17.

 園長は園についたあと、私の携帯に自分の携帯番号とメールアドレスを登録してから教会へ帰って行った。てっきり『園長』『牧師』辺りで登録されたと思っていた名前は、フルネームの『真瀬まなせ もとい』だった。

 掛けられた言葉を思い出せば、居た堪れないような気分が蘇る。その途端、左手にまた痛みが走った。目を閉じて、最後まで受け入れる。擡げた手の甲には、予想どおり赤い筋が四本刻まれていた。

「大丈夫。幸せになんてならないから」

 自然と零れ落ちた言葉は誰に向けてか、そんなことも忘れてしまった。

 さっき、園長には隠したことがある。あの先輩は、彼女のいる人だった。遊びだった私とは隠れて付き合っていた。名誉回復なんて、できる立場じゃなかった。

 おくれ毛の溢れた小汚い二つ結びを解き、ロッカーの小さな鏡を見ながらみつあみにする。二十六には乙女すぎる髪型だが子ども達は、特に女子は喜ぶ。同じようにみつあみをせがんで、膝によじ登ってくる。薫子ももちろん、その一人だった。

 あの生首は、間違いなくしょーくんだった。長い髪の半分は茶色の、特徴もそのままだった。髪がまとわりついていたせいで顔はよく見えなかったが、少なくとも幸絵ではない。幸絵がどんな風に死んだのか、死んだニュースがもう流れたかどうかすら知らない。

 平らな胸に垂れたみつあみに一息つき、左手を見る。きれいに消えた痕を確かめ、ロッカーを閉めた。


 今日はもう保育には参加せず、机回りを片付けて病院へ行く。病院から戻ったらすぐ診断書とともに提出できるよう、休職届を書いた。

 もう医師が一筆書かなくても、休職以外の選択肢はない。私がいなければ、通常どおりの保育ができるのだ。園医のアドバイスをすぐに受け止めていたら、子ども達はこんな怖い思いをせずにすんだのに。

 休職届を書き終えた時、副園長が給食の盆を二つ持って現れる。

「岸田先生、給食食べよう。今日はカレーよ」

 穏やかに掛けられた声に、思わず泣きそうになった。

 これ以上副園長にも、この園の人達にも迷惑を掛けるわけにはいかない。子ども達を守りきれなかった私を、誰も責めも詰りもしない。こんなところに、いるべきではないのだ。


 まだ新しいメンタルクリニックの診察室は、程よく暗かった。医師は父親と同じ五十代半ば辺りで、恰幅の良い熊のような男だった。愛想良く、時々私の言葉を繰り返しながら一連の話を聞き遂げた。

 そして最終的に、午前中に受けた低血糖の診断を踏まえつつも、強いストレスが引き起こした一過性の不調だろうと結論づけた。幻覚が強く出る、私は割と典型的な症状らしい。医師は予後は良いと言いながらも休職期間は定めず、通院しつつの薬物治療を行うことを決めた。

 分かって来たはずなのに、力が抜けて椅子から腰を上げるのに苦労した。

 就職以来、欠勤は数日だった。楽しいことばかりではなかったが、仕事をしている自分はかろうじて好きになれた。仕事をしない、「何もない自分」は惨めで疎ましい。

 だから本当のことを言えば、仕事に執着した幸絵の気持ちは少しだけ分かる。幸絵へ向けているものは、今も同族嫌悪なのだろうか。私も同じ立場になれば、幸絵と同じことをするのかもしれない。我が子を無視しながら、他人の子を育てる。私なら、してもおかしくはない。

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