第14話:私が恋に落ちた人

 5月4日。今日は海菜との約束の日だ。


「行ってきます。夕食までには帰るから」


「明日は別のお友達と遊びに行くのよね?」


「うん。今日も明日もお昼要らないからね」


「分かったわ。行ってらっしゃい」


 白のブラウスに淡いピンク色のプリーツスカートを合わせた服装で家を出る。髪も巻こうかと思ったが、気合を入れすぎて母に感づかれてしまうことが怖くてやめた。

 彼女はどんな格好で私の前に現れるのだろうか。期待に胸を弾ませながら、電車に乗る。いつも朝に彼女が乗り込んでくる駅を過ぎたところで彼女を探してみる。それらしきその高い人物は見当たらない。もう向こうに着いているのだろうか。それともまだだろうか。

 電車を降りて地上に出る。「出たすぐのところで待ち合わせね」と彼女は言っていた。あたりを見回してそれらしき人物を探してみるが、見当たらない。まだ来ていないのだろうか。

 スマホを取り出し、着いたことを連絡しようと文字を打ち込んでいると、後ろから「おはよう」と彼女の声が聞こえた。振り返ると、私服姿の彼女が居た。上下黒のセットアップに白いインナー、白黒のスニーカー。シンプルなモノトーンコーデがよく似合っているが、やはり性別が分からない。一瞬男性に見えるが、左耳たぶで可愛らしさを主張する花形のイヤリングが判断を惑わせる。


「ピンクと白の組み合わせ、春って感じで可愛いね」


「あ、ありがとう…ごめんなさい…もうちょっと…おしゃれしようと思ったのだけど…その…あまり…気合を入れすぎると母に勘づかれそうで…怖くて…」


「そっか…大丈夫だよ。充分可愛いよ。メイクは自分でしてるの?」


「えぇ。…出掛けるときはしなさいって、中学生の頃から」


「早いなぁ…」


 感心するように相槌を打つ彼女は化粧っ気はなく、普段通りだ。


「…海菜はしないの?」


「私はあんまりしたくないんだよね。するとしてもベースメイクだけかなぁ。女性らしさを強調したくないんだ。女性として認識されたくないから。ちなみに今の私はどっちに見える?」


「どちらかといえば男性」


「ふふ。やっぱり?」


「背が高いから余計にそう見えるのでしょうね」


「カッコいい?」


「…カッコいい」


「わーい。ふふ」


 他愛もない話をしながら入場のチケットを買うために並ぶ私たちは、周りからはどう見えているのだろうか。ただの友達?恋人?それとも兄妹?いや、兄妹は流石にない。私と彼女は似ていない。


「…百合香、手繋いで良い?」


 そう言いながら彼女は許可を待たずに隣を歩く私の手を取り、指を絡めた。いわゆる恋人繋ぎというやつだ。


「ちょ、ちょっと…良いって言ってないのだけど…」


「えっ?言わなかった?私には聞こえた」


「勝手な人ね。私じゃなかったらセクハラになってるわよ」


「君に対してはセクハラにならないんでしょ?じゃあ良いじゃない」


「…もうっ…」


 右手から彼女の熱が伝わる。

 手を繋いでいる。ただそれだけで私の心臓はこんなにも騒がしいのに、隣の彼女は平然としている。『誰とも付き合ったことはない』と彼女はよく言うが、その割には慣れた態度がムカつく。思わず握った手に力がこもってしまい「怒ってる?」と彼女が私を見て苦笑いした。


「…別に」


「そう?」


「…あなたのその平然とした態度がムカつくだけ」


「ふふ。ごめんね」


 へらへら笑う彼女の頬を軽く抓る。痛い痛いと言いながらも、笑顔は崩れない。こんな憎たらしい笑顔でさえ愛おしく感じてしまう自分にため息が漏れた。


「高校生二枚ですね。二千円になります」


 別々で支払い、入館する。入館してすぐ目の前に、イルカが泳ぐ巨大な水槽があった。アルバムの中に兄とベビーカーに乗る私がイルカと写る写真があった気がする。この辺で水族館はここくらいだ。あの水槽の前で撮ったのだろうか。


「イルカ見に行こ」


「…えぇ」


 巨大な水槽に近づく。水槽の中のイルカは4匹。その中に一匹、他の個体より明らかに小さなイルカが居た。自分の身体の倍以上大きなイルカに寄り添うように泳いでいる。親子だろうか。


「…可愛い」


 自由に泳ぎ回る親子を目で追っていると、ふと隣から視線を感じた。ちらっと隣を見ると、彼女が真剣な眼差しで、水槽ではなく私をじっと見つめていた。思わず二度見してしまう。


「な、何?」


「…ごめん。見惚れてた」


「なっ…も、もう!私じゃなくてイルカを見て!」


「ごめんごめん」と私を揶揄うように笑う彼女を無理矢理水槽の方に向かせる。


「…あっ、小さいイルカが居る」


「今更気づいたの?」


「私の目には君しか写ってなかったから」


「…私なんていつでも見れるんだから、水槽を見なさいよ」


「いつでもは見れないじゃない。今日だってこのデートが終わったら家に帰っちゃうし、明日は会えないでしょう?」


 ぶーと唇を尖らせる彼女。自由奔放で猫っぽいと思っていたが、こういうところは犬みたいだ。言葉にしなくても好意がストレートに伝わってくる。


「…あなた、本当に私のこと好きね」


「あはっ。分かっちゃう?」


「分かっちゃう。もう少し隠して」


「えぇ?君も人のこと言えないけど?」


 悪戯な笑顔で指摘され、言い返せなくなる。友人達からも分かりやすいとよく指摘される。

 しかし、母や世間からはどう見えるのだろう。彼女を女性として認識する人からは、同性同士は恋愛関係にはならないと思い込んでいる人からは、ただの友愛に見えてしまうのだろうか。


「…そうね。私もあなたが好きよ」


 この場にいない母に——母の人形で居るために一度は彼女に対する想いを否定した私自身に、異性愛主義の世間に宣言する。憧れだとか、一過性だとか、もう二度とそんなことは言わせない。


「…私は海菜が好き」


 繰り返し、彼女に向き直すと、ここで初めて彼女が動揺を顔に表した。見たかった顔だが、いざ目にすると戸惑ってしまい、目を逸らしてしまう。


「な、何よ…今更そんな顔して。私があなたに惚れてることくらい、とっくに気付いてるくせに」


「いや…知ってるけどさ…急に素直になられると調子狂っちゃうよ。そういうことは付き合ってから言ってほしいな。凄く嬉しいけど…待てなくなっちゃうから」


 彼女は複雑そうにそう言って、私の身体を抱き寄せて腕の中に閉じ込める。ドッドッドッドッという重く、早い心臓の音が彼女の胸から伝わる。


「…あなた、本当に私のこと好きね」


「ふふ。…ごめんね。分かりやすくて。さ、次行く?まだイルカ見る?」


 身体を離されても、心臓の音は鳴り止まない。これは彼女の音ではなく、私の音だ。


「…カエル見たい」


「カエル?あぁ、両生類好きなんだっけ」


「ええ。…海菜は何見たい?」


「ペンギンとクラゲ。あとチンアナゴ。このまま道なりに行けば全部見れるみたいだね」


 マップを見ながら話す彼女の手を取り、指を絡める。目を丸くして私を見てから「握って良いなんて言ってないよ」と笑った。


「ごめんなさい。私には聞こえたから」


 冗談を返す。どちらからともなく笑い合う。幸せだ。そう感じたと同時に、あなたが男性だったら、もしくは私が男性だったら母は何も言わなかったのにと、一瞬そう思ってしまった自分を責める。私はきっと、彼女が男性でも好きになっていた。けれど彼女は、私が男性だったら好きになってはくれなかった。

 彼女が男性でも両想いになれていたかもしれないが、男性だったら彼女は、母の理想そのものだ。頭が良くて、性格が良くて、容姿端麗。母に交際を反対されない人間だ。そうなっていたらきっと、私はわざわざ母と向き合おうとせずに諦めていただろう。

 二度の恋が、人形だった私に自我を芽生えさせてくれた。母の言いなりだった私に自立を促してくれた。だからある意味、元カレは母の理想でなくて良かったし、彼女と私は同性同士で良かったのかもしれない。


「カエルといえばさ、この水族館には居ないんだけど、フクラガエルって知ってる?」


「丸っこいカエルよね」


「そうそう。知ってるんだ。可愛いよね」


 フクラガエルとはその名の通りふっくらと膨らんだ丸いカエルだ。見た目は可愛らしいが、フクラガエル科の生物は地中で暮らすものがほとんどで、地上に出てくることはあまりないらしい。

 女の子が爬虫類や両生類を好きなのはおかしいと思っていた頃に、人目を気にしながら、こっそりと図書館で何度も図鑑を読み返していた。そこで得た知識は今まで誰にも披露できなかったが、彼女に披露すると、彼女は「本当に好きなんだね」と優しく笑ってくれた。好きなものは好きで良いんだと、改めて思えた瞬間だった。


「えぇ。そう。好きなの。丸くて、可愛くて」


「ちょっと福田くんっぽいよね」


 福田くんの姿をフクラガエルと並べて思い浮かべ、思わず笑ってしまう。確かにふっくらとして可愛らしい雰囲気は少し似ているかもしれない。


「ふ…ふふふ…」


「笑いすぎ」


「だって…ふふ…」


「君はペルシャ猫って感じだよね」


「あなたは狐っぽい」


「狐?胡散臭いから?」


「それもあるけど、あなたって、犬っぽいところも猫っぽいところもあるから。あと…」


 どことなく、神秘的なイメージがあるから。

 なんて、それを言ったらまた揶揄われてしまいそうだ。別の言い方を考える。


「…なんか、妖怪っぽいところとか」


「えっ、妖怪?」


 何それと彼女はおかしそうに笑う。言い換えても結局揶揄われてしまった。黙っておけば良かったかもしれない。


「わ、私は何でペルシャ猫なのよ」


「高級な猫っぽいから。あと、よくむすっとした顔してる」


「それはあなたが揶揄うからでしょ」


「ふふ。ごめん。人を揶揄うのが趣味なんだ」


「悪趣味ね。そういう意地悪なところも狐っぽい」


「ほらまたむすっとしてる。好きだなぁその顔」


 いつものように悪戯っぽく彼女は笑う。彼女のこの悪戯っ子のような笑顔にときめいてしまう自分が悔しくて仕方ない。


「ほらほら怒らないで猫ちゃん。後でおやつあげるから」


「要りません。…次行きましょう」


「カエルはもう良いの?」


「えぇ。もう充分。…あなたが見たいものも見たいから」


「好きなものを見てる私を見たいから?」


「そんなこと言ってない」


 カエルのエリアを抜けて、チンアナゴの水槽に近づく。スー…っと巣穴から上下に伸び縮みする姿がなんだか面白くてずっと見ていられる。


「そういえば、このオレンジと白のしましまのやつはチンアナゴじゃないんだよね」


「ニシキアナゴよね」


「おっ、博識だなぁ…。私の知識を披露する場がなくて困っちゃう」


 全く困っていないような笑顔で彼女は言う。母からは『男性を立てるために、彼らが知識を披露する時は知っていることでも知らないフリをするのよ』と言われていたことをふと思い出す。元カレとのデートでもそれを素直に実践して喜ばせていた気がするが、彼女の前ではそんなあざとい戦略もすっかり忘れてしまっていた。

 けれど彼女はそんなことで不機嫌になるほど器の小さな人間ではないと、私は知っている。彼女の隣では気を使うことなく、自然体のままの私で居られる。凄く居心地が良い。


「百合香、意外と海洋生物好きなんだね」


「生き物が好きなの」


「ふふ。私と一緒だ」


 好きな人と好きなものが同じ。それだけで、嬉しくなってしまう。

 移動して、次はペンギンのエリアへ。やはりペンギンは人気があるのだろう。人で溢れ返っている。人混みをかき分け、なんとか水槽の前にたどり着くと、私達の前をジェット機のような勢いで小さなペンギンが横切った。その後から、貫禄のある大きなペンギンがゆっくりと流されてきた。


「このでかいのは何ペンギンかわかる?」


「コウテイペンギンね」


「そう。エンペラーペンギンともいうね。ちなみに、オウサマ…キングペンギンっていうペンギンもいるけど、エンペラーとキングの違いはわかる?」


「大きさ、柄、あと雛。エンペラーペンギンが発見されるまではキングペンギンが世界最大のペンギンだったのよね」


「そう。エンペラーペンギンはあとから発見されて、キングペンギンに因んでその名前が付けられたって言われてるね」


「ふふ。博識ね。ツアーガイドみたい」


「君には私のガイドは必要無いみたいだけどね」


「そんなことないわ。私にはあなたが必要よ」


 私の言葉で彼女はきょとんとしてしまった。少し語弊がある言い方だったかもしれないとすぐに気づく。


「君ってほんと、天然たらしだね。…急にプロポーズされても困っちゃうよ」


「プロ…!?変な風に受け取らないでくれる!?」


「ごめんごめん。冗談。…私にも君が必要だよ」


 彼女はそう言って優しく笑った。いつもの悪戯っぽい笑顔とは違う、女神のような慈愛に満ちた優しい微笑みを向けられ、心臓が飛び跳ね、暴れる。しかしその微笑みはすぐに、私を揶揄う笑いに変わった。悔しくなり、彼女の頬をつねる。


「…馬鹿。もう知らない」


 彼女を置いて先に進もうとするが、彼女は引っ張られるようについてくる。手を繋いでいたことを忘れてしまうほど動揺させられてしまったことが悔しくて仕方ない。


「…知らないとか言いながら手は離さないんだ」


「う、うるさい。次行くわよ」


「ふふ。はぁい」


 最後はクラゲのエリアだ。光の差し込まない暗い部屋の中で光るクラゲ達が幻想的な雰囲気を醸し出している。ペンギンのエリアよりは人が少ないが、それでも人が多い。


「暗いから逸れないようにね」


 握られた手に力が込められた。


「…綺麗だねぇ」


 クラゲの水槽を見て、目を輝かせる彼女。クラゲではなく、クラゲの光に照らされるその整った横顔に、目を奪われてしまう。すると彼女が私の視線に気づき、目が合う。「私じゃなくてクラゲを見てよ」と悪戯っぽく笑われてしまい、慌てて視線をクラゲに戻す。


「…見惚れてたな?」


「あ、あなたと一緒にしないで」


「ふふ。君、本当に私のこと好きだね。ちょっとは隠してくれないと困っちゃうよ」


「…あなたに言われたくないわよ」


「そうだね。私は君が好きだよ」


「百合香が好き」と彼女は笑って繰り返す。


「ひ、人には付き合ってから言えって言うくせに…」


「ふふ。ごめん。…君があまりにも愛おしくて…」


 そう笑う彼女の笑顔には、何処か影があった。その影が落ち、彼女の笑顔を隠してしまう。


「海菜…?」


「…ごめんね。ちょっと…」


 そういうと彼女はクラゲの光が当たらない暗がりに私を連れ込み、すがるように抱きついてきた。私を包み込めるくらい大きいはずの身体が、酷く小さく見えた。

 私の肩に頭を埋めてふーと震える息を吐く彼女の背中に、腕を回して抱きしめる。


「…ごめんね。百合香」


 か細い声で放たれた謝罪の意味を理解出来ずに何故謝るのかと問いかける。問いには答えず「ごめん」と繰り返した。


「…謝らなきゃいけないのは私の方よ。私はあなたを好きという言葉で、態度で縛っているのだから」


「…でも、年度内には迎えに来てくれるんでしょう?」


「えぇ。必ず」


「…うん」


「ごめんね」と、泣きそうな声で三度みたび繰り返す。「私が男だったら良かったのにね」と続いてしまった言葉に、胸がざわついた。その言葉だけは、彼女の口からは聞きたくなくなかった。


「…確かに、あなたが男性だったらきっと、母は快くあなたを受け入れてくれたでしょう。私も堂々と、あなたと付き合うことができた」


 確かに今、私が彼女と付き合えないと言うのは、彼女が女性だからだ。それは否定出来ない。だけど、これだけは伝えておかなければならない。


「けれど…母があなたを気に入ってくれたら、私はきっと、わざわざ母と向き合おうとはしなかった。そして、今度は母の理想であるあなたに好かれようと、あなたに媚びてあなた好みのお人形になっていたかもしれない。あなたが女性だったから、私は人間になりたいと思えたの。だから…皮肉かもしれないけれど、あなたが女性で良かったと思ってる」


 彼女にそう伝えると、背中に回された彼女の腕に込められた力が強くなり、肩がじんわりと温かくなる。


「…ありがとう。もう少し…このままいさせて。落ち着くまで…このまま」


「男だったら良かったなんて思わせてしまってごめんなさい」


 ううんと彼女は首を振る。


「急に卑屈になっちゃってごめん。…ごめんね」


「もう謝らないで。…大丈夫よ」


「うん…うん…」


「泣かないで海菜…大丈夫よ…」


 震える彼女を抱きしめ、大丈夫と言い聞かせる。少しずつ、震えが落ち着いてきた。


「…落ち着いた?」


「…うん…でももう少しだけ…」


「…少しだけよ」


 彼女が堂々と自分は女性が好きだとカミングアウトした時、彼女は強い人なのだと思った。他人の言葉で傷つくことなく、影響されることなく、自分を貫くことができる強い人なのだと。

 自分が堂々としているのは自分のためだけではないと彼女が語った時、強い人ではなく優しい人なのだと気づいた。私は、彼女がみんなの希望のままでいられるように、彼女を側で支えたい。だから強くなりたい。堂々と隣に立てるように。


「文化祭の後に、母ともう一度話をするつもりでいるの」


「文化祭?」


「えぇ。あの学校の雰囲気が、母の古い価値観に何か影響を与えてくれるかもしれないと思って」


「…それでも話を聞いてくれなかったら?」


「…その時はその時考える。けど、母の答えがどうであっても、あなたを手放したりはしないわ。それ以上待たせることはしない。…ただ、けじめをつけさせて欲しいだけ」


「…そっか。分かった。…半年後だね」


「…えぇ」


「…うん。分かった」


 彼女はふーと深い息を吐き、顔を上げて、私を離した。


「…そろそろ、ご飯にしない?泣いたらお腹空いちゃった」


「そうね」


 暗がりを出て、クラゲのエリアを抜けて外に出て館内のレストランへ向かう。

 私が注文したのはオムライス。彼女が注文したのは、クラゲが入ったラーメンだった。


「…さっきまでクラゲ見てたのによく食べられるわね」


「えっ、クラゲ見てたから食べたくなっちゃったんだけど」


「…可哀想とは思わない?」


「私達は普段から、命をいただいてるでしょう?その事実はクラゲを見たあとでも、前でも変わらない。クラゲだって、今更可哀想なんて同情されたくないと思うよ。同情したって、命をいただいてる事実は変わらないしね」


 届いた料理の前で「いただきます」と手を合わせ、髪を耳にかけ、麺に息を吹き掛けて冷ましながら音を立てずに啜る。その姿に躊躇いは一切ない。「クラゲだって今更同情されたくない」確かに、そうかもしれない。


「…そうね。可哀想だから食べたくないっていうのはエゴよね」


「まぁ、無理して食べなくても良いと思うけどね。それもそれで失礼だし。…別に君を責めてるわけじゃないよ。私はただ、自分の意見を言っただけ。ごめんね。食事前にする話にしてはちょっと重かったね。真面目すぎたね」


「いいえ」


 やはり彼女は優しい人だ。


「…狩りとか、したことある?」


「いや…あぁ、釣りならあるよ。小さい頃、家族でキャンプに行った時にね。自分の意見を言っただけって言ったけど、本当は母さんの受け売りなんだ」


「…優しそうなお母さんだったものね」


「うん。優しい人だよ」


 笑顔でそう言い切れてしまうのは少し羨ましい。思わず「あなたの家族になりたかった」と呟いてしまうと、ラーメンを啜っていた彼女が咽せた。自分の発言が誤解を招きかねないことに気づき、身体が熱くなる。


「ち、違うの!そうじゃなくて!あなたの両親の元に生まれたかったって意味で!」


「あ、あぁ…そういう…びっくりした…」


「ご、ごめんなさい…」


「…私の両親、周りからはちょっと変わってるってよく言われるけどいいかな」


 彼女の父親は知らないし、母親も一度会ったが変わっているという印象は特になかった。少し話しただけなので、海菜に似ているという印象しかない。


「変わってるってどう変わってるの?」


「んー…私はそれが普通の家庭で育ったけど、名前で呼び合ってるとか…行きと帰りに必ずキスをするとか…あと、母さんの一人称がだとか…」


「…キスって、子供がいる前で?」


「うん」


「それはちょっと…困るわね」


「あはは…私はもう慣れっこだけどね。キスって言ってもあれだよ。大体は、おでことかほっぺにちゅってする可愛いやつだよ。大体は」


 海菜が人との距離が近いのはその影響もあるのだろうか。


「…あなたは自分のことって言うわよね」


「うん。でも昔はだったよ。小学生低学年くらいまでかな」


 昔、自分のことを"ぼく"と言って『女の子なんだから』と母に叱られた記憶がぼんやりと蘇る。あれはまだ小学校に上がってもない頃だろうか。確か、兄の影響だったと思う。


「…女の子なのに変って言われたことはなかった?」


「あるよ。けど、母さんも僕っだし、あまり気にしたことはなかったな」


「じゃあ、どうして"私"になったの?」


「んー…なんでだろう。好きな人の影響かなぁ」


「そう…」


「ん?どうしたの?百合香も昔、僕っ娘だったりした?」


 自分のことを"ぼく"と言って叱られた経験があることを彼女に話す。すると彼女は「じゃあこれから、私の前では"僕"って言ってよ」と悪戯っぽく笑った。


「…あなたの方が似合いそうだけど」


「私は意外性ないじゃん。君が"僕"って言った方がギャップがあって可愛いよ」


「僕」の二文字を口にする。"私"に慣れてしまったせいか、やはり違和感があるが「可愛い」と彼女に微笑まれてしまうと、嫌だとは断れない。


「…じゃあ、今日だけね。やっぱり今の私には"私"の方があってるから」


「うん」


 食事を終えて、一度周ったエリアをもう一巡して時間を潰してから向かったのは外。これから、イルカのショーが始まるらしい。席はそこそこ埋まっており、後ろの方しか空いていない。


「前の方だと水かかっちゃうし、逆に良かったかもね」

 

「そうね。…でもやっぱり、ちょっと遠いかも」


 ショーが始まる。やはり遠いが、巨大なモニターがショーの様子を映し出してくれるおかげで楽しめなくはない。前の方の客は水を思い切りかけられていたが、あらかじめスタッフが用意して配っていたカッパを身につけ、はしゃいでいた。

 宙にぶら下がったボール目掛けて飛ぶイルカ達に、背中にスタッフを乗せて泳ぎ周るイルカ達に、拍手を送る。

 ショーが終わった頃には、あたりは少し薄暗くなってきた。時刻は午後4時をまわった。6時までには帰らなければならない。


「グッズ見て帰ろうか」


「…そうね。その前にちょっとお手洗い」


「はぁい」


 お手洗いを済ませ、グッズ売り場へ向かう。楽しい時間が過ぎるのは早い。


「お揃いのアクセサリーでも買う?ストラップの方が良いかな」


 彼女が手にとったのはイルカのイヤリング。そういえば、今日もイヤリングをしているが、片耳しかつけていない。


「…海菜が今つけているのは片耳用なの?」


「ん?あぁこれ?いや、ペアで売ってたよ。けど私、左しかつけないの」


「どうして?」


「西洋の方で、昔、勇気と誇りの象徴として左耳にピアスをつける習慣があって、プロポーズの際にはペアのピアスを女性に渡して右耳につけてもらってたんだって。そこから、左は守る人、右は守られる人って意味になって、女性が左、男性が右に片耳だけピアスをつけると同性愛者って意味になるんだ。…だから私は左にしかつけないの。卒業したら空けるけど、左一個しか空けないつもり。まぁ…今どき片耳しかつけてないから同性愛者かもなんて思う人あんまりいないだろうけどね」


 そう笑う彼女はどこか複雑そうだ。要するに、黙っていたら異性愛者にされてしまう社会に対するささやかな抵抗なのだろう。


「…ねぇ、次のデートの時にこれ、一つずつつけない?」


 彼女の気にしていたイヤリングを手に取り、提案する。すると彼女は一瞬目を丸くしてから、ふっと優しく笑った。


「カエルはいいの?」


 そう問いかける彼女の視線の先には緑色のアマガエルのぬいぐるみ。


「…えぇ。母が写真だけでもキャーキャー言うくらい苦手だから」


「そんなに苦手なんだ…」


「昆虫と爬虫類と両生類は駄目ね。家に蜘蛛とかゴキブリが出ると真っ先に逃げ出すし」


「百合香は平気なの?ゴキブリ」


「えぇ」


『虫が怖くない女の子は可愛くないから人前ではフリでもいいから怖がりなさい』と、母は言う。


「…虫が平気な女は可愛くないと思う?」


「平気なのに怖がるフリするあざとい女の子よりは好感持てるよ。苦手なんだ。そういう子」


「…そうよね。私もそう思う」


 海菜と出会っていたのがもう少し前だったら。元カレより先に出会っていたら。私は彼女の苦手な女の子の一人だったのだろうか。


「まぁ、自分の前だけでは本性を出してくれるとかなら、逆に好感持てちゃうけどね。時には自分を偽るのも処世術として必要だと思うから」


「…あなたは自分を偽ったことある?」


「そりゃあるよ。初恋の人への想いも、一度は否定した。これはきっと憧れなんだって。…勇気を出して相談した時も、否定してほしいって気持ちが何処かにあった。相談相手を間違えてたらきっと、私は…自分に嘘をついて望と付き合っていたかもしれない。彼をもっと傷つけていたかもしれない」


 彼女が星野くんと付き合っていたら、彼女が自分を偽って異性愛者として生きていたら、彼女を好きになっていても、認めることなんて出来なかった。彼女が、自身がそうであると堂々としてくれていたから、私も彼女への想いを認めることが出来た。

 今私達がこうして手を繋いで歩けているのは、付き合いたいと素直に願えるのは、様々な偶然が重なったおかげなのだと実感する。どこかで歯車が噛み合わなかったら私達はきっと、友人以下だ。


「ねぇ、せっかくだし、イヤリングさっそくつけてみない?どうせ袋から出しちゃうんだし、そのまましまうよりは耳につけてた方が無くさない気がする」


「そうね。じゃあ」


 買ったイヤリングをもらうために片手を差し出す。彼女は首を横に振り、「私がつけてあげる」と笑った。


「…じゃあ、あなたの分はわた…僕につけさせて」


「えー…手、届く?」


「届くわよ」


 彼女の左耳に腕を伸ばす。少し辛いが、届かなくはない。すると彼女はくすくす笑いながら、花形のイヤリングを外し、つけやすいように、私と同じ高さになるように屈んでくれた。

 手を伸ばし、穴の空いていない綺麗な耳たぶに触れる。柔らかい。なんだかドキドキしてしまう。


「ふふ。くすぐったいよ。百合香」


「ご、ごめんなさい」


 柔らかい耳たぶをイヤリングの金具で挟み、軽く締める。一歩下がると、彼女は自身の耳たぶからチェーンでぶら下がるイルカを指で弾いて揺らし「どう?」と笑った。


「…えぇ。似合ってる」


「ふふ。ありがとう。君はどっちにつける?右?左?」


「…じゃあ、左」


 先ほどの話を聞く限りなら、彼女が左につけたなら私は右につけるのが正解なのだろう。けれど私は、守られる人にはなりたくはない。彼女も自分も守れる人になりたい。


「わ…僕は守られるだけの女性にはなりたくない。あなたも、僕も守れるくらい強くなりたい」


「充分強い人だよ君は。頑張りすぎないでね。私に出来ることがあったら頼って。…てか、律儀だね。いつまで僕僕言ってんの」


「あ、あなたが言えって言ったんでしょう!」


「ふふ。ごめん。可愛いよ。けど、無理しなくていいからね。直しても構わないよ」


「…明日になったら戻す」


「真面目だなぁ」


 彼女はそうくすくす笑いながら、もう一つのイヤリングを手に取り私の髪を耳にかける。彼女の指が耳に触れた瞬間、そのくすぐったさに思わず身体が跳ねる。


「ふふ。くすぐったいね。でもじっとしててね。すぐ終わらせるからね」


「えぇ…」


 もう一度、彼女の手が私の耳たぶにそっと触れる。金具で耳たぶを挟み、軽く締めると一歩下がって私を見て「似合ってる」と笑ったあと何かに気づいたように「あ」と声を上げた。


「百合香、ちょっと目閉じてくれる?」


「何?」


「いや、まつ毛にゴミついてるから取ってあげようかと思って」


 言われた通りに目を閉じる。瞼に、彼女の指の感触を感じた。


「…取れた?」


「あー…待って。まだそのまま目閉じてて」


 開けていいという許可を待っていると、髪を撫でられ、唇に、柔らかいものが触れた。驚き、目を開けてしまうと、彼女とばっちり目が合ってしまう。

 私の頭をひと撫でしてから、一歩下がった彼女の唇にはほんのりと桜色に染まっていた。私が今朝塗った、グッズ売り場に向かう前にお手洗いで塗り直した、口紅の色。

 何をされたか理解した瞬間、身体が芯から沸騰する。


「こ、こういうのは普通…付き合ってからじゃ…」


「…嫌だった?」


 彼女は反省する様子もなく、いつもの憎たらしい笑みを浮かべて、首を傾げる。ずるい人だ。嫌がるかなんて、聞かなくてもわかっているからしたくせに。

 憎たらしい顔をつねり、質問には答えずに、彼女を置いて駅に向かう。


「待って待って。置いて行かないでよ」


「あなたなんてもう知らない」


「そんなぁ」


 足を止め、後ろをついてきていた彼女に向き直す。「やっと止まってくれた」と彼女は嬉しそうに笑った。彼女は誰とも付き合ったことはないと散々言っている。なのに、何故私の唇を奪っておきながら平然としていられるのだろうか。何故あんなにも簡単に奪ってしまえたのだろうか。


「…あなた、初犯じゃないでしょ」


「えっ、な、何?私何か犯罪犯した?」


「…キスし慣れてる感じがした」


「あぁ。それで怒ってるのか。別に見慣れてはいるけど、し慣れてはいないよ」


「…嘘」


「逆に君は慣れてなさすぎじゃない?恋愛経験、あるんでしょう?」


 確かに付き合っていた人は居たが、キスはしていない。彼はシャイで、手を繋ぐのがやっとだった。それを話すと彼女は苦笑いしつつも、どこか嬉しそうに見えた。


「やっぱり、君はピュアだなぁ…私と違って」


「…やっぱり、キスは初めてじゃないのね」


「…ごめんね。私は君が思うほどピュアじゃないんだ」


「軽蔑した?」と彼女はいつもの笑みを浮かべる。「そんなことで嫌いになったりしないよね?」と、自信に満ち溢れた声が聞こえた気がした。


「…こっち来て」


「えー?なに?どこ連れ込む気ー?」


 楽しそうに笑う彼女を、人気のない路地裏に連れ込む。


「…目閉じて」


「ふふ。なに?君からしてくれるの?」


「いいから閉じなさい」


「はぁい」と笑って、彼女は目を閉じた。壁に手をつき、少し背伸びをし、期待するような顔に顔を近づける。心臓が高鳴る。鼻がぶつかってしまうと、彼女は目を閉じたままおかしそうにくすっと笑う。彼女のデコを軽く弾き、もう一度、今度は鼻がぶつからないように顔を傾けて近づける。

 触れた。柔らかい。プルプルしている。マシュマロ…いや、こんにゃくゼリーみたいだ。柔らかくて、気持ちいい。一度離すと、彼女と目が合った。吸い寄せられるように、どちらからともなくもう一度唇を重ねようとすると、スマホのバイブ音が私を正気に戻した。母からだ。『もう帰ってくる?』の一言。『そろそろ帰ってきなさい』の意味だ。


「か、帰りましょうか…」


「…そうだね」


 地下に降り、ホームで電車を待つ。どちらからともなく、指を絡めあい、電車に乗るが、そこから互いに言葉を交わすことは無く。


「…じゃあ、また明後日」


「…えぇ。また。学校で」


 私が駅を降りる際にようやく、一言言葉を交わして別れた。遠ざかっていく彼女が見えなくなるまで見送り、地上に出る。

 彼女の唇の感触はまだ残っている。化粧はしていなかったが、手入れはきちんとしているのだろう。カサついておらず、艶やかだった。女性の唇だった。私が移した桜色も、よく似合っていた。紛れもなくあの瞬間、私は彼女を女性として意識した。それでも、心臓は主張する。「彼女が好き」と。私は鈴木海菜という一人のではなく、鈴木海菜という一人のに恋をしたのだと。性別なんてもう、どうでもいいのだと。

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