其の十七 ノック
太一が、花を川に突き落としていた。その事実を、花に口止めしていた。
俺は、何も言うことが出来なくなった。
太一は俺の兄だ。実の兄である太一がそんなことを花にした原因は、間違いなく俺にある。
子供時代の俺の世界には、花しかいなかったからだ。
「花……俺の所為、だ」
どうしよう。そんなこと、考えもしなかった。背景にあるものに気付こうともせず、呑気に七年もの間、太一になったふりを続けた。
その間、花は一体何を思っただろう。本来の宗二に戻った途端、そこに年数などなかったかの如くまた花に纏わりつき始めた俺を見て、どう感じただろう。
「俺、何も知らないまま、花のことを何も考えないで浮かれて、花を自分のものにすることだけ考えて……」
最低だ。どう考えても無神経な奴だ。
「宗ちゃん、そんなこと、ない」
花が、焦った様に見上げる。知っている、花は人一倍気を遣う人間だ。自分の想いを押し殺して相手に合わせてしまうことを、俺はずっと知っていた筈だ。
それを分かった上で、強引に自分の想いを押し付けた。
最低だ、本当に最低だ。
「いや、ごめん、ごめん花。俺さ、一人浮かれて、花が戸惑ってることなんて大して考えもしないで」
立ち上がり、そのまま部屋のドアに向かって一歩ずつ下がる。このまま花の前にいては、きっとまた甘えてしまう。花が断れないのを知っていながら、また自分を押し付けようとする。
花が俺の足を掴んだ。思ったよりも力強いそれに、俺は振り払うことを躊躇する。
花の潤んだ目が、俺をこの場に縛り付けた。
「違う! 私はずっと好きだった!! だから行かないで!」
「……花」
花のひと言で、俺の心はまた揺れる。こんな簡単にぐらつく程度の軽い自意識だから、太一になることで自分に向き合うことからあっさりと逃げられたんだろうか。
「もう、どこにも行かないで……」
花のきれいな瞳から、涙が溢れた。ああ、花を泣かせてばっかりだ。全然駄目だ、彼氏として全然花を守れていやしない。
それでも、口から突いて出るのは言い訳じみた台詞ばかりだ。
「俺、でも、花を泣かせてばっかりで」
これだって、花ならそんなことないと言ってくれるとどこかで期待している。
自分の卑怯さ加減が嫌になったが、もう本来の宗二に戻ってしまった以上、逃げ場はない。
「私が泣き虫なのは昔からだよ」
花が泣きながら笑った。やはり花は責める様なことは言わない。確かに花は泣き虫だ。いつだって泣き虫だ。でも、もうずっと泣いているところなんて見ていなかった。
今回、大きくなった花が泣いているのは、明らかに自分の言動によるものだ。
「だから、もう私を置いていかないで!」
花が、俺の手を掴んだ。急に立ち上がったと思うと、俺の胸に抱きつく。細い。小さい。花のつむじすら日に焼けていて、やっぱり可愛いかった。こんな時だというのにそんなことを思ってしまうなんて、阿呆だ。馬鹿だ。
恐る恐る、花の肩に手を回そうとした、その時。
ドンドンドン!! とドアが激しく叩かれた。
俺と花は突然の大きな音に飛び上がり、俺に至っては、情けないことに花に縋るように抱きついてしまった。情けないとは思ったが、それは後になってからだ。今この場では、そんなことを思う余裕すらなかった。
「な、なんだ……?」
三回のノックの後、それは唐突に終わった。
互いに目を見合わせ、首を傾げる。外からは蝉の煩い声がし、差し込む陽の光はまだ明るい。部屋の電気は点いていなくとも、十分に明るかった。
それなのに、部屋が一瞬、ふ、と暗くなった。
「え!?」
目をこすり瞬きをすると、部屋の明るさは元のままだった。慌てて花を見る。
花の目は、大きく見開かれていた。同じものを見たのだ。
「今、暗くなったよな?」
「……よね? 宗ちゃんも見た?」
「見た。何だったんだ今の……」
気が付いたら、二の腕に鳥肌が立っていた。身体中ぞわっと総毛立ち、不快だった。
花から手を離すと、背中に庇う様にしてゆっくりとドアに一歩近付く。
さっきのノック。ノックの高さは、低い所から聞こえた気がした。
つまり、子供が叩いたんじゃないか?
脳裏に、午前中に図書室で見かけた日に焼けた小さな手の映像が
ドアノブに、ゆっくりと手を伸ばす。
「宗ちゃん!?」
花が俺の腕を掴んで引き戻した。その顔は、恐怖で引き攣っている。
「む、向こうに母さんがいたりするかもしれないし」
「じゃあ話しかけようよ! 開けるの止めよう! ね!?」
花の言うことも一理あると思い、部屋の中心にぐいぐいと腕を引っ張り戻されつつ、ドアの向こうに向かって声を掛けた。
「だ、誰だ!?」
思ったよりもびびった声が出てしまった。
ああ、やっぱり俺、駄目かも。格好いいところなんて全然見せられやしない。そもそも自分ちなのに、なんでノックされただけでこんなにびびってるんだ。
だが、やはり怖い。気味が悪い。だから腰が引けた状態で、待った。一応何とか、花を背中に庇う体勢は保ったまま。
「……おい、誰かいるのかよ!」
でも返事がない。ドアに耳を当ててみたら、何か聞こえるか。一歩ドアに近付く。
「そ、宗ちゃん、止めて」
人差し指を口に当ててシーッとやって花をその場に留まらせると、ドアに耳を近付けた。
すると。
ドンドンドン!! と再びドアが叩かれて、俺は心底驚いてビクッ! と反応してしまった。心臓がバクバクいい始める。もう勘弁してくれ、何なんだ。
「だ、誰だよ!」
声を掛けるが、返事がない。すると今度はドアの下の方から、ドン!! ドン!! とまるでドアを蹴っている様な音が繰り返し聞こえ始めた。
え、本当に何だこれ、何が起きてるんだ。
半ばパニックになりつつ後ろにいる花を見ると、花は耳を押さえてしゃがみ込んでしまっている。目は恐怖を浮かべながら俺を見ていた。
ドン! ドン! とドアを蹴る音が続いている。
「返事しろよ!!」
もしかしたら口が聞けない奴なのかも、なんて馬鹿みたいな考えが浮かんだ。例えば何かの動物とかいう可能性だって、なくはないかもしれない。
ドン! ドン! と激しく蹴り続ける音は続く。
必死で他の可能性も考えようとしたが、俺の脳みそは、あの手が、あの足が蹴っている想像しかしてくれない。なんでだ? なんでこんなことをするんだ、太一!
「――太一! 止めてくれ!」
とうとう、太一の名を出した。、もう、どう考えても太一の仕業以外考えられなかった。
「……止んだ」
太一の名前を出した途端、ドアを蹴る音が止む。ほっとして後ろの花をまた振り返ると、花の恐怖に満ちた視線は、俺以外のところを凝視していた。
ゆっくりとその視線を追う。一体、どこを見てるのか。
ギ、ギイイイイ
「ひ、ひい!!」
ドアノブが、ゆっくりと回転を始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます