【WEB版】 黒幕令嬢アナスタシアは、もうあきらめない 二度目の人生は自由を掴みます
雉子鳥 幸太郎
第1話 ヴィノクール伯爵家
「アナ! アナスタシアはいるか!」
兄、カイルの声だった。
私は慌てて部屋を出て声の方へ向かった。
「……お呼びですか?」
居間に顔を出すと、カイルはシェーズ・ロングソファに足を組んで座っていた。
顔は見えない。広げた新聞の向こうから紫煙が昇っている。
「例の契約が決まった、後は任せてやるからやっておけ」
「例のって……もしかして、トリノ男爵との……」
「決まってるだろう、他に何がある」
「そ、それは先日、反対したばかりではないですか⁉」
「俺が決めた、異論は認めん」
「し、しかし、あの契約はあまりにも不利な部分が多いとあれほど……」
「黙れ!」
ようやく私を見たカイルは、汚いものでも見るように眉根を寄せた。
同じ亜麻色の髪と薄青の瞳を持って生まれたが、母に似た兄と違って私は父親似だった。
カイルは父を嫌っていた。
自分より、私の方を評価していた父が許せなかったのだと思う。
父はもう亡くなってしまったが、もしかすると、その面影を私の中に見ているのかも知れない。私を憎む理由にはならないと思うが、そう考えると、兄がなぜ、これほどまでに私を嫌うのか、少しだけ理解できるような気がした。
「いいか、トリノ男爵とは数字だけの関係ではないのだ、損をしてでも付き合っておけば、後に我が伯爵家に大きな実りをもたらす。少しばかり勉強ができるからと調子に乗るから、こんな簡単なことさえもわからんのだ!」
――目眩がした。
トリノ男爵と言えば、借金まみれで没落寸前の旧貴族派。
しかも、当家よりも下位である男爵家に取り入って、何の実りがあるというのか。
カイルには昔から、後先考えず壮語する悪癖があった。大方、酒の席でいいように男爵に煽てられ、引っ込みがつかなくなったのだろう。
散々尻拭いをしてきたが、今回ばかりは伯爵家が立ちゆかなくなるかも知れない。何せ、契約は廃坑になった金山の再開発だ。あの枯れた山から再び金が出るなんて、本気で思っているとしたら……。
ああ、我が兄ながら、自然とため息がこぼれた。
「ですがお兄様、この契約を結んでしまうと……もう、伯爵家にめぼしい資産はなくなってしまいますが、それでもいいのですか?」
「なぜそんなことになる! 管理はお前に任せてあるだろう、仮にそんなことになれば、それはお前の責任だ!」
「そんな……ならば私がトリノ男爵と話をします!」
「ならん! 女の癖に出しゃばりおって……お前は言われたことだけをしていればいいんだ!」
カイルは、癇癪を起こした子供のように声を荒げた。
駄目だ、まったく話にならない。
このままでは、グレイリノ皇国の名門と謳われたヴィノクール伯爵家は……そんな暗い想像に埋め尽くされそうになる。
「……失礼します」
「何処へいく!」
「仕事が残っておりますので」
「おい!」
呼び止めるカイルを無視して、居間を後にする。
自分の部屋に戻る途中で、母のイメルダが目の前に立ち塞がった。
若くして未亡人となった母。
桑年となった今でも、殿方からの誘いが後を絶たないらしい。
にわかに信じがたいが……この妖艶な姿を目の当たりにすると、納得せざるを得ない。スタイルも昔と変わらず、とても私と兄を産んだとは思えなかった。
「お母様、ごきげんよう」
「アナスタシア、勝手は許されませんよ」
流行の香水の匂いと共に、棘のある声が響く。
母は兄を溺愛していた。それは父が亡くなってから、さらに激しくなっていた。
「勝手とは?」
「ヴィノクール家の当主はカイルです、あの子の決めたことに口出しは無用だと言ったはず」
「……しかし、それではこの家がなくなってしまいます」
「お黙りっ! いいこと? 当主はあなたでは無くカイルです、良く覚えておきなさい」
それだけ言うと、母はさっさと居間に入って行った。
私は逃げ込むように部屋に戻り、扉を背中で押さえながら大きくため息をついた。
書斎机に積まれた書類の山。
毎日のように、カイルが作った見栄の代償が、一枚の紙切れとなって届けられる。
今の母は兄に対して盲目だ。とても頼れる状態ではない。
この請求書の山を見ても、事態を理解しようとさえしないだろう。
兄を愛するのは良い、勝手にして欲しいとさえ思う。
だが、家が無くなってからでは遅いのだ。
いったい母も兄も何を考えているのか……金は無尽蔵に湧き出るものとでも本気で思っているのかも知れない。
しかも、今は第一皇子であるウィリアム皇子と懇意にしていると聞く。
あれほど第二皇子を立てろと忠告をしたのに……。
私は請求書の束を手に取り、ざっと数字に目を通した後、
「はあ……」と、二度目のため息をついて机の上に投げ置いた。
§
グレイリノ皇国には二人の皇子がいる。
第一子のウィリアム皇子は、選民意識が高く、皇族や貴族以外を人だと思っていない。それは、平然と窘めた乳母を斬り捨て、『平民が私に語るな』と言い捨てたことからもわかる。
皇国の『黒皇子』と呼ばれるウィリアムを支持するのは、家名や血筋を重んじる旧貴族派と呼ばれる面々だ。
逆に第二子のアレン皇子は、聡明で情に厚いと噂されている。
というのも、殆ど表舞台に出てくることがないため、敢えて一歩引いているのか、それとも政治に関わりたくないのか……判断材料が少なく、人物評がいまいちハッキリしないのだ。
しかし、人間性に問題のあるウィリアム皇子に比べれば、誰であっても『白皇子』と呼ばれても不思議ではないだろう。
白皇子の支持層は、平民上がりの新興貴族達が過半数を占める。
資金力は旧貴族派を凌ぐとも言われているが……。
自室の窓から裏庭にある立派な菩提樹を見つめた。
これからは必ず新しい時代がくる――、私はそう確信していた。
新興貴族達は常に挑戦を続けている。
新たな需要を創出し、自らの力で利を手にしている者も多い。
それに対し、旧貴族派の面々は、新しい時代になど何の興味も示さない。
彼らが腐心するのは自分達の既得権益をいかにして守るか、その一点のみ。
しかし、成長の道を捨て、守りに入った旧貴族派の一部は、自らの既得権益を切り売りする状態に陥っている。
――もはや、時間の問題だ。
私は机に戻り、頭を抱えながら必死に伯爵家の生きる道を模索する。
「このままでは……」
兄に何を言われるかわからないが、トリノ男爵と話をつけるしかない。
正式な契約書を交わす前の今しか、時間は残されていないのだから。
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