第48話 おかずはもちろん卵焼き

 頭が重い。キイと一日中べったりと過ごした翌日は、いつも通り仕事に行かなければいけないというのに。ベッドから体を起こそうとすれば、一糸まとわぬキイにしがみつかれたまま身動きが取れなかった。


「……キイ、起きて。もう起きないと仕事に遅れちゃう」

 キイは僕の肩のあたりにぐりぐりとおでこをこすり付ける。一応目を覚ましてはいるんだろうけど、寝起きは悪そうだ。


「んっ」

 目をつぶったまま甘えた声を出す。相変わらずキイは僕のことを離してくれそうにない。


「頼むよ、キイ。なるべく早く帰ってくるからさ」

「……わかったよ、ご主人。今日はキイが晩ごはん作って待ってるからね。楽しみにしてて」

 ふにゃりと眠たげにほほ笑んだキイの頭をなでてから、僕はまずシャワーを浴びることにした。

 風呂場に行って、自分の体を見るとあちこちに噛み痕が残っている。服で隠れる場所だったのはせめてもの救いだった。もしかしてキイはそこまで考えて噛み痕をつけたのだろうか。

 身支度を終えて玄関を出ようとしたら、キイがタオルケットだけを身にまといながらとてとてと追いかけきた。


「ごしゅじん、いってきます、のチュウがまだだよ」

 じっと僕を見つめるキイに逆らうことができず、ほっぺたにキスをしようとしたのだけれど。キイに顔を両手で押さえつけられ、強引に唇を押し付けられてしまった。


「んっ……行ってらっしゃい、ごしゅじんっ」

 はだけたタオルケットも気にせず、手を振るキイに見送られながら僕は会社へと向かった。

 疲労の抜けきらない体を引きずって、何とか自分のデスクにたどり着く。椅子に座るとすぐに隣から視線を感じた。後輩の烏丸からすまさんが僕の方をじっと見つめている。


「あ、あの、先輩……。大丈夫ですか。なんだか、少し、顔色がよくなさそうに見えます」

 自分でも体調がそれほどよくない自覚はあったけれど、どうやら顔に出ていてしまったらしい。赤羽さんと、それからキイと。ふたり続けて相手にするのは、体力的にも精神的にも消耗が激しかったから。


「大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」

「キイちゃんのこと、ですか」

 核心を突かれた気がして一瞬言葉に詰まる。まさか感づかれたのだろうか。キイに付けられた噛み痕はすべて服で隠れているし、今朝はちゃんとシャワーだって浴びているのに。


「あ、あの、つらい時はいつでも頼ってくださいね。じゃないと先輩、いつか倒れちゃいますよ。仕事もして、キイちゃんのお世話もして、大変でしょうし」

「ああ、最近はそうでもないんだよ。キイはもう自分で簡単な料理なら作れるし、留守番も安心して任せられるからね」

 どうやら烏丸さんは僕がキイの世話で疲れていると思っていたらしい。内心ほっとした。今のキイはまだ少女だ。キイとそんな《・・・》関係にあったなんて悟られたら、おそらく会社で僕の居場所はなくなってしまう。

 自販機で買ったコーヒーをすすりながら業務に取り掛かる。いつも飲んでいるやつなのに、今日のコーヒーはやけに苦い。それでもカフェインのおかげで、なんとか午前の業務は乗り切ることができた。

 昼休みになり、何か食べに行こうと思った時だった。部長に声をかけられた。


「エントランスに女の子がいるって話を聞いてな。真っ黄色な髪色の女の子だそうだ」

「まさかっ。そんな、なんでキイが」

 慌ててスマホを確認する。キイからメッセージや着信はない。何かあった時のために職場の名前と連絡先は教えていたけれど、連れてきたことなんて一度もなかったのに。

 住所を自分で調べて、自力でたどり着いたということか。キイにはスマホを持たせてあるし、やろうと思えばそれほど難しくはないだろう。

 もしかしたら、たまたまキイと同じイエローの髪色なだけで、別人かもしれない。そんな可能性は限りなくゼロに近いけれど。とにかく、キイが何をしに来たのかを確認しないといけない。


「せ、せんぱいっ」

 エントランスに向かおうとすると烏丸さんに呼び止められた。


「大丈夫ですかっ。やっぱり、なんだか顔色よくないですよ」

「別に大したことないよ。でも、とりあえず行かないと」

 烏丸さんはこちらを心配そうな表情で見つめると、エントランスへと向かう僕の後ろについてきた。背中になんとなく視線を感じる。そこまで心配されるほど、自分の顔色はひどいのだろうか。

 エントランスに着くと、レモンイエローの目立つ髪色をすぐに見つけることができた。キイは僕に気づくとこちらに駆け寄ってくる。手には小さなバッグのようなものを持っていた。確かあれは、だいぶ前に買った弁当箱に付いてきた保温機能付きのバッグじゃないだろうか。


「ご主人、あのね、お弁当持ってきたのっ」

 弁当箱を僕に渡そうとしたキイは、後ろに烏丸さんがいることに気づくと険しい顔つきになった。何となくキイの考えることはわかってしまう。その女は誰なの、とでも言いたげな表情だった。


「キイ、この人は僕と同じ部署の烏丸さん。まだキイが憐人になったばかりの頃に、買い物を手伝ってくれたりしたんだよ」

 キイの敵意に満ちた表情がやわらいだ。まだキイが憐人になったばかりの頃、烏丸さんに助けてもらったことは前にキイにも話したことがある。その時、キイはいつか烏丸さんにお礼がしたい、と言っていた。


「お姉さん、ありがとう。それから……主人がお世話になっています」

 ぺこり、とキイは頭を下げる。なぜか『ご主人』ではなく『主人』と言っていた。下手をすれば誤解されかねないような言い方は、できればやめて欲しい。


「お姉さんは、ご主人のただの後輩さん、っていうことでいいんだよね?」

 キイの突き刺すような視線に烏丸さんがたじろいだ。とりあえず、後で烏丸さんには謝っておかないと。あと、いきなり職場に来ないようキイにもきちんと話しておかないといけない。ちゃんと納得してくれればいいのだけれど。

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