19.
「なんでも」と言われて浮かんだのは、ラーメンだった。
「フレンチとか満漢全席とか言われる覚悟して、お金下ろしてきたんだけど」
「私、B級グルメやジャンクフードが好きなんです。一週間ハンバーガーでも大丈夫ですよ。あと、割り勘でお願いします」
鶏白湯のスープから、太めの麺をつまみあげる。吹き冷ますと、散った湯気で頬の辺りがじわりと温もった。
「部下を誘って部下に払わせる上司はいない」
「今は牧師としての任務中でしょう。私は部下じゃありません。教会員でもありませんし」
向かいで、園長は辛そうな赤いスープから引き上げた麺を勢いよく啜る。上着を脱いでネクタイを外し、ワイシャツの袖をまくり上げたら普通のサラリーマンにしか見えない。後ろの席にもいるし、カウンターにも並んでいる。
「どうして受洗しないの?」
少しずつ啜る私に、園長は汗を拭いつつ物の序でのように尋ねた。問われたのは二回目か。牧師にとっては、そんなに気になることなのだろうか。とはいえ信仰に踏み込む話題だ。油と酒の臭い漂う賑々しいラーメン店でする話でもないような気はする。
「それ、今する話ですか」
熱い息を吐きつつ、私も鼻の頭に浮いた汗を拭う。炒め野菜と麺をまとめてつまみ、引き上げて吹き冷ます。
「真面目に聞くと追い詰めそうだから、こういう時の方がいいかと思って」
「そんな特別な理由があるわけじゃありません。ただ」
続けかけた「受洗するに値しない」が揺らぐ。言わない方がいいように思えて、麺を送り込んだ。
「何?」
「やめます。先生が直近に付き合った彼女の話でもしてください」
代替案に園長は笑い、二杯目の水を呷るように飲む。
「大学三年で違う学部の同級生と付き合って、大学四年で振られた。牧師になるために大学院受けるって言ったら『ついていけない』って」
「就職してからは?」
「ないよ。独身女性はみんな、モーセの海割りのごとく避けていく。『あの方のとこ、お嬢さんいらっしゃいますよ』って、自分にも娘のいる教会員が言うレベルで避けられる」
少し冷めて食べやすくなった麺を啜りつつ、不遇の現状に頷く。確かに、牧師はモテる職業ではない。「クールで素敵」と盛り上がる女性達は、既婚だからだろう。幼稚園は女の園だから、二次会になれば「彼氏がいない」「出会いがない」の怨嗟が響く。しかし「誰か合コン企画して!」にはなっても、「園長狙うわ」「入谷牧師いくわ」とは誰も言わない。そういう仕事だ。
「牧師婦人が大変なの、みんな分かってますもんね。私が通ってたとこの奥様も、婦人会のおばさま方に振り回されて大変そうでした。それでもいつも笑顔でオルガン弾いてて、子ども心にすごいなって思ってました。今は、陰で泣いてたんだろうなって分かるんですけど」
「まあ、僕も母の姿を見て分かってるんだけどね。僕は特に、母には苦労させたし。でも気丈な人で、当時は一度も泣かなかった。牧師になった時『良かった、牧師にならなかったらどんなこと言われてたか』って初めて泣かれた。複雑だったよ」
苦笑する園長に頷き、脂のまとわりつく後口を水で流す。
どんな非難にも耐え偲んで来た母親が、ようやく口にできた言葉だ。宗教とは、信仰とは何かと問いたくなる。清く見える皮を一枚めくれば、醜いものが詰まっている。そんなものなどない振りをして、清く見える皮を被っている。
自分は受洗するに値しないと言いながら、教会員の偽善は非難する。彼らが私と同じ醜い人間なら、私だって受洗しても構わないではないか。……ああ、だめだ。
「多かった?」
一足早く食べ終えた園長が、手の止まった私を窺う。
「違います。ただ」
そのあとが、うまく続かない。ぶつけたいことはあるが、けんかをしたいわけではない。言葉にできず漂う靄に、ひとまずラーメンへ逃げた。
「先生、私の内面に介入しようとされてますよね。おかげで精神的に落ち着かないんです。幻覚騒ぎは集団ヒステリーで、私のは低血糖と精神的な不調だって分かったんだから、私の休職で全部解決するんだから、もういいじゃないですか」
食べ終わるまで時間を費やした割に、言い掛かりとけんか腰がひどい。それでも園長は怒るでも窘めるでもなく、そうだなあ、と言った。
「でも休職で解決するのは、幻覚騒ぎだけでしょ。君の心とは別問題だよ」
「ご飯食べて薬飲んで眠れば、治ります。お医者さんもそうおっしゃいました」
藥袋は結局ちゃんと拾い上げて、テーブルの上に置いてきた。「生きる」と「死ぬ」がせめぎ合って、どちらを選べばいいのか分からない。どちらを選んでも幸せにならないのは分かっている。
「もちろんちゃんと薬を飲んで、休息をとるのが第一だ。でも人の心は、対処療法だけじゃ限界がある」
園長は私の反論を封じるように返し、伝票を手に腰を上げた。
特別聖なるオーラを発しているわけでもなく、背中に翼が生えそうな雰囲気もない。上着を腕に掛けて歩く背は、やっぱりその辺のサラリーマンのようだった。
僕はともかく、と園長が切り出したのは、車が住宅街に差し掛かる頃だった。
「君は男の人が避けて通るようなことはないでしょ。なんで結婚しないの?」
率直すぎて、苦笑する。カウンセリングとセクハラの距離が分からない。牧師なのに、大丈夫なのか。
「縁遠い職場ですから」
「結婚したいなら紹介するよ。全力で推したいレベルの人はいないけど、悪くないレベルは何人かいる。君なら全員歓迎すると思う」
温かな家庭の灯りから、運転席へ視線を移す。なだらかな線を描く横顔が白く照らされたあと、また暗がりに沈んだ。
さりげなく重ねて隠した左手には、また痛みが刻まれ始めていた。
「ありがとうございます。でも、お気持ちだけで」
疲れに揺らぐ体をシートへ預け、灯りの途切れた暗い窓外を眺める。視界が揺れて定まらない。
突然、窓にべたりと小さな手が張りつく。思わず身を引いた。
「大丈夫?」
「あ……はい」
園長の声に目を閉じ、深呼吸してもう一度開く。なんの変哲もない夜の光景に額を押さえた。
薬を飲もう。薬を飲めばこんなものは全部、消えるはずだ。消えてまた、以前のような日常が戻ってくる。そして何も反省せず、のうのうと……ああ、本当にだめだ。思考が混乱している。
「大丈夫です。帰って薬飲んでお風呂入って寝ます。休めば治るんです。全部、元に戻る」
願いのように呟く。きっと良くなる。全部元に戻る。大丈夫、大丈夫だ。建設的な言葉をいくつか並べて不安と恐怖に揺れる心を落ち着かせる。園長は、何も返さなかった。
園長は私のアパートの前に車を止めたあと、手を、と言った。祝福でも与えるつもりなのだろうか。でも、素直には応えられなかった。じっと動かない私に、先生、と園長は神妙な声で呼んだ。
「神に祈るだけじゃ、叶えられない。口に出して求めて、手を伸ばしてくれなければ助けられないんだ」
暗がりに、説教は力強く響く。
「私は、薬が助けになってくれます。先生は園を、あの子達を助けてください」
それが園長の務めだろう。教会員でもない私を牧師の顔で救うより余程、必要な仕事だ。
「今日は、ありがとうございました。でも、もう放っておいてください。失礼します」
頭を下げて車を降りる。滲む灯りに目元を拭い、振り返らずアパートへ走った。
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