第31話 母親

 次に意識が戻った時、真っ暗な闇の中に、リティーナがうつぶせに倒れているのが見えた。

『リティーナ、大丈夫?』

 聞こえないのがわかっていても、思わず呼びかけてしまう。

 ぼくの呼びかけが届いたから、ってわけじゃないんだろうけど、リティーナが身じろぎした。目を開けて、上体を起こす。とっさに膝立ちになってぼくを抜き、辺りを素早く探る。


「……ここ、どこなの?」

 不安そうにつぶやき、リティーナは立ち上がった。

『ぼくもわからないよ。レグアズデじゃないみたいだけど』

 リティーナから返事はない。ぼくの声はやっぱり届いていないみたいだ。

 こっちの世界に来てから、意識が途切れたのは初めてだ。一体何が起こったのか、さっぱりわからない。イードルムさんの魔法か何かなのだろうか。

 周囲は墨で塗りつぶしたように真っ黒だけど、不思議とリティーナとぼくだけはくっきりと縁取られ、暗闇から浮き上がっていた。

「魔法の明かり、というわけではなさそうね。ケントニスがいれば何か教えてくれるんだろうけど」

『説明好きだものね。いないのが残念だ』

 無駄だとは思うけど、つい返事をしてしまう。こんなにも心細そうなリティーナを見るのは初めてだった。


『リティーナは、一人じゃないんだよ。ぼくがいるから』

「とにかく、先に進むしかないか」

『うん、気をつけてね』

 リティーナは慎重に歩き出した。なにせ真っ暗なので、方向も何もわからない。屋内なのか、屋外なのか、地面を踏みしめているのかすらもあやふやだ。

 歩き続けることしばし、前方に何かうっすらと輝いているのが見えた。

 リティーナが近づくにつれて輝きは増していく。そして暗闇に、何かが浮かび上がった。


「小さい時の、わたし?」

 それは、どこかのお屋敷の、広い庭の光景だった。五歳くらいだろうか。幼いリティーナが木剣を持って、肩で息をしている。

「どうしたの? もうおしまい?」

 幼いリティーナと向かい合っているのは、思わずはっとするくらいきれいな女性だった。

 リティーナと同じ銀色の髪、そして、深緑色の目をしている。傍らには、ゆったりとした服を着たリザードマンが控えている。もしかして、ケントニスさんだろうか。なら、女性はリティーナのお母さんか。

「いえ、まだやれます!」

 リティーナは木剣を構え、女性目がけて突進する。

 今とは比べ物にならないけど、それでも子どもながらに鋭いリティーナの斬撃を女性はあっさりと受け流した。女性は体勢が崩れたリティーナの足を払う。リティーナは、見事に顔面からすっころんだ。

「……う、うう」

 転倒したリティーナの目に涙がにじむ。女性はリティーナの眼前に木剣の切っ先を突きつけた。ひっ、と喉の奥でリティーナが押し殺した悲鳴を上げる。

「ここが戦場だったら、あなたは涙を流す暇もなく死んでいるわよ」

「ティエラ様、いくらなんでも厳しすぎるのでは……」

「ケントニス、私は言ったはずよね。遠慮なく娘を鍛えろって。剣聖が教えているのに、この程度なの?」

 

 やっぱり、この二人はケントニスさんとティエラさんだ。にしても、なんかティエラさん、ピリピリしてるな。

「お言葉ですが、リティーナ様の才には目を見張るものがあります。じっくり鍛えていけば、いずれは大陸全土に名をとどろかす剣士になるかと」

「いずれって、いつ?」

「それは、今はまだなんとも」

「リティーナには、今すぐにでも支えとなる強さが必要なの。この子にとっては、王城だってきっと戦場になる。わかるでしょう」

「もちろん、わかります。ですが、姫様はまだ五歳なのですよ」

「年齢なんて関係ない。深緑色の目を持った王族として生まれた瞬間から、この子は戦う運命を背負っている。だからこそ、あなたを師に選んだのよ」

「母上、もう一度、お願いします」

 リティーナが、よろめきながら立ち上がる。顔も服も泥と土で汚れていた。

 リティーナがまだ構えもしないうちに、ティエラさんが無造作に木剣を振る。乾いた音を立てて、リティーナの木剣が宙に舞った。

「今日はもういい。次に来る時までに、もっと腕を磨いておきなさい」

 言って、ティエラさんは自分の木剣をケントニスさんに放る。

「……はい。もうしわけありません」

 リティーナはうつむくと、絞り出すように言った。

 ティエラさんは踵を返すと、しょんぼりと肩を落とすリティーナを振り返りもせずに去っていく。

 リティーナの境遇を考えれば仕方がない面もあるんだろうけど、冷たすぎないかな。だって、リティーナはまだほんの子供だよ。母親に甘えたい年頃じゃないか。


「姫様、お召し物が汚れてしまいましたね。着替えましょうか。ついでにスウスに湯浴みの準備を頼みましょう」

 ケントニスさんが優しく声をかけるが、リティーナは勢いよく首を横に振った。

「いい。それよりケントニス、剣をもっと教えて」

 先ほど弾き飛ばされた木剣を拾い上げ、構える。

「ですが、お疲れでしょう」

「つかれてない! わたしはまだ戦える!」

 ほっぺたを膨らませて、リティーナは木剣をぶんぶんと振り回した。

 リティーナの強情さって、昔からだったんだな。ケントニスさんは苦笑すると、木剣を正眼に構える。

「わかりました。では、基本の型のおさらいからいきましょうか」

「よろしくお願いします、先生!」

 そして二人は剣を打ち合わせる。


「――こんなことも、あったな」

 そう言ったのは、今のリティーナだった。一言もしゃべらずに今の光景を眺めていたのだ。

 リティーナは、手にしたぼくの刀身に視線を移す。

「ケントニスとスウス、あ、スウスっていうのは、昔母上の付き人だった人で、わたしを育ててくれた人。わたしたちは、離宮に三人で暮らしているの。王城にはいられなかったから」

 そうだったのか。王女なのに、王城で暮らせないってどんな気持ちだったんだろう。


『お父さんやお母さんと一緒にいられなくて、寂しくなかったの?』

「スウスの作るご飯は、すごくおいしいんだよ。王城の料理人よりも間違いなく腕は上ね」

『だからリティーナは食いしん坊になったんだね』

「たまに遊びに来る兄上が、羨ましがってたな」

 ぼくたちの会話は、徹底的にかみ合っていない。まあ、会話にすらなってないんだけど。

「魔王を倒して家に帰ったら、たくさんスウスのご飯を食べさせてもらおう……ってあれ、わたし、なんで剣に話しかけてるんだろ」

 いいよ、もっとどんどん話しかけてよ。傍から見たら変な人だけど、幸い周りには誰もいないし。

 離宮の光景が消えていく。

「先に進めってことかな」

『きっとそうだね。行こう』

 リティーナは再び歩き出した。何があるかわからないと判断したのだろう。ぼくは抜身のままだ。

 少し歩くと、また輝きが見えてきた。近寄ると、輝きは暗闇の中に像を結ぶ。

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