんで二回言ったの?」
「二回も言いますよ大事な事ですから! 今和水さんは何をしに行くって言いましたか?」
「浴槽の栓を閉めて、風呂自動ボタンを押すって言いましたぁ」
「あぁん! なんでちょっとめんどくさそうなんですか!?」
「だって、さっきからちょっと五月蠅いから」
「んっん~、ドストレート! 僕は思ってるよりもよっぽど簡単に傷つきますよ和水さん!」
「ごめんごめん、じゃあ私栓閉めてくるから」
「いやいやいやいや、ちょっとお待ちください和水さん。落ち着いて答えてくださいね。どうしてそんなにお風呂を沸かそうとしてるんですか?」
「これからお風呂に入ろうと思ってるから」
和水さんは真顔だった。
ちょっと前までのふざけた感じは今の和水さんからは感じない。
今の和水さんは、心の底から真剣にお風呂に入りますと、そう顔で語り掛けてきているかのようだった。
「分かってくれた?」
「……いえ、まったく」
「じゃあ、私お風呂の栓閉めて来るから」
会話がループしているような気がした。
僕が気付かないうちに、おかしな世界線にでも迷い込んでしまったというのだろうか。
まさか自宅が異世界か並行世界への入り口だったなんて……などと、現実逃避をしても状況は変わらなかった。
呆気にとられている僕に背を向けて、和水さんはお風呂場に行ってしまう。
すぐに戻ってきた和水さんは、僕の見ている目の前で、給湯器の自動ボタンを押し込んだ。
『お風呂にお湯をはります』
無機質な電子音声が喋ると同時に、お風呂場の方から勢いよくお湯の出る音が聞こえて来た。
「どのくらいで溜まるの?」
「……え、ぁあ、割と、早いです。十分とか、そのくらい、ですかね」
「ふぅ~ん、マンションのお風呂って便利だね」
「えぇ、まぁ…………あの、和水さん」
「ん? どしたの?」
「和水さんお風呂入るんですよね?」
「うん。いいでしょ?」
「……うちのお風呂普段は僕が使ってるんですけど、気になりませんか? 汚いとか思いません?」
「別に平気」
「あぁ、そうですか……ジャンプ―とかも全然安物しかないですけど」
「気にしないって、借りれるだけありがたいし」
「……あ、じゃあその、お先にお入りくださいね、一番風呂を贈呈いたします。なんて」
「何言ってんの、一緒に入るに決まってるでしょ。一番風呂は家主がもらわないとね」
「あ、いいんすか? さすが、和水さん、出来た方ですね」
「なに、急に褒めて、何も出ないけど? ほら行こ」
「いや、出るじゃないですか!? 今からその大きなオッパイがポロンと出ちゃうじゃないですか!!!」
ビリビリっと大気が振動するような。
そんな大声で僕は叫びたかったけど、叫べなかった。
心の中だけで和水さんにツッコミをいれた。
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