最終章 舂訪の流星群
1
一段また一段と石段を上る僕は、いつもと違い少し緊張気味だった。このまま踵を返して帰りたい。そう思うほどにはどこか憂鬱だ。
でも依然と足は一段更に一段と上へ。
そしてあっという間に石段を上り切った僕は、そのままあの場所へと足を進めた。
欄干と向こうに広がる雲と夕日が生み出す芸術的な夕焼け空。どこからか夕飯の良い匂いが漂ってきそうな雰囲気が僕を包み込む。
「今日は忘れてる事ないよね?」
すると横から陽咲が揶揄うように声を掛けてきた。
「大丈夫」
彼女へ体を向けながら僕は微笑みと共に静かに答えた。
「じゃあ昨日の話の続き聞かせてもらおっかなー」
まずはいつものように話から。もしくは少しでも先延ばしにしたいだけなのかもしれない。
だから僕はあのお見合いの話をした。出て来た料理や話した事、怜奈さんの雰囲気。そして彼女にどこか似てるような気がした事。ある程度の事は話した。
それを楽しそうに聞く陽咲。きっとその胸の内では期待を膨らませているのだろう。
「おぉー! 結構いい感じじゃん! それで? どうだったの?」
「まぁ。これまでの人達の中では一番良かったかな」
「おぉ! ということは?」
期待に満ちた声と共に前のめりになった気持ちが顔を少しだけ僕へ近づける。
でも僕はそんな彼女から逃げるように答えた。
「でもまぁこれまでと同じかな」
「そっかぁ」
溜息交じりのガッカリとした声。狐面も俯く。
「んー。そっかぁ……」
辛うじて聞こえるぐらいの声で呟くと俯いていた狐面が僕を見上げる。
「でもどう?」
「どうって?」
「新しい人。この人って人はまだだけどさ。やっぱり誰かと一緒っていいものでしょ? だから少しはその気になったかなって」
「まぁ言いたい事は分かるけど。でも誰かと一緒って言うなら友達とかも居るし」
「そーじゃないじゃん。好きになった人と一緒にって言う意味。君には必要だよ。だって平気そうにして変に抱え込んじゃうとこあるし」
「そんな事ないよ」
「最初は嫌でも、君の為なんだから。きっとその誰かと幸せになれたら分かるよ」
共感も出来ず何て返していいかも分からなかった僕は、目を逸らすと軽く肩を竦めて見せた。
そして僕らは気まずさのような何とも言えず、どう破っていいかも分からないような沈黙に包み込まれた。お互いに黙ったまま手持ち無沙汰で視線もいったりきたり。
「さて! どーしたものかなー」
するとそんな空気を無理矢理変えようと陽咲は少し大袈裟に言うと欄干へと両手を着けた。
「んー。――じゃあさ。少しでもいいって思った人と何回かデートしてみるっていうのは?」
僕の方へ顔を向け立てた人差し指と共に思い付いた提案を口にする陽咲。
「でも結局はダメなんだし、その人の時間も無駄になっちゃうわけじゃん」
「そんなの分かんないじゃん」
「分かるよ」
そう言いながら僕は思い出していた。彼女達と食事をした後、感じていた君という存在を。やっぱり人間は良いモノを味わえば味わう程、より敏感に物足りなさを感じてしまうらしい。
もしかしたら僕は、人生で最高の相手を味わってしまったのかもしれない。
「んー」
これ以上は意味ないとでも思ったのか、陽咲は顔を夕空へと戻すとまた唸るような声を出した。
「でも君の友達が選んでくれてる訳だし、相性的には結構いいはずなんだけどね」
そう言って陽咲は夕空を眺めリズムを取りながら指で欄干を叩いていた。特に音が鳴る訳じゃないから代わりに辺りへ響く静寂。
「あっ」
すると突然、声を上げた陽咲は僕を見遣る。
「私とその人達を比べちゃダメだよ? 言っちゃえば私ってもう過去の女? 元カノみたいなもんじゃん。だから比べるのって違うと思うんだよね」
そろそろ言わないと……。
彼女の言葉を殆ど右から左へ聞き流しながら僕はそう焦るように思っていた。
「ほら、やっぱり直接言われなくても前の人と比べられるのって嫌じゃん」
例えこの先、一人ぼっちで生きるとしても――僕は君以外を愛する事は出来ないのかもしれない。
「ん? どうした?」
皮肉にも新しい人を見つけさせようとした君の行動が、僕に気付かせてしまった。如何に君を愛し、君に囚われてるかを。
そして例えどんな状況であっても一緒に居る事を選んだはずなのに。一緒に居る事で少しでもあの苦しみから逃れようと思っていたはずなのに……。
皮肉にも今は陽咲が傍にいるが故に苦しさが生まれては胸を絞めつけていた。
「大丈夫?」
これまでの彼女達を思い出す。楽し気で緊張を堪えながらもデートに誘ってくれたり――やっぱり相手にも悪いし。
これまで無理矢理やり過ごしてきた苦しみを思い出す。余りにも苦しくて辛い、君を求める気持ち――僕も耐えられそうにない。
「――その事なんだけどさ」
「その事?」
「新しい人」
「そっちね。比べるって話じゃなくて。うん。どうしたの?」
「実はもう……。必要ないかなって」
「えっ! っていうことは……」
さっきと同じ弾んだ口調。僕が何か良い報告でもすると思ってるらしい。本当は真逆なのに。
でも沈黙の中、煌めいているようにも感じる狐の双眸は言葉の続きを今か今かと待ちわびている。
「やっぱり僕には無理だと思う――新しい人は」
一瞬にして煌めきは消えたが、特段ガッカリした様子はない。
「そんな事ないよ。今はまだそう思ってるかもしれないけど――」
「分かったんだよ。これまで何人かと会ってみて」
僕は陽咲の言葉を遮ってそう言った。
「分かったって? 何が?」
「比べてるとか、そんなんじゃなくて。――僕には君以外いないんだって」
何も言わぬままそっと陽咲は顔を逸らした。
「君が思ってる以上に、僕は君を愛してしまってるって」
その小さな自分の声が消えても、僕はただ陽咲からの返事を待つしかなかった。僕の言葉を聞いて何を思い、何を考えてるのかは分からない。もしかしたらいつものように受け流すような感じで話を戻すのか。それともすんなりと受け入れてくれるのか。
想像の域を出ない事を考えてただ待つしかない。
「そんなに嫌?」
すると陽咲は一言そう尋ねてきた。
僕はハッキリとは分からない質問にまずは訊き返す。
「何が?」
「違う誰かを探すのって」
微かに何度も頷きながら僕は答えを口にした。
「最初も言ったけど、乗り気じゃないよ。だって僕の想いはずっと変わらない。今でも君だけがここにいる」
そう言って胸へと手をやった。目の前にいる陽咲を見ていると――彼女を思い出すと心臓からは別の鼓動が伝わってくる。
「誰にも代われないし、誰も埋められない。もし無理矢理にでも誰かと一緒になっても、心にはずっと君がいる」
「じゃあずっとそのまま生きていくの? 残りの何十年もずっとそのまま……」
一瞬、少しだけ口調が強くなったのはその微かに泣き出しそうな声を堪えようとしたからなんだろうか。
「そんなの分かんないよ。でも今はそーゆうのは考えられない。こんな事言いながらも十年後とかには誰かと一緒にいるかもしれないし。二十年経っても一人かも。先の事なんて確実には言えない。――けど、今はそう思う。これから先、僕は一人なのかも……」
「君は私の事、本当に大切にしてくれてたから分かるんだ。辛いでしょ? 私は君に辛い思いはしてほしくない。ましてや私の事でなんて……。確かに私でも君がいなくなった穴を誰かでなんか埋められない。――でも例え隙間だらけだったとしても少しは埋められると思うし、それか目を逸らして別の幸せを見つけてよ。たまに、あぁこんな穴あったなって思うぐらいでいいじゃん。きっとその時は君がその穴に落ちないように新しい誰かが支えてくれるよ」
僕は知ってる。
その穴の深さも。
その穴がどれだけ黯然としてるのかも。
その穴に詰まった辛苦も。
「そうかもしれないけど。――でも言うほど簡単じゃないんだよ」
君には分からないかもしれないけど、そんな思いが一瞬でも無かったと言えば嘘になる。だけど嫌味っぽく言葉にする程でもないのは確かだ。
「別に簡単だなんて思ってないよ。だからこうして一緒に……」
「その気持ちは嬉しいよ。でもやっぱり無理なんだ。今の僕には」
「まだ分かんないでしょ?」
少しだけ陽咲の口調が変わった。
「だって肝心な君が乗り気じゃないんじゃ。そうでしょ?」
「君には分からないよ」
そして僕も。お互いにどこか溜息交じりで、どこか投げやり。
「じゃあ教えてよ?」
言葉ではそう言ってたけど、それはどちらかと言えば「違うなら何が正解か言ってみて」っていう挑発的な感じだった。
だから僕は何も言わなかった。
「別に私は君を苦しめたくてこんな事してるんじゃないのに。ただ君の幸せを願ってるだけ。だから少しでも手助けしたいだけなのに。……なのに肝心の君は全然そうじゃないじゃん。私は君の為を思って。これからの君が少しでも辛い思いしないようにって。だけど君はそうじゃないんだね」
悲し気な声が最後にそう呟いた。
でも違う。やっぱり君は分かってないんだ。
「――君の方こそ分かってないよ。私の気持ちも。どれだけ私を思ってくれたとしても、どれだけ私を求めてくれたとしても。もう私はいないってことも」
違う。じゃあなんで……。
「これが最後なんだよ? 私が君の為に何かをしてあげられるのは。辛いのは分かるけど、でもそれは乗り越えないと。私だって辛いよ。君と離れ離れになっちゃうのは。だけど仕方ないじゃん。どうしようも出来ない事だし。だから最後ぐらいは、せめて君の為に――」
「じゃあ何で僕の前に現れたんだよ!」
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