第45話 引き金の真実が今
『今までとても楽しゅうございました。でも、今日でお別れです、綾姫。わたくしのことはお忘れになって』
さらさらの長い髪、楚々とした薄い唇。
『え……? そんな急に、冗談でしょう?』
戸惑っておずおずと笑う綾を見返した、涼やかな目元、寂しそうな横顔。
『もうただ早く、皆さまの前から姿を消したいんですの……特に、あなたの前から』
『――どうして?!』
『理由は、言えませぬの。……言ったら、あなたを傷つけてしまうことでしょう……』
「それで、私はこの丘の麓まで来て……死のうとして、死に損なった」
中一の末、桜の花のほころびる頃のことだった。
別れを告げた翌日から美耶姫は本当に姿を消し、生涯最初の強烈な別れに、綾は呆然として、苑をさまよっていた。
かすんだような空、寒々しい苑のはずれ、スプリング・ヒルの麓近くで、軽い車輪の音を聞いた。桜の花の枝の下で、初めて聖蓮と顔を合わせ、その大きな瞳に魅入られた。
「よく……覚えていません……。気持ちがままならなくなって、もう、哀しみでいっぱいで……」
それまでどうにか水平に保たれていた心の天秤が、聖蓮の瞳を見たとたん、一気に傾き、綾の手が、ほとんど自動的に動いた。
「そのときも早くに発見されて、助かったのです……そして、美耶姫のことをすっかり記憶から追い出していた私を、心配した父と母と学院長様が、誰も私を知らず、美耶姫のことも噂にしない、東の苑へ、転籍させた……」
「そしてわずか二年余り後、似たようなことが、私との間にも起こったというわけだな。なるほど、道理であのとき……高等部二年の一介の学生ふぜいのところまで、学院長が転苑を勧めにきたわけだ。納得いった」
「そうだったのですか?」
「ああ。転籍は、私にとっても、渡りに船だったがな……」
つぶやくエマ。
「それを自ら認めるには、たいそう時間がかかった。そなたに別れを宣告したときの自らの逃げについても、弱かったのだと認識し、実力上仕方がなかったと高二だった自分を許せるようになるまで、ずいぶん苦しんだ……。一年、かかったな」
フッと、笑った。
再び綾の顔を見ようと思えるまでに、エマもまた、相当の旅をしてきていたのだ。
綾は、呆然とした。
一年をかけて、こんな成長のしかたも、あるのか。以前だって強大で、決して越えられない存在に思えたのに。
「いろいろと、すまなかったな。――わたしはそれを、伝えにきた」
ああ、やられたわ、と、綾は感じた。妙にさっぱりとした、晴れ晴れとした気持ちで思った。
「ありがとう、お姉様。私は、幸せ者ですわ」
エマが苦笑する。
「ときに、アヤ。学院長の娘を見るのは、それほどに怖いか?」
綾は、身をこわばらせて、押し黙った。
「あの……それは……」
正直言って、とても怖い。
心の中まで覗き込まれる、大きな瞳。
思うだけで、激しい感情に飲まれそうになる。
震えて、車椅子の少女に背を向けたままでいる下級生から目をそらし、エマは言った。
「そなたもそうか、広慈宮沙記」
「いいえ? 怖くなんてありませんよ。綾様、ホラ」
沙記は綾の腕をとった。しっかりと体温が伝わるように手をつないで、石畳の方へ振り向く。
屈託のない沙記の笑顔に、生け垣の影から、塔の姫君の瞳が微笑み返していた。
綾の怯えた目を見ると、彼女も怯えた瞳になる。
「あ、だめですよ、綾様、彼女に警戒させちゃ」
「え――?」
エマが、感心して言った。
「さすが、健やかなる者よ。――そなたのような者がアヤの近くにおって、心強く思うぞ」
エマが満面の笑みを浮かべるので、塔の少女の碧い瞳も、この上なく輝いて笑みほころんだ。
「そう……なのね……」
この童女の瞳の表情は、人の感情を読みとって、増幅するように揺らぐのだ。
笑顔にはより大きな笑顔を反射し、悲痛にはより大きな悲痛を反射する。
「あなたが悪いわけじゃなかったのですね……塔の姫様……」
綾はつぶやいた。泣かないように務めた。
泣き笑いになってしまうが、どうにかして、笑顔を向ける。
童女はこれ以上にないほど繊細で複雑な、深く、ずっしりくるような微笑を浮かべた。
――ザパァァァァァァア!!
大きな音をたてて、突如、彼女の背後の石造りの長方形の池から、白濁する水の壁が高く沸き上がった。
「ヤバいっ!! 六時だ!!」
沙記が叫ぶ。毎正時に噴水があがるのは、学院中どこの池でも一緒だった。
エマが痛快そうに哄笑した。
「今さら慌ててどうする!! もう間に合わぬ!! わたしの勝ちだ!!」
――
この物語はフィクションであり、実在の団体・個人・事件とは一切関係ありません
また、この物語は自殺・自傷を推奨するものではありません
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