第二章 昨非今是(4)
「──――」
手に残る、人の肉を斬った感覚。刀身に散った男の血の飛沫が赤々と曙光に映えた。
噛み合わない歯がかちかちと音を立てる。
伊織は恐る恐る男の倒れたほうへ目を泳がせた。
左右の腕から血を流したまま後ろ手に縛られ、隊士たちに手荒く引っ立てられていた。
斬り殺さずに済んだ安堵とともに、人に斬りつけたことへの恐慌が伊織を襲う。
伊織は脇差を放り、夢中で駆け出していた。とにかくこの場から離れたかったのだ。
「原田さーん!」
伊織と入れ違いで、原田の元に沖田が駆けつけた。
「私のほうでも一人捕らえたんですけど、どうも長州の者じゃないかと……」
「そーかぁ。そんじゃ、こっちのも長州の野郎かな」
先年八月の政変以来入京を禁じられているはずの長州人が、京に潜伏していたという事の重大さを些少も気にかけない様子で、原田は飄々と言う。
犯人は今し方新選組屯所へと連行され、現場には原田と沖田の二人が残っていた。
「あれ、この脇差……」
沖田がふと、投げ捨てられた抜き身の脇差を見つけ、拾い上げた。
「これ、土方さんの脇差じゃないか……。なんでこんなところに……?」
不思議がる沖田の横で、原田が同じく脇差を見やる。
「あぁ、そいつは高宮って小僧が持ってたんだ」
「へー? じゃあ土方さんが預けたのかー」
沖田は、おや? と辺りを見回した。
「それはそうと、高宮さんは何処へ?」
「それがよー、犯人に斬りつけてすぐどっかに走ってっちまったんだよな」
何でもないことのようにのんびりと言う原田に、沖田は少し大袈裟なくらいに驚いた。
「高宮さんが犯人を捕らえたんですか!?」
「おぅよ。最初に不審な影を見つけたのもあいつだしな。お手柄じゃねぇのか?」
原田としては、自分が初太刀で犯人を止める予定だったのを、失敗したのが気に入らない。
沖田は唖然とした。
「はっはぁー。土方さんの目に狂いはなかったってことかなぁ」
それとも、窮鼠猫を噛むというやつで、無我夢中のうちに引き起こしたまぐれだろうか、と沖田は首を傾げる。
「だいたいよ、あいつ一体何なんだ? 知ってんだろ? 総司」
「え? えぇ、まぁ。土方さんお抱えの小姓さんですよ」
にっこりと笑って答える沖田に、原田は理解不能といった表情になる。
「土方さんから聞いてないんですか? 隊士ではないけど、高宮さんは助勤職見習いなんですって」
「んあっ!? 助勤!? 小姓がっ!? あいつがか!?」
原田が顎を外す勢いで驚き、その顔の面白さに沖田はついぞ吹き出した。
「でもねぇ、このことは試衛館以来の仲間以外には内緒ですよォー? ぷぷっ! 助勤は助勤でも、何せ監察方だそうですからー」
「えぇえぇぇぇーッ!!?」
もう殆ど口が開ききって塞がらない原田を余所に、沖田は周囲を見回す。けれど伊織の姿は、影も形も見当たらなかった。
「先に屯所へ帰っちゃったんですかねぇー……」
***
沖田と原田は、詳細報告のために一旦屯所へと戻った。
二人はまず土方を訪ね、副長室に場所を移した。
「高宮さんはまだ戻ってないんですか?」
副長室をきょろきょろと見ながら、沖田が血痕を拭った脇差を土方の前に差し出す。
「一緒じゃなかったのか?」
てっきり原田と一緒に帰って来るものと思っていた土方は、目を丸くして原田を見た。
「いや、それがよぉ、俺の手柄横取りして、どっか行っちまったんだよなー。その刀放り出して」
平然とした顔で、原田は刀を指し示す。土方は示された脇差を手に取ると、口元でせせら笑った。
「大方、初めて人に斬りつけて肝が縮んじまったんだろうよ」
「なぁ土方さん。どうも話が妙だと思っちゃいたが、あの女子みてぇな小姓を監察にするってなぁ、本気なのか?」
「俺ァ本気だ。これから教育してきゃあ、なかなか都合のいい小姓になると見てる」
何となく不気味な笑顔で言う土方に、原田は納得がいかないような複雑な顔になる。
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