第2話

 空気に潮の香りが漂い始めた。


空の色はわずかにその色調を変える。


海岸線に沿ってたくさんの樹が植えられていた。


この向こうには海があるんだってことが、何となく分かる。


防潮堤代わりの国道を乗り越えた。


 あたしが鬼の姿をはっきりと見たと覚えているのは、やっぱり小学生の時だ。


二年生くらいだったと思う。


友達数人と自転車で遠出をしていた。


ちょっとした冒険のつもりだったのに、道に迷ってすっかり帰りが遅くなってしまった。


太陽は沈み空は真っ赤に燃え上がり、すぐそこまで夕闇が迫っていた。


あたしたちは自分が今どこにいるのかも分からなくて、誰もが焦っていた。


本当に家まで帰り着けるのか、それすら信じられずにいた。


このまま世界から取り残されてしまうような気がして、ちゃんと言いつけを守らなかったことを、黙って遠くに行かないという約束を破ってしまったことを、後悔し始めていた。


 互いに非難をする余裕もなくなっていて、ただただペダルをこぎ続けた。


次第にハンドルを握る指先は冷たくなり、足も疲れてくる。


どうしてこんなことをしちゃったんだろう。


家から出なければよかった。


こんな冒険、言い出したのは誰だっけ? 


「自分は行かない」って、どうして断らなかったんだろう。


 見つけた公園で一休みした。


トイレに行きたいという子たちが連れだって行ってしまい、一人でベンチに座っていた。


背後から伸びてきた醜い手が、あたしの腕をつかむ。


引きずりこまれそうになるのを、なんとか踏ん張った。


「違うよ。こっちだよ。何してるの? ちょっとここで休憩していかない? お菓子あるよ。食べる? 大丈夫だから」


 そんな声が聞こえた。


叫びたくても恐怖で声が出ない。


「この道、来るときも通ったよね!」


 やっと戻ってきたみんなの姿が見えた。


仲間の誰かがそう言って周囲を見渡す。


鬼の腕はスッと姿を消した。


「あそこの病院、おばあちゃんが入院してるとこ!」


 遠くに見えたその建物には、確かに見覚えがあった。


車でいつも通る道沿いにある病院で、もう知っているところまで近い。


「近道しよう」


 自転車にまたがったみんなのところへ、あたしは駆けだした。


ただでさえ不安で一杯のところに、何も言えなかった。


目印となった病院を目指して進路を変えようという話しになった。


川沿いの遊歩道をずっと走ってきたのだから、そのまま道に沿って進んでいればよかったのに、あたしたちは方向転換した。


まだ鬼がこちらを見ていることに、気づいているのはあたしだけのようだった。


「そのまままっすぐ行こうよ」


「絶対こっちの方が近道だって!」


「どうして? この道を通ってきたのに……」


 一人にされるのが怖かった。


走り出したみんなの後に結局ついて行った。


低く唸るような鬼の声が聞こえ、背筋が凍る。


 結局その時の彼女たちの提案は正しくて、今になって地図をながめてみると、川沿いを行くより随分とショートカットされていた。


あたしたちは完全に真っ暗になる前にそれぞれに家にたどり着き、誰からも怒られずママも何も言わなかった。


「おかえりー。楽しかった?」なんてキッチンに立つママに言われて、「うん!」と元気よく答えた。


あたしはもう見えなくなった鬼の影におびえて、腕についた真っ赤なアザのことを誰にも言えずにいた。


 それ以来、鬼の存在を感じる度にこのアザは痛みだす。


反発なのか抵抗なのかは知らない。


成長するにつれその感覚は次第に大きくなり、ついに恐ろしいその姿を目撃してしまった。


 真っ赤に腫れ上がった顔に潰れた目。


太く短い角は何よりも禍々しく、吐く息は甘い異臭を放ち、その人を見下ろした。


伸ばされた筋肉質な腕とかぎ爪は彼女の腕をつかむ。


捕まったその人が喰われ、潰されていくさまを、怯えながら陰に隠れ息を殺し目も耳も塞いでやり過ごした。


もう二度とあんなものは見たくもないし、誰かを犠牲にさせるつもりもない。

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