第16話:本当に私を傷つけているのは
「おはよう、百合香」
目が覚めると、天井を背景にして海菜の顔がアップで視界に映る。彼女は私が起きたことを確認すると微笑み、私の上から降りて隣に寝転んだ。彼女の長い手足が、私の身体に絡む。向き直し、甘えに応えるように抱きしめてやると「ふふ」と嬉しそうな笑い声を溢した。可愛らしい微笑みが、愛おしくて仕方ない。
「海菜…好きよ」
「…うん。私もだよ」
軽く身体を押され、転がされる。再び背景が天井に変わると、その背景に彼女がフレームインする。
「愛してるよ」
彼女は私にそう囁き、私の額に唇を押し当てた。目を閉じると瞼に口付け、鼻、頬、耳、そして唇に順番にキスを落とす。そして見つめ合い、ふっと笑った後、もう一度唇を重ねた。そのまま、彼女は私のパジャマのボタンに手をかけ、一つずつ、焦らすようにゆっくりと外していく。全て外し終えたところで、露出した胸元に口付けた。くすぐったさと恥ずかしさが入り混じるが、愛おしそうな微笑みを向けられると幸せも感じた。しかし素直に返せず、恥ずかしさが勝ち、顔を逸らしてしまう。
「…恥ずかしい?」
耳元で揶揄うように彼女が囁く。答えずに顔を逸らしたままいると、無理矢理彼女の方をむかされ、唇を奪われた。
真っ赤になっているであろう私の顔を見て彼女はいつものように悪戯っぽく笑う。
憎たらしいその顔を抓る。痛い痛いと言いながらも幸せそうな彼女の笑顔に、絆されて顔が緩んでしまう。
手を離すと「続けても良い?」と彼女は優しく問う。許可を出すと、徐に自身の服のボタンを外し始める。
見ないように顔を逸らし、目を閉じて自身の心臓の鼓動を感じながら待っていると、ふと、心臓の音に混じって何処からか音楽が聞こえてきた。聴き馴染みのある音楽に意識が集中する。この曲は朝のアラームとして設定している曲だ。
ああ…そうか、この幸せな時間は幻想なんだ。夢だと気付いてしまった瞬間、私の上に乗っていた彼女の気配がふっと消えた。目を開ける。彼女はいない。身体を起こして探してみても、どこにも居ない。
あれは夢だったとはっきりと分かるのに、唇に、身体に、彼女の感触が生々しく残っている。
ベッドサイドのテーブルの上で鳴り響く音楽を止め、自身の指で唇をなぞる。
「…海菜」
身体を倒し、目を閉じ、彼女が触れた軌跡をなぞり、彼女があの後触れていたであろう箇所に順番に触れ、幸せな夢の続きを自らの手で描いていく。
「…っ…海菜…好き…」
そうやって、夢の余韻に浸ってしまっていると、部屋のドアをノックする音と母の声で覚醒する。瞬時に自分が何をしていたかを理解し、罪悪感と羞恥心を覚えた。
「百合香?まだ寝てるの?朝ご飯もう出来てるわよ」
「お、起きてる!今行く!」
ベッドから飛び起き、スマホを持って勢いよく部屋を出る。扉の側にいた母が「きゃっ」と悲鳴を上げた。
「ご、ごめんなさい!おはよう、お母さん」
「お、おはよう。そんなに慌てなくても、まだ遅刻するような時間じゃないわ。大丈夫よ」
「遅刻する夢見ちゃって…」
母はなんの疑いもなくその嘘を信じた。咄嗟に出てきた上手い嘘に、自分でも感心してしまうと同時に、母のことを騙し慣れてしまっていた自分に気づいてしまい、少し複雑な気分になる。
「遅刻しないためにも、早く朝ご飯食べましょう」
「えぇ…」
母の作った朝食を母と食べていると、ふと、母が箸を置いた。
「…お母さん?どうかした?」
「…ねぇ百合香、一昨日持って帰ってきたイヤリングのことなのだけど」
一昨日、私が耳に付けて帰ってきたイヤリングについて母は「何故片方なのか」と質問した。それについては友人と一個ずつ分け合ったと説明して、母も納得してくれたはずだ。
「友達と半分こしたの。一昨日話したでしょう?」
「…その友達は、本当に友達?」
「えぇ。友達よ。女の子」
海菜とは付き合っていない。嘘は言っていない。
「でも…やっぱり、いくら同性同士とはいえ、同じイヤリングを分け合うなんて、距離が近すぎないかしら」
「そう?女の子同士なら普通の距離感だと思うけれど」
過干渉しようとする母に対する苛立ちを抑え、冷静に受け答えをする。感情的になってはいけない。それくらい普通だと思わせられれば私の勝ちなのだから。
「…その女の子、この間話してた憧れの女の子?」
その問いに対して、頷くべきか悩む。しかしいずれは話すべきことだ。ここで誤魔化すわけにはいかない。勇気を振り絞り、素直に認める。
「…そうよ。この間話した子」
「恋だなんて勘違いしちゃ駄目よ。百合香」
「…勘違いなんてしてないわ」
嘘は言っていない。この想いは勘違いじゃないのだから。
「…なら、そのイヤリングは捨てなさい」
耳を疑った。母の冷たい視線が心に突き刺さる。
「なんでそんなこと…出来るわけないじゃない。次会うときに付けるって約束したの」
「無くしたっていえばいいわ。そんなの付けてたら周りからも勘違いされちゃうし…情が移っちゃう」
「何よその理由…お母さん、今どれだけ酷いこと言ってるか分かる?」
「…来なさい、百合香」
食事無理矢理中断させられ、洗面所に連れて行かれ、一昨日買ったイヤリングを渡された。
「ごめんなさい。でも、あなたのためなの。分かって」と母は罪悪感を孕んだ辛そうな顔をして言う。ああ、やはり母の中では同性愛は病気なのだと察する。そして、私の想いがただの憧れではないことも気付いているのだろう。
「捨てなさい。百合香。自分の手で」
冷たい声で母は言い放つ。同性に恋愛感情なんてないと証明してくれと、懇願する悲痛な声が聞こえた気がした。私が誰と恋愛しようが、その相手が同性であろうが、母には関係無いのに。
そんなにも、私より世間体が大事か。
「百合香、早くしなさい」
低い声で命令されてしまうと、身体は逆らえない。母を怒らせて大変な目にあった過去に対する恐怖が身体を動かしてしまう。
悔しさでで震える手でイヤリングを掴み、洗面所に置かれた小さなゴミ箱の上に、イヤリングを持つ手を持っていく。本当に、このまま母の言いなりになる気なのか。考えろ。母を丸め込む方法を。彼女との思い出が詰まったこのイヤリングを捨てずに残す方法を。
ふと、以前、母が片方無くしたピアスをリメイクしてストラップを作っていたことを思い出す。
「百合香!待ちなさい!どこ行くの!」
イヤリングを握りしめ、洗面所を出てリビングの小さなタンスを開けて工具箱からニッパーを取り出す。
「…ごめんなさい」
彼女に一言謝り、イヤリングの金具を外し、余っていたカニカンつきのストラップにパーツを取りつける。
「…お母さんは、私が彼女とお揃いのイヤリングを付けて、周りからそういう関係だって勘違いされたり揶揄われたりしてしまうことに怯えてるんでしょう?だったら、これで文句無いわよね?」
ストラップになってしまったイヤリングを母の前に掲げる。こうでもしなければきっと、私が捨てなくともイヤリングは捨てられていた。
自分がさせたことに対して罪悪感を覚えていますと言わんばかりに申し訳なさそうな顔をする母に苛立ちを覚えながら、ストラップをポケットにしまい、食卓に戻る。
「…ごめんなさい百合香…これは「私のためって言うんでしょう。分かってるわ」」
静かに涙を流す私を慰めようと、母は私を抱きしめようとする。拒否し、母を睨む。
「百合香…本当にごめんなさい。けれど…憧れの子とは少し距離を置いた方が良いわ。じゃないとあなたが辛い目にあってしまう」
「…」
「ねぇお願い百合香…分かって…私はあなたを想って言ってるの。その女の子とは縁を…「ごちそうさま」百合香…」
そのまま母と一言も話さないまま支度を済ませ、ストラップをパジャマのポケットから制服のポケットに移し、挨拶もせずに家を出る。
このストラップを見たら、彼女はどんな顔をするだろうか。次のデートでお揃いのイヤリングをつけたいと言ったのは私なのに。
ポケットから取り出したイヤリングだったものを握りしめる。どんな顔をして彼女に会えばいいのだろう。足が鉛のように重くなり、その場にへたり込んでしまった。
スマホの着信音が鳴る。涙を拭い、ストラップをポケットにしまい、重い腰を持ち上げ、重い足を引きずりながら応答する。
「あ、ユリエルおはよう。あたしらいつもの場所に居るけど、まだ来てないからもしかしてまだ寝てるかと思って」
「今向かってる」
「うん。分かった。…なんか鼻声だね。大丈夫?風邪?」
「大丈夫よ」
だんだんと、足が軽くなって来た。少し足を早め、待ち合わせ場所に向かう。見えてきた2人に手を振る。2人の顔を見たら、再び涙が溢れて来てしまった。
「だ、大丈夫?どうしたん?」
「なんでも無いわ…お母さんとちょっと喧嘩しただけよ…」
「…ハグするか?あー…でも王子が妬いちゃ…おわっ…!」
両手を広げた夏美ちゃんにすがるように抱きつく。腰のあたりに温もりを感じ振り返ると、はるちゃんが私を見上げて笑った。
「ハグするとストレスが3分の1無くなるんだって。2人分だからこれで3分の2だね」
「その計算、合ってるん?」
夏美ちゃんが苦笑いする。いつも通りの二人のやりとりに心が和らぐ。
「…ありがとう二人とも。…ちょっとだけ元気出た」
「ん。じゃあ行こ。電車乗り遅れたら大好きな王子と一緒に学校行けなくなっちゃうよ」
ニヤニヤする夏美ちゃん。けれど今は、海菜に会うのは少し気まずい。どちらにせよ、教室で会うことなるのだが。
「…海菜ちゃんと何かあった?」
「…海菜とは何も無いわ。ただ…」
ポケットからストラップを取り出し、二人に見せる。
「…一昨日、海菜とペアで売ってるイヤリングを半分こしたの。けど…お母さんに…捨てられそうになって…」
「は!?勝手に捨てようとしたの!?」
「…お揃いでアクセサリーなんて付けてたら、勘違いしちゃうって」
「勘違いって…誰が?」
「…私が。ただの憧れを恋愛感情と勘違いしちゃダメよって。…あと、周りからもそう見られてしまうかもしれないからって」
「はぁ!?何それ!勘違いされるっつーか、二人の場合は勘違いじゃないじゃん。付き合ってないけど両想いなんしょ?好きなんでしょ?」
「…えぇ。…好きよ。海菜が好き。…憧れなんかじゃないわ。ただの憧れだったらあんな夢…」
ふと、今朝の夢がフラッシュバックしてしまう。
「えっ、何?…ちゅーする夢でも見たん?」
「なっちゃん、セクハラ」
「…と、とにかく…この想いはただの憧れじゃないの。でも母は多分、同性愛を間違いだと思ってる。私に道を踏み外さないでほしいのでしょうね」
「道を踏み外すって…なんなん…ユリエルなんも間違ってないのに。好きになった子が女の子だっただけじゃん」
私の代わりに怒ってくれる優しい二人にお礼を言い、話を続ける。
「次のデートで…一緒につけようって約束したのに…二人で買った思い出を、こんな形でしか守れなかったのが悔しくて…」
夏美ちゃんが私の掌に乗るストラップを手に取る。じっと考えるようにそれを見つめた後、ストラップの紐を私の耳に引っ掛けた。
「いや、無いでしょ」とはるちゃんが苦笑いしながらツッコミを入れる。
「…無いよな。ごめん。めちゃくちゃダセェわ」
二人のやりとりに、真剣な顔をしてボケる夏美ちゃんに思わず笑ってしまう。しかし、それだけでは心は晴れない。面白いのに、悔しさがが勝って涙がぼろぼろと溢れる。
「…電車、一本遅らせる?」
はるちゃんが私を気遣ってくれるが、電車を送らせたって彼女に謝らなくてはならない現実は変わらない。だったら、早い方がいい。
「…ううん…今すぐにでも会って謝りたい」
「…偉いね。あたしだったら多分一本遅らせてるし、学校行っても気まずくて話せないと思う」
多分私も。とはるちゃんも頷く。私だって、話すのは怖い。けれど、時間が経って言いづらくなってしまったら余計に彼女を傷つけてしまう。深呼吸し、いつもの時間にホームに来た電車の車両に足を踏み入れる。
「…けど、ストラップにするって発想凄いね。自分でやったん?」
「えぇ。母がよく、片方だけ無くしたピアスをストラップにリメイクしてるから。簡単よ。…金具を外して、カニカンをつけるだけ」
「…蟹缶?」
「蟹の缶詰じゃないわよ。アクセサリーの金具のこと。ここ、蟹の爪みたいでしょう?」
ストラップの金具を指して説明する。なるほどと二人は頷いた。
「…そろそろ海菜ちゃん来るね」
「そうね」
ストラップを握りしめる。扉が開き、私を見た海菜が「おはよう」と微笑んだ。その顔を見た瞬間、心が痛む。
「はよ。…ユリエルどうした?元気ねぇな」
「色々あったんだって。ちょっと二人きりにしてあげよ?」
夏美ちゃんとはるちゃんが、海菜と二人で話しやすいように星野くんと満ちゃんを連れて車両を移動してくれた。
「…おはよう、海菜」
「おはよう。…元気ないね。お母さんと喧嘩でもした?」
心配そうに私の顔を覗き込む海菜。握っていた手を開き、中に入っていたものを見せると彼女の瞳が揺れる。
「…これ…この間買ったイヤリング…だよね…」
「…ごめんなさい。お母さんに…捨てろって言われたの。お揃いのアクセサリーなんて付けてたら勘違いするからって。無くしたことにして捨てろって。抵抗したのだけど、結局、こんな形でしか…守れなくて…私がお揃いで付けたいって言って買ったのに…約束…守れなくなっちゃった…」
「…百合香…」
「ごめんなさい…ごめんなさい海菜…」
「大丈夫だよ」と彼女は優しい声で良い、私の手のひらに乗るストラップを取ると、私のカバンに取り付けた。
ストラップの飾りを手に取り見つめる寂しそうな顔を見ていると、罪悪感に苛まれずにはいられない。そんな私の気持ちに気づいたのか、彼女は私の涙をハンカチで拭き、いつもの優しい微笑みを浮かべる。
「…大丈夫だよ。私は怒ってないよ。私との思い出を守ってくれてありがとう」
「お礼を言われる筋合いなんてないわ。私は酷いことをした」
「私は酷いことされたと思ってないよ」
「あなたが許してくれても私は私を許せないわ」
「私に免じて許してあげてよ」
「そんなの…簡単には出来ないわよ…」
「…分かった。じゃあ君に何か罰を与えようか」
「罰?」
なんだか少し身構えてしまう。
「大丈夫だよ。酷いことはしない。何が良いかなぁ…うーん…今日一日口を聞かないとか…いや、これは私が耐えられないな…どうしようね…」
彼女はそう、悩むように唸りながら様々な罰を挙げるが、自分が耐えられないからと全て却下していく。
ふと、電車が揺れ、よろけてしまう私を彼女が支える。
「百合香、ちょっと体幹鍛えた方が良いんじゃない?」
そう笑いながら、彼女は私の腰に手を回して私を抱き寄せた。身体が密着すると、今朝の夢を思い出さずにはいられない。
「う、海菜…離して…」
「ん?どうしたの。これくらいもう慣れたでしょ?」
「慣れないわよ…」
不意に彼女は腰に回していない方の手で、私の手首を掴んだ。しばらく手首を見つめてから私を見て「脈、速いね」と楽しそうに笑う。その悪戯っ子のようないつもの笑顔で、脈拍はさらに加速する。
息苦しささえ感じるほどに、心臓が恋を主張する。その恋に苦しむ私を見て、彼女は何かを企むように笑った。
「目的地に着くまでこのままね。罰はそれで良いね?これなら私も辛くないし」
「…ずるい人ね」
「ふふ」
「…女狐」
「それちょっと意味違わない?」
目的地まであと三駅。さほど時間は無いはずなのに、電車の速度が遅くなった気がした。代わりに、彼女の指先が私の頭を優しく撫でるたび、私の髪を弄るたび、私の心臓が加速する。赤くなっているであろう顔を隠すために彼女の胸に頭を預けて俯く。
「…ねぇ百合香、顔見せて」
「い、いやよ…キスする気でしょ…」
「いやいや、しないよ。こんな満員電車で。海外じゃないんだから」
「何考えてるの?」とおかしそうに笑う声が頭上から聞こえた。そして彼女は自身の顔を私の耳元に近づけ、私だけに聞こえる声で「してほしいなら後でね」と囁いた。顔を見なくとも、いつもの憎たらしい笑顔が想像付く。
「し、してほしいなんて言ってない」
「違うの?じゃあ顔見せて。私の目を見て話して」
「なんでそんなに顔見たがるのよ…」
「君の恥じらってる顔が好きだから」
「…変態」
「夢の中の君は素直に甘えてくれたのに、現実の君はつれないね」
まるで私の夢を覗き見たようにそう言われ、ドキッとする。
「あ、甘えて来たのはそっちでしょう…」
「ん?なぁに?君も似たような夢を見たの?」
墓穴を掘ったことに気付いた頃にはもう遅く、弁解しようと彼女の顔を見上げると、彼女はにやりと笑った。いつも以上に意地が悪い笑顔だ。
「顔真っ赤だよ?夢の中で私と何したの?百合香のエッチ」
「あ、あなたが勝手に夢に出てきたんでしょう!」
「それちょっと暴論じゃない?」
彼女は苦笑いする。言われてみればそうだが、もはや自分でも何を言っているかよく分からなくなってきた。
「あ、あなたこそ夢の中で私と何したのよ」
「ふふ。ネコになった君と戯れてただけだよ」
猫みたいだねとはよく言われるが、夢で私を猫にしてしまうほど私を猫扱いしていたのかと少し呆れてしまう。
「…どれだけ私を猫扱いしてるのよ」
「あはは。ごめんごめん。…そろそろ、ついちゃうね」
名残惜しそうに彼女は言う。
まもなく次の駅へ到着するとのアナウンスが流れると、私を離して開くドアの方へ向き直す。
触れ合った指先をどちらからともなく絡めて、車両を降りる。隣の車両から降りて合流した夏美ちゃん達が、繋がれた指を見て苦笑いした。しれっと、夏美ちゃんの隣に一人増えている。森くんだ。
「おはようお二人さん」
可愛らしい顔に似合わない低い声を聞いて、ふと昨日のことを思い出す。
「おはよう。…森くん昨日、夏美ちゃんと居たわよね」
「ん?あぁ、たまたま会ってな。そのまま流れでランチしようかってなって」
「びっくりしたよ。あたしの友達にあんな美少女居たか?って思ったら森っちでさー…」
「あの時の日向さんの顔、最高だったわ。写真撮っておけば良かった」
夏美ちゃんを揶揄うように笑う森くん。
「そりゃあんな可愛い子からそんな低い声出たらびっくりするっしょ!」
「化粧してたわよね。自分でやったの?」
「おう」
「…マジでその顔でその声違和感しかないから、海ちゃんと声交換してほしい」
「…ちる、王子は今の少年ボイスのままの方がバランスが良いからボイス変更とか言語両断だよ。見た目のカッコよさと声質とか雰囲気の可愛らしさのギャップが王子の魅力で…森っちは森っちで、この声の低さと男らしさのギャップが…」
満ちゃんの呟きに対して、夏美ちゃんが真顔で、早口で反論を始める。満ちゃんが若干引いている中で、彼女は私に同意を求める。確かに海菜の件に関しては共感しかないが、共感しづらい空気だ。そんな中、森くんがおかしそうに笑い始めた。
「日向さん…やっぱ面白いなぁ。俺、あんたのこと好きだわ」
サラッと放たれた彼のその一言で夏美ちゃんのマシンガントークがピタリと止まる。先ほどまでの
「…いや、すまん…友情的な意味だったんだけど…」
「そ、そうだよな!びっくりさせんなよー!もー!」
照れ隠しなのかべじべしと森くんを叩く夏美ちゃん。気まずそうな顔をする森くんの顔もなんだか赤くなっている気がした。
「…ラブコメの波動を感じる」
二人を見てボソっと羨ましそうに、はるちゃんが呟く。
そういえば、はるちゃんは星野くんが好きと前々から言っているが、星野くんは彼女のことをどう思っているのだろう。
ふと星野くんに視線を向けるとばっちりと目が合う。しっかりと繋がれた手に視線を向けてから私に視線を戻し、嫌味っぽく、けれどどこか優しくふっと笑った。「思い違いだとか言ったくせに」と言われた気がした。
電車を降りてからずっと指をつないでいたことを今更意識してしまい、恥ずかしくなると同時に、今朝の母の『そんなの付けていたら周りから勘違いされてしまう』という言葉が蘇り、刺となって心に刺さる。
「おっ。王子ちゃん達、おはよう」
「あぁ、おはようございます酒井先輩」
「はよーっす」
「おはようございます」
横から話しかけて来た男子生徒に海菜と幼馴染二人が挨拶をする。演劇部の先輩だろうか。先輩の視線が私達の繋がれた手に向けられる。そして私の顔をじっくりと見て、うんうんと頷いた。
「…王子ちゃんの彼女、めちゃくちゃ可愛いな」
「先輩、駄目ですよ。私の彼女になる人ですからね」
嬉しそうに笑いながら、彼女が私の腕を抱き寄せる。「取らねぇよ」と先輩は笑う。女同士なのに付き合ってるの?という態度は一切取らない。彼の中では私たちは"普通のカップル"としてして認識されている。その自然な態度を見た瞬間、心に刺さった刺がぽろりと抜けた。
これを見ても『距離をおかないと辛い思いをする』と母は言うのだろうか。私を傷付ける人なんて、ここにはいない。私を守りたいなんて言って、私を一番傷付けているのはあなたじゃないか。母は一体、何から私を守ろうとしているのだろうか。
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