34,少年と父

 シアンは自室で事が終わるのを待っていた。誰も見ていないというのに、椅子の上で行儀正しく座って待つシアンは、かなしいほどに良く訓練された犬のようだった。

 これで良かったのだと少年は自分に言い聞かせる。自分が心を押さえること、それが苦しむ人間が一番少ない手段なのだと。

 バン爺たちとの旅の中で心を解放していった少年は、生まれ育った場所に帰るにつれ、再び心に鎖をかけおもし・・・を乗せていた。


「……シアンくん」

 父の登場を予想していたシアンだったが、現れたのは意外にもアッシュだった。


「……叔父さん」


「何や、さびしそうな顔して」


 アッシュは窓から外を眺める。アイリス伯領を去って行くバン爺とマゼンタの姿があった。


「……きちんと、お別れ言わんでよかったんか?」


 どの口で言っているのかと思った少年は、しかし意見することなく、冷ややかな表情でアッシュから目をそらした。


「君はいっつもそうやねぇ」

 アッシュは苦笑する。

「……ねぃちゃんも、よぉそんな顔しとったわ」


 シアンはアッシュを見た。


「そおやって、嫌なもんからは顔をそらして、何でもないように取りつくろうんや。……けど、それは俺も同じことやったんかもなぁ」

 アッシュはシアンに近づいた。

「シアンくん、あのクリスタルのこと、ホンマは何か知っとるんやないの?」


「……え?」


 アッシュの瞳が怪しく光っていた。



 それからしばらくすると、バン爺たちとの話を終えたアイリス伯がシアンの部屋に入ってきた。

「……シアン」


 シアンは立ち上がる。

「……父さん」


「……ハンカチを持っているか?」


「あ……はい」

 シアンはポケットから白いハンカチを出した。


「口はそれでふいておけ」


「……え?」


 アイリス伯はシアンの顔を平手で殴った。


「とんだ手間をかけさせてくれたな」


「……すみませんでした」


 白い肌が赤くなり、口からは血が流れていたが、シアンは表情を崩さなかった。何も言わずにシアンは口をハンカチでぬぐう。


「……お前は、あの年寄りにそそのかされて私のもとから逃げ出したのだろう?」


 シアンは困惑する。何かを言いたくても、父の前では父の望むこと以外を口に出すことができなかった。そう生きてきた。


「あの年寄りとあの女に何を吹き込まれたか知らんが、言っておこう、それはすべて間違いだ。考えてみろ、私を追い落とすことに人生を捧げた姑息こそくな老人と、金目当てでお前に近づいたふしだらな淫売いんばいだ。奴らの事など信じるにあたいしない」


 これまで、父親の言葉はすべて受け入れてきたシアンだった。しかし──


「……どうした? 何を黙っている?」


「……いえ」


「いえ、じゃないだろう。お前はだまされてあいつらと一緒にいたんだろうと聞いてるんだ、答えろ」


「……。」


「……お前、まさか自分から進んでついて言ったというわけではないだろうな。なぜ奴らをかばう? 袖の下で成り上がった三流魔術師と、どんな病気を持ってるか分からんような赤の民の売春婦ばいしゅんふだぞ?」


 父に逆らう勇気はない。だが、バン爺たちを否定しないのが少年のせめてもの抵抗だった。その言葉は絶対に口にしてはならない。少年は拳をにぎりしめ、肉体の痛みと心の痛みに耐え忍ぼうとする。


「お前、気づかんか? ラピスの姿がないことに」


「……え?」


「お前が下らん騒ぎを起こしたせいで、あいつは心身を壊しまったんだぞ。見てられなかったからな、実家に帰したのだ」


継母ははうえが……。」


「まったく、大勢を巻き込みおって……。お前は自分が何をやってるのか分かってるのか? 私たちには崇高な目的があることを忘れたのか? お前は私やラピスに迷惑をかけただけではない、母を、グレイスさえも裏切ったんだぞ。グレイスがお前のためにどれだけ苦労したのか、分かってるのか?」


 その時、少年に初めて父に対して敵意が芽生えた。バン爺とマゼンタへの侮辱、さらに母を理由にされたことに。


「……母さんは違います」


「……なに?」


「母さんは……父さんに研究をやめてほしかったんです」


 平手が再びシアンの頬を打った。少年の口から血が飛び散る。


 殴っておいてからアイリス伯は訊ねる。

「何だと?」


「母さんは、父さんに危険な研究をやめてほしかったんです。でも、それを言うと父さんがぼくに暴力をふるうから……。」


 アイリス伯は再びシアンを殴った。


「お前が何を知ってるというんだ?」


「……母さんが死んだのは事故なんですか?」


「……なに?」


「……あの日の事──」



──7年前


 アイリス伯と妻のグレイスは地下室で研究を続けていた。その研究室の中央には多くの大小のクリスタルが並んでいた。家畜から生成されたクリスタルは、そのオドの総量から大豆よりも小さいものだったが、中央に鎮座ちんざするクリスタルは小ぶりのスイカほどあった。彼が自治領のマナを吸い取って精製したクリスタルだった。多くの動物実験と、環境破壊をくり返して、アイリス伯はマナやオドからクリスタルを生成する方法は確立させていた。次の課題は、そのクリスタルの力をどうやって放出するかだった。下手をすると暴走する可能性もあった。


「……容物いれものが必要だ。それも、オドを持った生物の容物。そうすれば、マナは暴走することなく、その力を発揮はっきすることができる」


 牝鶏めんどりから精製したクリスタルを犬にうめ込み、卵を産む犬を作り出すという実験には成功していた。生き物の特性を別の生き物に移し替えるという奇跡。問題としては、その犬が数週間で死んでしまったという事だった。


「私の理論は正しかった。しかし、実験に耐えられる容れ物はどう用意すれば……?」


「より大きな動物、例えば象のような生き物がいれば……。」


「象などにクリスタルを入れてどうする? 私がやっているのは家畜の研究ではない。乳がしぼれる象でも作るのか?」


 グレイスは何も言わず、申し訳なさそうにほほ笑んだ。自分の意見が否定されることは本人にも分かっていた。夫が求めているのは意見する女ではないことは知っている。仮に求められた場合には、取るに足らないことを言ってお茶をにごすすのが最善なのだ。


「やはり、オドの弱い家畜ではダメなんだ。……グレイス、シアンはいくつになった?」


「……え?」


「シアンはいくつになったと訊いてるんだ?」


「……今年で5歳になります」


「……まだ、5歳か」


「……あの、どういう意味で?」


「喜べグレイス。もう少し大きくなれば、才能のないあいつに、私達は世界最強の力を与えてやることができる……。」


「……あの子に……研究を手伝わせるという事ですか?」


 実験台にするつもりなのかとは言えなかった。


「手伝いではない、あいつには最高の栄誉えいよを与えると言っているのだ。私の悲願の集大成としてな」


 それは、自分の考えにいっさいの疑問を持たない男の顔だった。



 その夜、グレイスは王都に手紙をしたためた。夫が敵視するバーガンディ・ローゼスへの書簡しょかんだった。世の中にうといい彼女でも、1級魔術師であるバーガンディの名は聞いた事があったからだ。グレイスはその書簡を翌朝に使い烏の足にくくりつけ王都に飛ばした。

 そしてアイリス伯の予定を執事から聞き出し、夫が所用で領外に出る、数少ない時を待ち続けた。


 決行の日──


「お母さん、どうしてお出かけの用意するの?」

 物心がついたばかりのシアンは、母の様子がおかしいことに気づいた。少年が見る初めての長旅の準備だった。


「……お父様の所に行くのよ。忘れ物をしてしまったみたいだから、届けてあげるの」


「……ふぅん」


「それと……。」


 グレイスはバーガンディへの手紙に記していた、禁呪法の研究の証拠を持ち出そうと地下室へ降りていった。

 研究によって安定しているため、持ち出している最中にクリスタルが暴発するという事はないだろう。グレイスは一番小さなクリスタルと、研究過程が記されているノートをかばんに入れた。


「……これで十分かしら」


「……何が十分なんだ?」


 思わずグレイスは悲鳴を上げた。研究室の入り口にはアイリス伯が立っていた。

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