ミミサキ市の誘拐犯

三石 成

第一章

ミミサキ市の誘拐犯 -1-

 聞こえる人間と、聞こえない人間がいるらしい。

 電灯をはじめとする、電気製品全般がたてるノイズの話だ。

 俺は聞こえる側の人間だ。ネオン管の切れかかった看板が、頭上で不定期に明滅しているのが、目にも耳にもさわる。

 軽く伸びをすると、腰がパキリと小さく音をたてた。さすがに長時間座りすぎだ。

「好きな奴、押して良いぞ」

 煙草を咥えた上司に促され、暗がりの中、光りはじめた自動販売機の前に立った。

 悩むことなく下段中央のボタンを押すと、ガコンと音をたてて、お目当ての缶が落ちてくる。取り出し口から拾い上げ、ガードレールの側まで向かうと軽く凭れかかる。

 中身の温度の割に熱々なスチール缶をハンカチに包み込み、タブに爪を立て、押し開ける。缶の縁が唇に当たる熱さもまた良い。

 缶を傾け、出てきた甘いコーヒーをちびりと味わう。口腔から鼻に抜ける独特の香ばしい薫りが強く、微かな苦味に混ざる甘さが際立つ。人から奢ってもらった缶コーヒーは、なぜこんなにうまいのか。

 俺が満足げに息を漏らすと、隣で煙を燻らせはじめた上司が、低く笑い声を漏らした。

 彼はパチンと金属でできたライターの蓋を閉める。その細かな傷が入った鉛色の表面には、円の中にさらに小さな五つの円を、花弁のように並べた文様が彫ってある。

「毎回思うが、たった一二〇イェロの缶コーヒーを、そんなに美味そうに飲む奴はお前くらいだよ」

 その台詞は実に心外だ。

「シンさんがよく、朝に買ってくるコーヒーがいくらか、わかってます?」

 問いかけると、上司ことシンさんは片眉を上げる。そうすると、最近深くなってきた額の皺がよりいっそう目立った。

「あ? 四〇〇イェロくらいだろう」

「四二〇イェロです。この缶コーヒーで済ましていたら、三〇〇イェロも浮くんですよ」

 ビルの間を抜けていく冷たい風に吹かれていると、缶コーヒーの温度がどんどん下がっていく。それでも疲れた体に染みていく甘みが貴重で、少しずつ大切に摂取していた。

「いや、店で買うのと、缶コーヒーとは全くの別モンだろうが」

「何が違います?」

「何もかもだよ。味とか、薫りとか……深みとかよ」

 当然だろ、とでも言わんばかりの様子を、俺は鼻で笑った。コーヒーを好んで飲み、豆や、販売店のブランドにこだわる人間は多いが、本当にその味の違いがわかっている者など、ほんの一握りだろう。

「コーヒーはコーヒーですよ。俺はこの缶コーヒーを飲みながら、四二〇イェロも得したなって思っている方が、よっぽど幸せです」

「浮くのは三〇〇イェロじゃなかったか?」

 シンさんは指の間に挟んだ細い煙草を揺らし、鼻から煙を出しながら他愛ない会話を続ける。寒空の下、彼は煙草を味わいたいだけで、他にすることはない。くだらない会話でもしていないよりはマシだ。

「俺はこれをシンさんに奢ってもらったんだから、四二〇イェロのおトクですよ。さらに無駄にお上品な喫茶店で飲んだって考えたら、一〇〇〇イェロくらいおトクです」

 先日、キャバクラ『ヘブンズエンジェル』で指名手配犯らしき男が目撃されたという情報提供があり、俺とシンさんは連日、首都デンメラにある繁華街で張り込みをしていた。

 キャバクラが見える横道の傍らに車を停め、延々と店に出入りする人間を観察し続ける。この任務は退屈極まりないが、気も抜けない。何せその目撃された指名手配犯というのが、過去に何度も強盗殺人を犯している一級の重罪犯なのだ。

 キャバクラが閉店時間を迎えたら張り込みも終わりになるのだが、その後本庁に戻る前に、シンさんはいつも煙草を吸いたがる。

 シンさん曰く、昔は本庁のどこでも吸えたという煙草だが、最近では喫煙スペースさえ撤去された。シンさんの家では第一子が生まれた七年以上前から喫煙が禁止されており、張り込みに使用する覆面パトカーも禁煙が厳命されているため、煙草を吸えるのがこのタイミングしかない。

 長時間にわたる張り込みの後、さらに煙草休憩につきあわせる礼ということで、口が悪くも優しい上司は、毎日こうして缶コーヒーを奢ってくれるのだ。

「こだわって淹れた本物のコーヒーを飲んだら、あまりのうまさに、もうそんなモン飲めなくなるぞ」

 からかいの混じった言葉に、俺は再び鼻で笑う。

「安いコーヒーが飲めなくなるのなら『本物のコーヒー』なんて、飲みたくもありませんね。コーヒーに限らず生活レベル全般そうですが、一回上げたら戻せなくなるに決まっているんですから、上げないで保っている方が良いに決まっていません? そうしたらずっと低いレベルで満足できるんですよ」

 籠の中の鳥は、籠の中しか知らないからこそ幸せなんだ。そんな、缶コーヒーから始まった、くだらない議論における俺の結論に、上司もいよいよ呆れ顔だ。

「お前は本当にケチくさいな。いくら刑事一年目だからって、キャリア組なんだからいい給料もらってんだろ。何なら俺より良いんじゃねぇのか?」

「いやだな。そんな、長年第一線で刑事をやってらっしゃるシンさんより、俺の方が給料いい訳ないじゃないですか」

 今後奢ってもらえなくなる気配を感じて、すかさず予防線を張る。

 警察という組織は一つの階級制度で成り立っているが、実は大きく分けて二つの人種が存在する。一つは難関の国家公務員試験を突破したキャリア組。もう一つが、地方公務員試験で採用されたノンキャリア組だ。

 俺はキャリア組。シンさんは、ノンキャリア組の中から自力で実績を積み上げ、本庁勤務にまでのし上がってきた、叩き上げの刑事だ。

 シンさんが俺の上司なのは紛れもない事実だが、おそらく給料も俺の方が良い。

 しかし、俺が金に拘る理由は、そんなところにはない。確かにお坊ちゃんお嬢ちゃんの多いキャリア組とはいえ、そこに至るまでの人生など、人様々なのだから。

 飲みきってしまった缶コーヒーの最後の一滴まで啜り、自動販売機横のゴミ箱へと歩いて行った。

 専用の丸い穴に空き缶を入れる。

 そろそろシンさんの煙草タイムも終わる頃だ。帰ったら暖かいシャワーを浴びて、さっさとベッドに潜り込もう。

 俺の中では最高に幸せな予定を組みながら、何となしに振り向いた時。ヘブンズエンジェルの側面の路地裏が視界に入った。

 その、人一人分しか通れない程の狭い路地裏に、店の勝手口から出てきた人影が見える。寒そうに首を竦め、スタジャンのポケットに両手を突っ込んだ男は、顔を上げた。

 俺と男の視線が合う。

 次の瞬間。男が踵を返し、脱兎のごとく駆け出した。

「シンさん!」

 俺が走り出したのは、男が反応してからコンマ一秒後。ガードレールを飛び越えながら声を張り上げると、声をかけられたシンさんもすぐさま状況を理解した。

「俺は回り込む。絶対に逃すな!」

「はい!」

 道路を横断し、路地裏へと飛び込む。

 先を走る被疑者との距離、七メートル程。男は俺の追走を遮るよう、その場に立てかけてあった物やゴミ箱を散乱させながら走る。

 今や俺の視界には、その男の背しか映っていなかった。障害物を飛び越え、入り組んだ路地を右へ左へと振られながらも駆け続ける。

 俺の身長は一八三センチで、それなりに筋肉はつけているが、服を着てしまえば隠れる程度。安物の黒のスーツに地味なストライプのネクタイをしめ、グレーのステンカラーコートを着ている。

 没個性なショートの黒髪に、顔立ちも目立つところがなく至って普通で、追いかけている男とは面識もない。繁華街に遊びに来ている、仕事終わりのサラリーマンとして全く違和感はなかったはずだ。

 それでも瞬時に俺のことを刑事だと見抜いた嗅覚は、さすが三年間も逃亡し続けている指名手配犯だと、褒めるべきところだろうか。

 視界の中央に男の背を捉え続けたまま路地裏を抜けると、行く手を遮るように、シンさんが車をつけた所だった。

 男は間一髪で路地裏から抜け出し、車を回り込んで避けるとなおも走る。道路を突切り、反対側の公園へと到達した時。

 俺は車のボンネットを跳び越え、公園の入り口に設置された、アーチ状の車止めを足場に跳躍した。

 そのまま全体重をかけて男の背に伸しかかる。地面へ横倒しにさせた体を抑え込むと、押しつぶされた男は、「ぐえー」という情けない声を上げていた。

「ニル・フハダだな、強盗殺人で令状が出ている。逮捕する」

 上がる息のまま、決まり文句を告げる。なおもジタバタとする男の両腕を無理やり後ろへと回させ、その両手首に手錠を嵌めた。カチカチッと錠のしまる音と、手に伝わってくる感触が達成感へと繋がる。連日にわたる張り込みのかいがあったというものだ。

「クソッ、なんでこんな所にサツがいるんだよ」

 男もまた、手錠をされてようやく諦めたらしい。観念したともとれる言葉を吐き捨てた。「お前が熱を上げている、キャバ嬢からの情報提供だよ」とは言わないでおく。

「ほら大人しく立て」

 男を引き上げていると、シンさんが到着した。労うように、ぽんぽんと背を叩かれる。

「お手柄だ、ユージ」

「うっす」

 できる上司に褒められるのもまた嬉しい。こみ上げる喜びを表情に出さないように気を引き締めたまま、道路に停めてある車の後部座席に男をぶち込んだ。

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