第38話 僕はまだ彼女のすべてを知らない
キイに噛みつかれた場所が肩だったのは、まだ不幸中の幸いだったといえる。仕事は基本的にデスクワークだから職場で着替えるようなことはないし、他人に見られる心配はまずない。これが首とかだったら危なかった。とはいえ、くっきりと付いた歯形はすぐには消えないだろう。
傷跡がしみるのを我慢しながらシャワーを浴び終える。浴室からワンルームの部屋に戻ると、キイがベッドでうずくまっているのが見えた。
「……ご主人」
キイは泣きそうな顔で僕を見上げた
「ごめんなさい、どうしてもガマンできなかったの。ご主人がユキちゃんに取られちゃうかも、って思ったらもうダメだった。頭が真っ白になって、何も考えられなくなって、体が勝手に動いてたの」
のそりとキイがベッドから起き上がり、僕の着ているスウェットの上を脱がそうとする。
「ちょっと、何してるの!」
さすがに抵抗した。いくら同じ屋根の下で暮らしているとはいえ、いきなり服を脱がせるのは度が過ぎている。
「肩のところを見るだけだよ。傷になってるでしょ」
必死な顔のキイを見ていると突き放すわけにもいかず、結局そのままスウェットを脱がされてしまった。噛み痕から血は出ていなかったけれど、キイの歯形がくっきりと赤く残っている。まるでキイの僕に対する執着が形になって残っているような、そんな気がした。キイは僕の肩の歯形をそっと指でなでる。
「ごめんね、痛かったよね、ご主人。でもキイも苦しかったの。それはわかっててほしいな」
傷跡をなでながらキイはほほ笑んだ。僕は抵抗することもせず、黙ってキイの好きなようにさせた。だって、下手をすればキイはきっと他の『形に残るモノ』を欲しがるかもしれない。もうキイだって子供じゃない。卵だって産める体だ。
「キイ、大丈夫だよ。僕はキイから絶対に離れたりしない」
うん、とキイは満足そうにうなずいた。それから僕の胸にぐりぐりと頭を押し付けてくる。そういえば、まだキイがインコだったころ、指を思い切りくちばしで噛まれたことがある。小さなインコでも噛まれればかなり痛かったし、跡が残ったのを覚えている。
さっきキイが噛みついた時は、きっと無意識のうちに手加減していたはずだ。もしキイが本気で僕に噛みついたとしたら、きっとインコの時とは比べ物にならない怪我を負っていたに違いない。
電気を消して、キイとふたりベッドに潜り込む。僕のスウェットをがじがじと甘噛みをしてくるキイの頭をなでながら、目を閉じて、ふと思い出した。
そういえば明日は
今それを教えたらキイがどんな反応をするのか、正直なところ怖かった。
翌日。
今日は土曜日で僕は仕事が休みだけれど、赤羽さんは出勤だ。彼女は市役所勤務で基本土日は休みだけれど、たまに当番に当たった時は土日でも出勤することがあるらしい。そういえば婚姻届などは土日祝日でも出せると聞いたことがあるから、きっと交代で出勤して対応しているんだろう。
キイと朝ごはんが食べ終わり、紅茶を飲んでくつろいでいるとチャイムが鳴った。インターホンの画面には小さく手を振るユキちゃんが映っている。てっきりキイがドアの鍵を開けに行ってくれると思ったけれど、キイは立ち上がろうとしない。仕方がないので僕が行くことにした。
「……おはようございます、お兄さん。ごめんなさい、来るの早すぎちゃって」
時計はもうすぐ朝の9時になるところだ。まあ早いといえば早いけど、そこまで気にするほどでもない。
部屋に入ると、ユキちゃんはまるで定位置であるかのように僕の膝の上に座ってきた。とっさにキイの表情を伺う。
――なんでご主人はユキちゃんをのっけてるの? なんでユキちゃんはご主人の上に座ってるの? ねぇなんで? なんで?
キイの恨みがましい表情がそう物語っているような気がした。ぎりり、と噛みしめたキイの歯から嫌な音が聞こえてくる。
それに対してユキちゃんは何も気付いていないのか、スマホを取り出してゲームを始めていた。この前やっていた、競走馬から憐人になった子たちがレースをするゲームだ。僕の方は気が気じゃない。キイのヤキモチがいつ爆発するかわからないからだ。
「見てお兄さん、この子はホクトベガっていうの。この子のお話もすっごく好き。海外で大きなケガをしちゃうんだけど、あきらめずにがんばってまたレースに戻ってくるの」
ユキちゃんは楽しそうに僕にスマホを見せてくる。視界の端ではキイがあいかわらずこちらを睨んでいるのが見えたけれど、まさかユキちゃんを放り出すわけにもいかず、どうすることもできなかった。きりきりと胃が痛くなる。
「それでね、このホクトベガって子はとってもダートが強くて『砂の女王』って呼ばれてて――けほっ、けほっ」
急にユキちゃんがせきこんだ。乾いた咳を繰り返し、少し苦しそうに見える。
「けほっ、けほっ、ごめんねお兄さん。カゼとかじゃないから、うつる心配はないからっ」
風邪じゃない、ということは何かの病気なんだろうか。深く突っ込んて聞くこともできず、僕はそっと背中をさすってあげることしかできなかった。そのおかげかはわからないけれど、ユキちゃんの表情はいくらか楽になったようだ。
ふと、視線を感じてキイの方に顔を向ける。キイは僕に介抱されているユキちゃんをじっと見つめていた。みるみる表情が険しくなり、今にも爆発しそうなのが嫌でもわかってしまう。
「ずるいよ、ユキちゃんばっかり……!」
立ち上がったキイは僕の前を通り過ぎ、早足で玄関の方へと向かった。追いかけたかったけれど、ユキちゃんを膝の上にのっけているので立ち上がることができなかった。
「キイ、どこに行くのっ」
「コンビニっ!」
怒ったように返事をしたかと思うと、キイは玄関から出て行ってしまった。もうひとりで買い物はできるから、日中に近所へ出かけるくらいならそれほど心配はないのだけれど。
「やっと、ふたりきりになれましたね、お兄さん」
くすくすと笑いながら、ユキちゃんの赤い瞳が僕を見上げてくる。その表情はどこか僕の心をざわつかせるような、まだ幼い彼女には似つかわしくない雰囲気を漂わせていた。
さっきの咳といい、この微笑みといい。生半可な覚悟でユキちゃんのことを背負ってはいけないような、そんな気がした。
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