パルティータの調べに合わせて

振矢瑠以洲

第1話

 都内にある音楽ホールに裕一は座って、聴衆の会話からなる音の波で溺れそうな感覚に襲われていた。250席ほどある座席は、ほぼ開場と同時にホールに入った時は、ほとんどが空いていたが、今は空席がほぼ点在するくらいになっていた。聴衆の会話からなる音の波は、空席が埋まっていくにつれて大きくなり、今や単なる雑音となっていた。ホールの正面を占領しているパイプオルガンのパイプが、室内の明かりを全面に受けてその光を客席に反射させていた。

 裕一は開場30分前にホールの入り口に来たが、その時はすでに瑞穂はホールの入り口でひとり寂しげに立っていた。開場30分前ということでホール周辺には、他には誰もいなかった。彼女はホール入り口前の歩道と道路をまたいで、向こう側に建っているビルの方を、目を虚ろにさせてじっと見ているようであった。彼女の右手にはチケットの入った小袋が握られていた。裕一が彼女に1メートルくらいの距離まで近づいても、気づく様子はなく、じっと反対側を見ていた。

「ごめん、ごめん横川さん。遅れちゃったかなあ」

の言葉でビクッとしたように微妙に体が動き、瑞穂は裕一の方を見た。

「開場30分前ですもの。遅れてなんてないわ」

裕一はホール入り口で瑞穂と交わした言葉が、今また耳元に微かに聞こえたような気がして、恐る恐る右側を気づかれないようにちらりと見た。瑞穂は裕一をまじまじと見つめていた。

「上野君。河辺君は来られなくなった理由をなんて言っていたの?」

「急な仕事が入ったと言っていたけど。何かトラブルがあったらしく、どうしてもそれに対処しなければならないって」

「なんであたしには電話をして来ないで、メールだったの?」

瑞穂は正面のほぼ全体を陣取っているパイプオルガンの、パイプをじっと見つめながら独り言のように呟いた。

 その瞬間、昨夜の修との電話での会話が裕一の頭の中で響いた。それはもう深夜0時ちょっと過ぎの頃、修から裕一の携帯にかかってきた。

「裕一、明日何か予定あるかい?」

「いや全然ないよ。暇だよ」

修がどこかへ遊びに行こうと連絡してきたのかと思って、裕一は暇だと言ってしまった。

「それじゃ急で申し訳ないんだけど・・・頼みがあるんだけど・・」

「頼みって何だい?」

「明日・・・といっても・・・もう今日なんだけど。瑞穂とコンサートに行くことになっていたんだけど・・・突然行けなくなってしまったんだ。裕一が僕の代わりに行ってくれないかな?」

「代わりに横川さんの友達とかいないのかい?」

「こんな夜遅くじゃぁ無理でしょう」

「横川さん一人で行くというのではだめなの?」

「彼女の性格だもん・・・チケットがもったいないって、あとでこっぴどく怒られるよ」

「急に行けなくなった理由って何だい?」

「ごめん、それは言えないんだ。お願い、こんなお願いもう二度としないから。後でお礼に裕一の食べたいもの好きなだけおごるから」

「でも、横川さんは必ず理由を聞いてくるはずだよ。答えないわけにはいかないから。何って言ったらいいんだい?」

「仕事だって言ってくれる? 何か急にトラブルがあったとか」

 裕一から耳にした修が来られない理由に、満足しないながらもそれ以上詮索しないと決めたらしく、ちょっとむっとした表情をみせて、瑞穂はコンサートのプログラムを開いて解説文を読み始めた。裕一もプログラムを開いて解説文を読み始めた。開場と同時に入場したこと、瑞穂との会話が続かずにすぐに終わってしまうことから、開演の時間までプログラムを読む時間はたっぷりあった。裕一は音楽が好きであったが、クラシック音楽にはこれまでさほど関心がなかった。クラシック音楽を聞きにコンサートホールに行ったことは数えるくらいしかなかった。記憶によく残っているのは、年の暮れによく演奏されるベートーヴェンの合唱付き第9に、友人や知人がその合唱に参加するということで、付き合いでチケットを買わされて、そのコンサートに行ったということぐらいである。今回のようなヴァイオリンのソロのコンサートというのは、裕一にとって初めての経験であった。

 突然ブザーが鳴り、ホールが薄暗くなった。修との会話を思い巡らしながら、修が行けなくなった理由は何だろう、なぜ自分にその理由が言えないのだろうか、と考えているうちに開演の時間になったらしい。時計を見るときっかり開演予定時間であった。緑のドレスを身に纏った30代位の女性が、ヴァイオリンを片手に舞台の袖から姿を現した。観客席のあちらこちらから疎らに拍手が聞こえたかと思うと、ほとんどいきなり観客全員が拍手をしたと思えるような音が、ホール全体に響いた。顔を少し右側に傾けてちらりと見ると、瑞穂も激しく拍手をしていた。裕一は慌てて拍手をした。最初ソロ演奏といってもピアノの伴奏があってのソロ演奏だと思っていた。ステージにあるグランドピアノの蓋は閉じられたままでいつまでも開かれる様子もなく、いきなりヴァイオリンを持った女性が出てきた。その後ピアニストが出てくる様子もなかった。ヴァイオリニストだけがステージに出てきて、その時点で拍手が起きたというのはこのことか、とその時点で裕一は気がついた。観客席に向かって深々とお辞儀をしていた女性ヴァイオリニストは、ゆっくりと頭を上げた。ヴァイオリンを左肩に載せ、右手で持った弓をヴァイオリンの弦の方に向けると、一瞬のうちに拍手は止んだ。弓でA線を鳴らす音がホール全体に響いた。微調整して442ヘルツに合わせる音が響いていた。A線とD線を同時に鳴らす音が響いた。微妙にずれていた音が完璧な5音階の美しい和音となった。D線とG線が低い音を鳴り響かせていた。微妙にずれていた音が5音階の美しい音を響かせた。A線とE線が高音の音をホールに響かせた。わずかにずれていた音が完璧な5音階となり美しい高音を響かせた。4弦の開放弦の分散音がホール全体に響いた。調弦が終わると同時に、観客の沈黙は期待を膨らませた静寂を帯びた。

 調弦が終わって、ちょっと間を置いてから演奏が始まった。バッハ作曲の無伴奏のヴァイオリン曲『パルティータ第1番』。なんて美しい曲なんだろう。それに1挺のヴァイオリンでこんなにも賑やかな演奏ができるなんて。普段ギターを弾いたりしている裕一にとって、ギターは右手の4本指を使って弦を弾くので、単音の旋律だけでなく和音が伴うことが多い。でもヴァイオリンは弓で弦を鳴らすから、単音からなる旋律の演奏が普通の演奏形式だと思っていた。しかし今裕一が聴いているヴァイオリン曲は旋律と和音が共存している。まるで2挺のヴァイオリンで演奏しているように聞こえる。クラシックに疎い裕一であったが、バッハに対しては特別の思いがあった。ヨーヨ・マーマが演奏する無伴奏チェロ組曲をテレビ放送で聴いた時、体全体が震えるような感動を覚えた。これもまたテレビ放送で聴いたのであるが、クラシックのギターリストがバッハのリュート組曲を演奏していた。プロのギターリストを一度は夢見たことのある裕一は、ジャンルを問わずどんなギター演奏にも興味があった。リュート組曲の演奏を聴いた時は体中に衝撃が走った。G線上のアリアをアレンジしたジャズピアノの演奏は、ラジオで偶然聴いた時とても気に入って、CDを購入して今でも時々聴いている。昨夜修から電話があってから、裕一は全然眠れなかった。修の彼女である瑞穂と二人でコンサートに行くことなんて、今まで考えたこともなかった。裕一と修と瑞穂は同じ中学の同じクラスにいた。クラス替えがなかった2年と3年で3人は同じクラスであった。瑞穂はクラスの女子で一番美人であるということになっていた。というのはクラスの男子でミスコンの投票のようなことをやっていたらしいのである。その投票でダントツ一位だったそうである。そういう噂を裕一は聞いたことがあるからである。裕一と修は投票の誘いがあった時相手にしなかった。だから二人にとって噂としてしか聞いていない。瑞穂は頭も良かった。成績はクラスで2番であった。で、1番は誰であったかというと修であった。裕一はどうかというと、中の下か下の上といったところであった。修は県で一番偏差値が高いと言われている進学校へ進学した。瑞穂は自宅から一番近いところにある進学校へ進学した。裕一は近くにある工業高校にコンピュータ関係の学科が新設されたのを聞いて、3学年の4月当初からそこを目指して猛勉強をするようになった。教師たちは合格できるか心配していたが、無事合格することができた。修は音楽を除いてすべての教科で3年間5であった。それに対して裕一は、唯一音楽だけは得意で3年間5であった。他の教科はどうかと言うと、水辺のあちらこちらにアヒルが浮かんでいるといった感じであった。裕一は小5の時父親からギターをもらった。裕一の父親が学生の頃アルバイトをして、一生懸命貯めたお金で買ったかなり高額なギブソンのギターであった。裕一は嬉しくてギターを必死に練習した。中2の頃にはかなりのところまで弾けるようになった。裕一の父親もその上達ぶりには驚いたようで、もしかしたらプロになれるのではという思いが微かに頭をよぎったが、下手な期待を抱かせてはかえって可哀想なことになるかもしれないと思って、そのことに関して裕一には何も言わなかった。中学の音楽の教師も裕一の音楽的才能に気づいていたのか、裕一が音楽室のグランドピアノを弾きたがっているのを知ると空いている時間に好きなだけ弾かせてくれた。ある日のことその日は放課後職員会議がある日で、職員室からその音楽教師が会議室に向かおうするとき、裕一が音楽室の鍵を借りにきた。会議室での職員会議が終わったあと、音楽室に向かっていくと、音楽室に近づいたところでピアノの音が聞こえた。初級レベルのクラッシクのピアノ曲であったが、音大でピアノ科を専攻していたその教師にとってはそれが見事な演奏であることがわかった。ドアを開けるといかにも楽しそうにピアノを弾いている裕一の姿が目に飛び込んできた。音楽教師は一瞬ではあるが羨望の念を抱かずにはいられなかった。ピアノを誰から教わったのか、と音楽教師が裕一に聞くと、裕一はNHKのテレビ放送のピアノ教室を見て覚えたと答えた。ピアノの譜面台にはその番組のテキストが開かれていた。音楽教師が音楽室の入り口に来たときに聞こえたクラッシックのピアノ曲の楽譜が開かれていた。

県で一番難関と言われている高校を希望していた修にとって、音楽を5にすることが受験生の修にとって必要不可欠なことであった。中2の時それほど付き合いのなかった修と裕一であったが、修が裕一に近づいた。裕一が音楽の能力にかけてはダントツであることがクラスでは常識のようになっていた。修は裕一から可能な限り音楽を学ぼうと思った。その申し出を聞いて、裕一は英国数理社の主要5教科を教えて欲しいと申し出た。二人は放課後土日祝日場所を変えながらいつでも一緒であった。お互いの目的のためにそれぞれの得意とするものを吸収し合った。さらに彼らは一緒に長い時間を共有することで相手の人格的な面での素晴らしさに気づいた。いつのまにか彼らはお互いに親友と呼べるような関係になっていた。

中2になってクラスで最初に修を目にしてから密かに修に対して特別の思いを抱いていた瑞穂は、中3になってからその思いが、その頃テレビのドラマで、女の子が特定の男の子に抱く思いと似たものであることに気づいた。ある日吹奏楽部の部長だった瑞穂は楽譜をみて難しいフレーズにぶつかって、聞きたくても顧問の音楽の先生が出張でいなかったので裕一に聞いた。その時瑞穂は裕一の音楽的才能に驚いた。それからたびたび瑞穂は裕一に楽譜のことで聞くことがあった。そういうことで裕一と瑞穂は友達として、普段から気軽に言葉を交わせる関係になっていた。それはいつものように瑞穂が裕一に楽譜のことを聞いているときのことであった。たまたま少しの時間だけ二人だけになった。瑞穂は突然楽譜の難しいフレーズについて聞くことをやめてしまった。驚いた裕一は瑞穂を見ると瑞穂はこわばった顔をしていた。いつもと違った緊張した話し方で修に対する思いを裕一に打ち明けた。翌日は学校が休みで、裕一と修は一日中図書館で勉強した。図書館の閉館時間が近づいたので教科書類を全部鞄に戻して図書館から出ていく時、通路で二人だけになった時、裕一は瑞穂から聞いた瑞穂の修への思いを話した。


 いつのまにかコンサートは最後の曲の『シャコンヌ』が終わりに近づいていた。瑞穂と突然コンサートに行くことに複雑な気持ちになり、昨夜ほとんど裕一は眠れなかった。2時間ほどのコンサートの時間を含めた瑞穂と過ごすことになる時間が、裕一にとって恐ろしく長く感じるだろうと思っていた。しかし、2時間ほどの珠玉の時間が、またたくまに過ぎてしまったように感じた。ヴァイオリンという歴史のある完成された楽器が、思いがけなく裕一を未知の、あまりにも美しい音楽の世界へと連れて行ってくれた。瑞穂と共有する時間のことを考えて、あれほど気に病んで昨夜ずっと眠れず考えていたのに、隣に座っている瑞穂のことをほとんど意識しないどころか、忘れてしまっていたことに、演奏プログラムの最後の曲のエンディングが近づいたころ、裕一は気がついた。プログラム最後の曲の最後の音が、ホール全体にしばらくの間響いていた。観客の興奮と感動の入り混じった沈黙がしばらくの間続いた。ホールのあちらこちらで疎らな拍手が聞こえたと思った瞬間、観客全員から発せられたと思われるような怒涛のような拍手喝采がホール全体に響いた。その音量のデシベルの数値は増えることはあっても下がることはないだろうと思われた。ヴァイオリニストは観客席の隅から隅へと、方向を変えながら何度もお辞儀をした。舞台の袖へと姿を消した後も拍手の音は止むことはなかった。どれくらいの時間が過ぎただろうか。時間を忘れて拍手をしている自分に裕一は驚いた。ヴァイオリニストが再び舞台の袖から姿を現すと、拍手に再び歓声が混じった。ヴァイオリニストが演奏の態勢に入ると拍手歓声はすぐに止んだ。ヴァイオリニストはアンコールの曲をすぐに弾き始めた。カッチーニのアベマリアであった。アベマリアの曲は何人もの作曲家によるものがあって、裕一はどの曲も嫌いではなかった。しかしカッチーニのアベマリアは、カウンターテナーによるものを聴いたことがあり、裕一にとって他のアベマリアとは違った特別の曲のように思えた。歌詞が「アベマリア」だけで歌われていることが裕一にとってお気に入りの特徴であった。いまヴァイオリニストが弾いている『アベマリア』は、神聖さだけでなく哀愁をさそうような響きがあった。裕一の感性に100%感動を吹き込んだヴァイオリニストの演奏は、さらにその感動を重複させるような感銘を裕一の心に注ぎ込んだ。裕一の頭に突然名案が浮かんだ。ヴァイオリニストの演奏が終わって、拍手歓声が始まると裕一は瑞穂の方を向いて話した。

「横川さん。言うのを忘れていたけど、これからすぐ仕事に行かなければならないんだ」

夢中で拍手をしていた瑞穂は一瞬拍手をやめて、不思議な様子で裕一を見て頷いた。が、すぐにステージのヴァイオリニストの方に目を移して再び拍手をし始めた。拍手歓声の渦のなかで誰一人として席を立とうとしていない中、裕一は一人客席の通路を足早に歩いていった。

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