子羊は翳に染む
魚崎 依知子
一、令和元年五月七日(火)
1.
もちろん三日間の欠席なんて、幼児を預かる場所では珍しいことではない。ただ今回の場合は、特に長かった今年のゴールデンウィークを含めた十二日間も体調を崩している「可能性がある」のだ。喘息のせいで長引いているのかもしれないが、私達の心配はそれだけではすまない。ゴールデンウィーク明けの今日は、無断欠席だった。
「だめですね、やっぱり出られません」
溜め息と共に受話器を置いた私に、副園長は渋い顔をする。
「朝からかけてるんだよね」
「はい、これで四回目です」
確かめた時計は、四時を過ぎていた。
薫子の家には固定電話がないらしく、連絡先には母親の携帯番号しか書かれていない。薫子の家族は母親の
仕事を休んで薫子の看病をしているのなら、応えるだろう。しょーくんに預けて仕事をしているにしても、営業の合間にチェックくらいできるはずだ。「幼稚園へ連絡をください」と留守電にも残している。
「勤務先にかけて連絡が取れなかったら、児相に連絡しようか」
副園長の指示に、勤務先の電話番号を選ぶ。普段は家庭調査票で指定された優先順位に沿ってかけていくが、幸絵は勤務先に順位を書き込んでいない。勤務先にはかけるなと言いたいのだろうが、それを飲めない時もある。薫子は、うちでは数少ない児童相談所案件の子どもだった。
幸絵は出勤していたが、外回り中だった。忙しくしているのだろう。でも、こちらももう待てない。とはいえ事情を職場にバラすのはご法度だ。ひとまず「幼稚園に連絡が欲しい」と伝言を頼んで電話を切った。
幸絵は、それから十分も経たないうちに園の電話を鳴らした。ただ私に替わる間もなく、「
「看てるにしても、まだ体調を崩してるってことですよね」
「病院に連れてってないんだろうね。喘息で風邪が拗れたか、そもそも風邪じゃなかったか」
副園長の危惧に、不安な息を吐く。最初の欠席事由は風邪だったが、すんなりと信じられる家庭ではない。薫子はきっと、今も苦しんでいるのだろう。
「私、家に行ってみます。しょーくんなら多分、開けてくれると思いますし」
弱々しく咳をする薫子の姿を思い浮かべたら、たまらなくなった。しょーくんなら、説得すれば受診にも応じてくれるかもしれない。幸絵には、私が「勝手に連れて行った」とでも言ってもらえばいい。
「園長に相談するから、ちょっと待ってて」
副園長は待機を指示して受話器を取る。私はいつでも出発できるように、受診に備えた身支度をした。
まずはドアを開けてもらう。開けてもらったら薫子の具合を尋ねる。不安な点を尋ねて対面の切っ掛けを作る。対面できたら容態を確認して、受診の提案をする。
車内で園長と段取りの確認をしたあと、私だけ降りた。
来るのは二度目、四月にも新学期の家庭訪問で訪れたばかりのアパートだ。小洒落た名前にそぐわぬ荒廃ぶりは相変わらず、生い茂る前栽脇には錆びた自転車が積まれ、回収不可の札を貼られたゴミ袋がそのまま朽ちている。ドアの脇に古いテレビや椅子、壊れたカラーボックスを積んだ部屋もある。階段下には、分解されたようなバイクやスクーターが転がっていた。子育てにあまり良い環境とは思えない。一息つき、足元にその残骸を眺めながら錆びた鉄階段を上った。
二階も二階で、汚れた通路には誰のものでもなさそうなゴミ袋や枯れて打ち捨てられたプランター、ビラやチラシの類が堆積している。吹き抜けた風に、くすんだペットボトルが転がった。
二〇二号室の前に立ち、深呼吸をする。色褪せた合板の簡素なドアには、防犯とは縁遠そうな銀色のドアノブが刺さっていた。泥棒も避けて通る、はさすがに失礼か。ドア脇の古びたチャイムを押すと、懐かしいような音が中で響いた。
しかし少し経っても、人の気配が近づいてこない。
「こんにちは、薫子ちゃんの担任の
今度はノックして、中へ呼び掛けてみる。不審者全開でドアに耳を当てて音を探ったが、やはりなんの反応もなかった。
もし薫子が動けるような状態なら、本人が喜んで出てくるだろう。もししょーくんがそれを引き止めているとしても、気配くらいは立つはずだ。でも、何もない。留守か。治りかけの薫子にせがまれて、買い物に出たのかもしれない。考えられないわけではないが、私にできる判断ではない。
もう一度チャイムを押して、呼び掛ける。出掛けているのなら、それくらいには元気になったということだろう。安心していいはずだ。でも、さっきから胸騒ぎが収まらない。
一旦車に戻り、園長の指示を仰ぐ。園長は車を降り、電気メーターを確かめたあと裏に回った。
「児相に連絡しよう」
カーテンを閉め切った部屋を見上げながら、園長は険しい表情で携帯を取り出す。
どうか、無事でいますように。
ペットボトルの散乱する庭に突っ立ち、祈りの手を組む。今私にできるのは、こんなことしかない。
繋がった先に、園長は事情を説明する。取り越し苦労ならそれで構わない。何もなければ、謝ればすむ。問題は「取り越し苦労でなかった時」だ。
神様、どうか薫子ちゃんをお守りください。命をお救いください。
不安で揺れる胸を抑え、息苦しさに空を仰ぐ。薄くたなびく雲を眺め、長い息を吐いた。
園からの連絡は夜、落ち着かない胸を二杯目のコーヒーで宥めている時に届いた。馥郁たる香りを深く吸い込みながら、幼い命が天に還ったことを知った。
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