第2話
時夫が玄関を開けるやいなや、時夫は玄関の決定的な変化に気がつき驚いた。下駄箱のある方の壁に、今までなかった大きな鏡が掛けてあったのである。その鏡は壁一面に広がっている大きなもので、絵の額のような縁取りがしてあった。その縁取りは純金でできており、電灯の明かりを反射させて眩しく輝いていた。時夫はその鏡が彼の留守の間に知らぬ間にかってに掛けられていたことへの不気味さよりも、その鏡が持つ豪華さ華々しさ美しさ神秘さに撃たれて、しばらくの間呆然とその場に立ち尽くしていた。彼はその鏡に映し出された自分の姿を見つめた。このような場面を何処かで経験したような感じが彼の脳裏をよぎった。時夫はすぐに思い出した。いつも彼が見ている夢の中の一場面であった。時夫は鏡に映っている自分の顔を見ようと、鏡の中を覗いた。しかし、その鏡は視野にあるものをすべて映していながら、時夫だけは映ってはいなかった。不思議に思った時夫は、鏡に近寄りすっと手を伸ばしてみた。またたくまに時夫は自分が鏡の中に吸い込まれていくのを感じた。
気がついたとき彼は闇の中に立っていた。しかし、その闇を全くの闇でなくしていたものは、時夫の間近にあった大きな鏡であった。玄関にあった鏡と同じ大きさのものであったが縁取りはなかった。その鏡は彼が今立っている暗闇に向かって明かりを放っていた。その明かりは彼が見慣れたものであった。その鏡を覗き込むと玄関が映っていた。彼は手を伸ばした。その鏡はガラス面で彼の手がそれ以上伸びるのを遮った。時夫はしばらくの間何が起こったのかほとんど理解できずに、呆然とそこに立ちつくしていた。それからどれくらいの時間が経ったのか時夫には皆目分からなかったが、その時間の経過とともに時夫が今おかれている状況が時夫自身にも少しずつ理解できるようになった。今夢を見ているのではないことは、時夫には不思議なことに確信できた。今夢を見ているのではないことの理由を述べろと言われても恐らく彼にははっきりとした答えを言うことは出来ないだろう。ただ彼がいつも見ている夢が同じものであり、今彼がおかれている状況というものがそれと全く違ったものであるという、ただこれだけのために彼は今夢を見ているのではない、ということが確信できたに過ぎなかった。
時夫は周りを見回した。面前にある玄関を映し出している大きな鏡以外には何も見えなかった。ただ暗闇が重々しく渦巻いているだけであった。彼はこれからどうしたらいいものかとしばらく考えていた。夢ならば覚めるのを待っていればいいが、これは夢ではなく現実である。しばらく考えた末彼の頭に浮かんだのは2つのことであった。一つ目のこととは面前にある鏡をこちらに来たのと同じ要領で通り抜けることが出来ないかということである。彼がこちらに来たのはあの鏡を通り抜けてきたということをいま思い出してきたので、その通り抜けてきたときの状況を今一度思い出してみようとした。彼は鏡に近づき右手をそっと伸ばした。彼の指先が鏡の表面に触れた。氷のように冷たくなった鏡の表面は彼の指先がそれ以上進むのを拒絶した。彼は何度も何度も指先を伸ばしたが鏡の表面は毎回同じように冷たく彼の指が進むのを拒絶した。彼は左手の指も同じように伸ばしたりもしたが同じことであった。彼はやがて両手の手のひらを鏡のガラス面に押しつけた。そして、顔も、胸も、腹も、両足も押しつけた。鏡の表面は彼の体全体を頑なに拒絶していたのであった。しばらくそのままの姿勢でいたが、やがて諦め、その鏡の表面から離れ、暗闇の中に蹲った。彼は蹲りながら両手で自分の顔を覆った。彼の両手は周りの暗闇を遮断した。彼の面前にあるのは彼が作り出した暗闇だけであった。彼の想像力が作り出した暗闇の中に唯一あの鏡から放たれていた光の残像だけが微かに光っていた。しかしその残像さえやがて彼の脳裏から消えてしまった。彼は全くの暗闇の中でしばらくの間蹲っていた。
やがて彼は無意識のうちに2つ目のことに取りかかっていた。暗闇の中に向かって辺り構わず歩き出したのであった。無謀な行動であるという意識は脳裏の片隅にあったのであるが、こうする以外に方法はなかったのであった。彼は闇雲にただひたすらに暗闇の中を歩いていった。ただひたすらに歩いていったが、どれだけ歩いていってもそこにあるのはただの暗闇だけであった。恐らく彼は数時間は歩いただろう。しかし、何時間歩こうがそこにあるのは暗闇だけであった。彼は後ろを振り向いた。この暗闇の中で唯一光を放っていたあの鏡は完全に見えなくなってしまっていた。とうとう彼は完璧な暗闇の中に放り出されてしまったのであった。彼はとにかくこのまま歩いていこうと思い、ふたたび前の方を見た。すると今まで歩いていった方角に一点の光が微かに輝いていたのが見えた。その微かな光りに気づくと彼は急に嬉しくなり、その微かな光に向かって走り出した。その光は時夫が近づくにつれて形が大きくなっていった。長方形の光が時夫の面前に現れてきた。その長方形は一見見た限りでは、あの鏡そのものであった。時夫は愕然としてその鏡の前に立ちつくした。鏡には時夫と玄関が映し出されていた。時夫は右手をすっとさし伸ばした。彼の右手は鏡の表面をすり抜けて行った。時夫はその鏡の中に瞬く間に吸い寄せられていった。時夫は玄関に、鏡の前にいつの間にか立ちつくしていた。
「何てはっきりした夢を見たんだろう」時夫は心の中で思った。
時夫は玄関から上がり居間の中に入りソファーに深々と腰を下ろした。時夫は正面の壁に掛けてある時計を見たとき自分の目を疑った。時夫が帰って来た時からほとんど時間が経っていなかった。「一瞬のひと時に何て長い夢を見たんだろう」彼は心の中で訝った。時夫はテーブルの上に置いてあったリモコンをとり、テレビをつけた。テレビから流れてくるニュースによって現在の日付が、彼が玄関に入った日付と同じであることが分かった。
その夜彼は毎晩見ていたあの夢を見ることなしにぐっすりと眠ることができた。彼は久々に快適な目覚めを経験することが出来た。偏頭痛もきっぱりとなくなった。彼は生きていることに言い様のない喜びを感じた。何かあらゆる束縛から解放されたような喜びを感じることが出来た。
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