第2章 新米秘書、奮闘!
イヴの遺言 ①
――その翌日、僕は朝イチで出勤し、真っ先に三十階の人事部へと出向いた。用件はもちろん、秘書室への転属の相談のためである。
前日の夕方に絢乃さんと電話で話してから、僕の決意はすでに固まっていた。あとはもう、僕がいなくなってから総務課がどうなろうと知ったこっちゃなかった。……と言ったら、当時の総務課の同僚に怒られそうだが。
「おはようございます。――あの、
部長の執務室の前に席を構えている秘書の
「総務課の桐島くんね? もしかして、小川さんの大学の後輩だっていう?」
「はあ、そうですけど……」
どうして彼女がそんなことを知っているのかと僕は首を傾げたが、何のことはない。上村さんももちろん、先輩と同じ秘書室所属なのだ。むしろ知らない方がおかしい。
となれば、僕が転属したがっていたことも、先輩から彼女の耳に入っていた可能性もあるわけだが……。
「――あの、部長にご相談したいことがあるんですけど。取り次いで頂けますか?」
「分かった。ちょっと待っててね」
彼女は僕の用件を詮索することなく、すぐに立ち上がり部長室のドアをノックした。
「――はい」
すると、中から渋めのダンディな声で返事があった。この声の主こそ、篠沢商事・人事部の山崎部長に違いなかった。
上村さんは少しだけドアを開けると、中にいらっしゃる部長と二言三言話し、僕に向き直った。
「桐島くん、中へどうぞ。部長が、あなたの話を聞かせてほしいって」
「ありがとうございます。――山崎部長、失礼します」
僕は上村秘書にお礼を言うと部長室へ入り、人事部長へ会釈した。
「総務課の桐島くんだね? おはよう。今日は私に何か相談ごとがあると聞いたんだが。よかったら、そこへ座って話してみてくれないかね?」
彼は穏やかな表情で、僕に応接スペースの革張りのソファーを勧めた。
「はい、畏れ入ります」
ソファーに浅く腰かけると、向かいの一人掛けソファーに山崎部長が座られた。
「――総務課というと……、ひょっとしてパワハラの件かな。君も被害者の一人だったということかね」
「あ、いえ! そうではなくて、僕のご相談というのはそれとは別件でして」
パワハラの被害者だったことは事実だが、僕はそのことを人事部長に相談するつもりはなかった。だからといって、泣き寝入りする気でもなかったが。
「実は……、僕は近々転属を考えてまして。部長にご相談したいのはそのことなんです」
「転属? 希望部署はもう決まっているのかね?」
相談内容がパワハラ問題のことではないと分かり、山崎部長は少々ホッとされているようだった。
だいぶ後になって分かったことなのだが、僕自身も被害に遭っていたパワハラ問題は、山崎部長にとっても頭の痛い問題だったらしい。
「はい。一応、秘書室への転属を希望してます」
「秘書室かね。よかったら理由も話してもらえないかな」
「はあ……。実は個人的な理由なんですが……、絢乃お嬢さんのためなんです」
理由を訊かれ、ウソをつくのが下手な僕は正直に打ち明けた。こんなことで見栄を張っても仕方ないし、バレた時に恥ずかしい。
「絢乃お嬢さんの……? ということは、一昨日の夜に会長がお倒れになったことと関係があるんだね?」
「お察しのとおりです。絢乃お嬢さんから伺ったんです。源一会長は末期のガンで、もってあと三ヶ月の命だと……。それで、不謹慎な話で申し訳ないんですが、源一会長の後継者は絢乃お嬢さんお一人だけなんですよね? 僕はお嬢さんに恩があるので、そのご恩に報いるには秘書室への異動が最善の方法なんじゃないかと思ったんです」
「なるほど……。事情は分かったよ。それで、いつまでに籍を移したい?」
「そこまではまだ……。できるだけ早い方がいいですが、絢乃お嬢さんの会長就任が決定するまでに間に合えば。僕自身も総務課で仕事を抱えてますし、途中で放り出すようなことはしたくないので」
それをやってしまうと、僕も島谷課長と同じレベルの人間に成り下がってしまう。絢乃さんに幻滅されたくなかったので、絶対にそうはなりたくなかった。
「……分かった。では秘書室長の広田くんとも相談して、なるべく早くこの話を進めよう。決まり次第、返事は君の部署へ内線電話で知らせるから、今日のところは君も業務に戻りなさい」
「はい。お時間を
僕は入室した時と同じく山崎部長に頭を下げ、部長室を後にした。
「――とりあえず、一歩前進かな」
この段階で僕にできそうなことはすべてやった。あとは機が熟すのを待つだけだった。
****
――総務課に着いた時は、始業時間である九時のギリギリ三分前だった。
「おっす、久保! 昨日の合コンどうだった?」
「おはよ。ちきしょー、惨敗だったぜ……。――つうか、お前どこ行ってたん?」
久保が訊いてきたので、「人事部」と手短に答えた。すると彼もすぐに分かってくれたらしく、「ああー」と相槌を打っていた。
「昨日言ってた転属の相談か。んで? どこの部署に異動すんのよ?」
「秘書室」
僕は内心、「お前仕事しろよ」と思いながら、簡潔に答えた。こんな現場、課長に見られたらまたイヤミ地獄だ。
……まあ、そんなものはもう怖くも何ともなかったが。
「えっ、マジ!? あそこって女の園じゃん!」
「バカ! お前声でかいって!」
自分の席で何やら作業をしていた課長に睨まれていることに気づいた僕は、慌てて大声で喚いた久保の頭をはたいた。
「桐島君、久保君。君らは仕事中に何をじゃれ合っとるんだね?」
イヤな予感が的中し、課長が僕らの元へツカツカとやってきた。思いっきり仏頂面で。
……久保、余計なこと言うなよ。僕はとっさに彼に
「あー……、いえ! 何でもないっす! な、久保?」
「……えっ? ああ……うん、まあ」
「そうか。まあいい。仕事中に仲間と喋るなとは言わんが、あまり周りに迷惑はかけんように」
「「はい。すみません」」
僕らは先生に叱られた小学生のように、素直に謝った。が、「迷惑をかけるな」と課長にだけは言われたくなかった。
部下に迷惑をかけまくっていたのは、他でもない課長自身なのだ。
「――で、異動はいつごろ決まりそうなんだよ?」
「うん、なるべく早いうちにとは言ってある。広田室長と相談して、決まり次第内線で返事がくることになってんだ」
……ただ、それだと一つ大きな問題が生じるのだが。万が一課長がその内線電話を取ってしまった場合、話がこじれてしまう恐れがあったのだ。
「内線で? それってヤバいんじゃね? もし課長がその電話取ったらどうすんだよ?
「そうなんだよ。ま、そん時は課長から受話器ぶん取るか、課長に出られる前に俺が取るかだな」
「桐島……。お前、今回は意外と強気じゃん」
〝意外と〟は余計だっつうの、と思いつつ、僕は感心する久保に得意げに言ってのけた。
「今の俺には、課長なんて怖くないからな」
****
――源一会長は病気の告知を受けた翌日から、通院による抗ガン剤治療を受けながら会社へも出社されていた。本当に最期まで、この会社や僕ら社員たちのことが大切だったのだなと思う。
その日も、彼は秘書である小川先輩に支えてもらいながら、少々おぼつかない足取りで各部署を視察されていた。
昼休みが終わって社員食堂から上がってきた僕は、エレベーターで最上階から下りて来られた会長と廊下でバッタリ会った。
「――会長、こんにちは。……あの、お体の加減はいかがですか?」
「君は……ええと、確か総務課の桐島くんだったね?」
「はい」
やっぱり会長は、僕の顔と名前をちゃんと憶えて下さっていた。
「心配してくれてありがとう。私の病気のことは誰から聞いたのかな」
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