第7話

「ネフェルティ、もう起きなさい」

 ──その声は、記憶の中のお母さん。


 けれど、一度だってこんなに優しい響きで呼ばれたことはなかった。

 弟のネヴィルが生まれてからは、話しかけても返事すらもらえなくなっていたのに。


 ああ……これまで全部夢だったんだ。お母さんは本当は、優しい人なんだ……


 母の胸に飛び込もうと、必死に手を伸ばす。


 ──その瞬間、ぱちりと目が醒めた。


 白い天井。清潔なシーツ。柔らかな寝間着。伸ばした自分の腕は、何もない空を切っていた。


「あれ……? ここどこ?」


 キョロキョロと辺りを見回す。自分の家とは大違い。

 ふかふかの大きな寝台に、お姫様みたいな服まで着せられている。夢から醒めたはずなのに、また夢を見ているんじゃないか?


 頬をつねってみる。痛い。夢じゃない。


 窓から差し込む光に気づき、ネルはベッドから飛び降りた。

 ひんやりした石の床が裸足に冷たい。背の低い自分じゃ窓に届かないから、鏡の前の椅子をえっちらおっちら運んで──ようやく外を覗き込む。


「わあ……! すごい、大きな街!」


 朝日に照らされてキラキラ光る湖面。オレンジ色の屋根が並び、路地沿いに放射状に広がっていく。ネルには絵本の中の景色そのものに見えた。


「お目覚めのようですね」


 数えていた煙突の煙が「六つ目!」に届く前に、不意に背後から声がした。


「ひゃっ!」


 飛び上がって振り返ると、そこに立っていたのは母よりずっと年上そうな女の人。黒いドレスに白いエプロンをつけ、背筋の伸びた雰囲気は、どう見てもただ者じゃない。


「私はあなたのお世話を仰せつかりました。メイド長のマーサと申します」


「ネフェ……ネル、です」


 危うく本当の名前を口にしそうになり、慌ててごまかす。

 けれど記憶は少しずつ蘇ってきていた。


 森で泣きながら彷徨っていたとき、あの小さな黒猫が助けてくれたこと。

「神様だから一緒に来い」と言ってくれて、嬉しかったこと。

 それから、お姫様みたいなお姉さん、騎士みたいに強そうなお姉さん……そして──


「あっ! ミミー! ミミーはどこ!?」


 ネルにとって唯一の友達は、虫や小動物だった。森で拾ったあのミミズも、大切な遊び相手。


「……あのミミズなら、外の花壇に放してあります。ヤマト様のご指示で」


 一瞬、マーサの肩がびくりと震える。何かを思い出したようにすぐに表情を引き締めると、手際よくネルの着替えを整えた。


「では参りましょう。皆様がお待ちです。食堂へ──こちらです」


 ネルの胸は期待と不安でいっぱいだった。まるで本当に、夢の続きを歩いているように。


****


「ヤマト!」


勢いよく食堂へ駆け込んできたのはネルだった。寝起きのくせに元気いっぱい、もちろんお行儀的にはアウトだが、まあ仕方ない。


後ろからは、屋敷のメイド長――マーサさんだったか――が静かに付き従っている。いかにも“訳知り顔だけど余計なことは決して口にしない”という、絵に描いたような貴族家の召し使い。あの巨大ミミズとは大違いである。


「ヤマト、ミミーはどこ?」


「アイツか? 外の花壇に捨……いや、休ませてる」

危うく本音が出かけた。


「探してくる!」


ネルは椅子を蹴飛ばさんばかりに走り出そうとするが、その腕をイザベルがそっと取った。


「ネル様、お腹は空いてませんか? ミミーは後で一緒に探しましょう?」


ああ、やっぱりイザベルは上手い。ネルはしばし迷った末、すがるような瞳で彼女を見上げてから、渋々ながら椅子に腰を下ろした。


こうして、テーブルに主要メンバーが出揃う。

この街の領主にして女伯――リリー・ラトキンス。

その姪であるイザベル・フロメイス。

山の神への生け贄候補、ネフェルティ。

そして、異世界転生した黒猫、俺――ヤマト。


テーブルについてはいないが、イザベルの背後には女騎士サリューが控えている。


『チリン』と小さなベルの音。全員の視線が集まる中、屋敷の主たるリリー伯爵がにこやかに口を開いた。


「これでお揃いですね。――では、これからのことを話し合いましょう」


やわらかな声色だが、その奥にある芯の強さは否応なく伝わってくる。昨日、突如“喋る黒猫”を前に一瞬だけ悲鳴をあげたのはご愛嬌として、やはりイザベルの叔母だけあって只者じゃない貴族の風格だ。


「俺たちは、穏やかに暮らせさえすればそれでいい……そう言ったよな?」


「ええ。穏やかな暮らし、とても素晴らしいことです。ですが――この街にかけられた呪いを解かねば、それは叶わぬでしょう」


「……呪い? この街、呪われてるのか? 一見、平和そうに見えたが」


俺が問い返したそのとき、不意にネルの様子が気になった。

彼女は豪華な朝食を前に、箸……じゃなくてフォークを持ったまま固まっている。


「……これ、食べてもいいの?」


「子どもが遠慮するものではありません。どうぞ好きなだけ召し上がりなさい」


俺が口を開くより早く、リリーが優しく告げた。

途端にネルは「おいひい、おいひい」と口いっぱいにパンを頬張る。その姿を見守るリリーの目は、まるでイザベルのものをそのまま映したように温かい。


「……あんたも、悪いやつじゃなさそうだな」


ガバガバな基準かもしれないが、俺の“好い人判定”はだいたいネルにどう接するかで決まるのだ。


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