イヴの遺言 ⑤
「――桐島くん、君には本当に感謝してるんだよ。君のおかげで、家内や娘と最期にいい思い出を作ることができたからね。私もこれで、もう思い残すことはない」
「いえ、そんな! 感謝して頂けるようなことは何も……」
会長から頭を下げられた僕は、謙遜で返した。
どうやら、絢乃さんがおっしゃっていたことは本当だったらしいが、僕には自分が特別なことをしたという意識はなかったのだ。むしろ、あれは人として当然の行動だったと今でも思っている。
「――会長、お約束しましょう。僕はこの先、誠心誠意、絢乃さんを支えていきます。ですから、ご安心下さい。僕を信じて下さい」
「桐島君。――いざという時は、絢乃を頼むよ」
彼が真面目な顔でそう言った時、絢乃さんがお友達と一緒にキッチンから戻ってこられたのが見えた。僕がこの言葉に「……は?」と首を傾げたのは、彼女にこの時の会話の内容を詮索されたくなかったからである。
会長も僕と同じように思われたようで、お嬢さんの姿に気づかれると「いや、何でもない」とごまかされ、僕に「今日は存分に楽しんでいきなさい」とだけおっしゃった。
――源一会長、僕は今、あなたとのお約束をキチンと果たせているでしょうか?
僕は絢乃さんを心から愛しています。彼女を守れる自信はありませんが、幸せにしたいと心から思っています。
僕では少々頼りないと、会長は呆れておいででしょうか? ですが、僕は天地神明に誓いました。絢乃さんの手を、絶対に離さないことを。彼女もきっと同じ想いでいるはずです。
ですから、僕を信じて見守っていて下さいませんか? お願い致します――。
****
――このパーティーでは、本当に楽しいひとときを過ごすことができた。
このテーブルに並べられた、ちょっと場違いに見えたフライドチキンやホットビスケットは、里歩さんからの差し入れだったらしい。そのチキンを口元を油でベタつかせながら頬張る絢乃さんは、名家のお嬢さまというより一人の十代の女の子に見えた。
彼女のその姿により親近感を覚えていたことは、僕の中だけの秘密である。
――彼女お手製のクリスマスケーキは、真っ白なホイップクリームと真っ赤なイチゴでデコレーションされたシンプルなものだったが、味は折り紙つきだった。
甘いものが苦手なお父さまのために香り付け程度にリキュールを使ったらしいが、加熱されていてアルコールは飛んでいたので、香りだけなら下戸の僕にもあまり気にならなかった。
絢乃さんは僕が下戸だとご存じだったので、そのことを気にかけて下さったが。僕が「コレくらいなら大丈夫です」と答えると、ホッとされたようだった。
あとはクリスマスソングをみんなで歌ったり、クリスマスに関するDVDを鑑賞したり。
絢乃さんと僕、里歩さんは他愛もない話もしていた。里歩さんは初等部時代からの絢乃さんの親友で、中等部からはバレーボール部に入っていてこの年の秋からキャプテンを務めているのだと、絢乃さんが教えて下さった。
――しばらくすると、天気予報どおりに雪が降り始めた。そのことに一番早く気づいたのは里歩さんで、一緒に雪を眺めようと絢乃さんを窓際へ手招きした。僕は絢乃さんに手招きされ、立ち上がった。
「スゴいな。東京でホワイトクリスマスなんて珍しい」
僕がそうポツリと呟くと、それを耳敏く聞きつけたらしい里歩さんが今更のように僕に挨拶をしてくれた。
それまでずっと、彼女のいちばんの味方でいてくれたお友達に僕も敬意を払い、丁寧に挨拶を返した。――里歩さんは、「あたしなんか普通のJKですから」とあっけらかんと笑っていたが。
「――この雪は、神様がパパに下さった最高のクリスマスプレゼントかもしれないわね……」
いつの間にか薄っすらと積もり始めていた雪を見て、絢乃さんがそう言った。なんて文学的な表現なのだろう。僕も里歩さんも、ゆっくりと頷いた。
****
しばらく三人で雪を眺めていると、疲れが出たらしい源一会長が寝室にお戻りになり、夜の八時半を過ぎた頃に里歩さんも帰ることになった。絢乃さんは彼女を玄関先まで見送りに出られた。
リビングへ戻ってこられた絢乃さんに、僕も帰らなければと告げると、彼女は「貴方も帰っちゃうの?」と切なそうに僕のコートの袖をつままれた。
このまま振り払って帰ってしまうのは忍びなく、僕は彼女に新しい車を見て頂こうと思い立った。その提案を聞いた時の彼女の、嬉しそうな様子は今でもよく憶えている。
積もった雪に足を取られないように気をつけながら、僕は彼女を僕の新車の前まで誘導した。
彼女は目を輝かせ、同時に四百万円でローンを組んだと言った僕の財布事情を心配して下さった。
その流れで自然と異動の話に繋がったが、「話せる時が来ない方がいい」という僕の言葉に、彼女は表情を曇らせた。彼女にも、僕の言わんとすることが理解できたようだった。
「また……、連絡くれますか?」
別れ際、上目遣いでそうおっしゃった彼女に、僕は「はい、もちろんです」と答えた。僕は彼女のお父さまから、彼女のことを託されたのだ。
――源一会長がお亡くなりになったと絢乃さんから電話を頂いたのは、新しい年を迎えた二日後のことだった。
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