5

 若者やサラリーマン、そうじゃない人達。駅前はいつも通り絶えず喧騒が充満していた。

 そんな辺りの賑やかささえ掻き消してしまう程に脈打つ心臓。その音だけはやけによく聞こえた。一瞬、自分が何をしてるのか分からなくなる。今すぐにでも家に帰って、お風呂に入ってソファに体を沈めたい。そんな気持ちが溢れ出す。

 でもそうはいかない。


「あの」


 するとその喧騒を背景に心音をすり抜けた声が僕の耳へと入り込んできた。スーツ姿の僕はその声のした方を見遣る。

 そこには女性が一人立っていた。スーツ姿ではなかったが小綺麗な服装は私服と言うにはどこかキッチリとしている。


「旭川蒼汰さんですか?」


 女性はほんのり暗めの桃色がかった唇でそう柔らかに訪ねて来た。一目見て目の前の女性が誰かに気が付いた僕の胸では、これ以上があるのかと思うほどに心臓が激しさを増す。


「あっ……はい。――北沢結さんですよね?」

「はい。初めまして」


 自分よりも落ち着いているように見える北沢さんは軽く頭を下げた。


「初めまして」


 遅れて僕も返す。


「それじゃあ、とりあえず行きましょうか」

「そうですね」


 いつぶりだろうか。こうして女性と食事へと出掛けるのも、こんなに緊張するのも。僕は脳裏で会社の面接も初出勤もすっ飛ばし、陽咲と改めて会った日と初デートの日を思い出していた。それ以前はもう大学生の頃だ。同じゼミの子に誘われてご飯を食べた時。駅から互いに無言で気まずい沈黙の中を歩くこと数分。僕らは予定していたお店へ着いた。そこは少し高そうなお店。ではなく翔琉とかと仕事終わりに行くような居酒屋。彩夏が「高いお店で変に緊張するよりこういう居酒屋の方が気楽でしょ」という事で北沢さんにも提案してくれたらしい。少なくとも僕にとってはありがたい気遣いだ。

 お店に入り、席へと案内されると僕らはまず飲み物を注文。たまに店員さんが注文を取るお店もあるけど、僕的にはこのタブレットで注文する方が気楽でありがたい。


「僕はえーっと」

「普段はお酒呑まれますか?」


 それは丁度お酒にしようかソフトドリンクにしようかと迷っていた時だった。初めて会う訳だからアルコールは無い方が安心できるかなと色々考えてしまっていた。

 でもそんな質問に僕は当然ながら素直に答える。


「はい」

「それじゃあ、気にせずお酒でも大丈夫ですからね」

「ありがとうございます」


 気を遣ってくれて、少しでも緊張を和らげさせてくれて。そのお礼には二つの意味を込めた所為かいつもより感謝の量が多い気がした。


「それじゃあ、生でも呑もうかな」

「私も同じのお願いします」


 半ば独り言気味に呟き生ビールを押した僕は、北沢さんの言葉にもう一押し。一度注文してからその後に食べ物の欄を開いた。


「何か食べたいのありますか?」

「そーですね……」


 うーん、と画面を見つめる北沢さん。


「定番の唐揚げとか、あとだし巻き食べたいです。居酒屋来ると毎回頼むんですよね」

「分かります。美味しいですよね。会社の人と呑みに行った時とか先輩が毎回頼むんで頼む必要ないんですけど、もっと食べたくて追加で頼んじゃう時ありますもん」

「たまにチーズ入りとかもあってそれも美味しいんですよね! 普通のと一緒にアレンジもついつい頼んじゃいます」

「ここにもあるみたいですよ。ほうれん草のチーズと紅生姜」

「ほんとですか! じゃあ普通のと、えーっと」


 モニターを見つめながらどっちにしようか悩む北沢さんを見ているとこう提案してあげたくなった。


「三つ頼んじゃいます?」

「いいんですか?」

「もちろんいいですよ。僕もだし巻き卵好きですし」

「じゃあお願いします」


 刺身五種盛り、牛筋煮込み、トマトスライス……。

 それから空腹の所為かつい色々と頼んだ僕らは注文をし丁度、やってきたビールで乾杯をした。代わりに改めて挨拶をしたジョッキを口へと運び、冷えたビールを一口。いつもより声は抑えながらもその喉越しと爽快感に思わず目を瞑った。そして目を開け改めて北沢さんを見ることで自分の現状を思い出す。


「そう言えば北沢さんも仕事終わりですよね?」


 彩夏から聞いたことだけど、確か北沢さんの会社は私服出勤らしい。だから私服で来ても別にわざわざ家に帰って着替えた訳じゃないよ、と言っていたっけ。


「はい。そうですよ」


 そう答えながら小首を傾げる。


「いや、勝手なイメージですけどもっとラフな感じの恰好してるのかなって思っちゃってたんで……」


 何故そんな事を訊くのか? そう言うような北沢さんに僕は半ば謝るように説明をした。


「あぁ。いつもはそうですけど、今日はちょっと別の会社の人と会う予定があったので」


 微かに頷きながら少しだけ恥ずかしそうに説明をしてくれた。


「彩夏にも言われたので、本当はいつも通りで来ようと思ったんですけど……」


 丁度良かったから。勝手ながら続きの言葉が聞こえてしまった。どこか申し訳なさそうにする北沢さんに対し僕は、訊かなかった方が良かったのかと若干の後悔をしていた。


「いえ、他の会社の事を知らないのでスーツじゃなくてもいいけどやっぱりある程度の恰好はした方がいいのかなぁーなんて思っちゃっただけで……」

「いえいえ! そんな事は無いですよ。みんな本当にラフな格好で仕事してますよ」

「そうなんですね」

「でも私、スーツ姿ってちょっと好きなんですよね。普段、周りの男性もラフな格好だからっていうのもあるのかもしれないですけど、こう――引き締まって凛としてる感じがしてカッコいいですよね。旭川さんも良く似合って素敵です」


 北沢さんはそっと僕へ手を向けながら微笑みを浮かべていた。突然そんな事を言われ僕は面映ゆさにどうしていいか分からなくなってた。


「あ、ありがとうございます」


 手持ち無沙汰のような気持ちのまま兎に角お礼を言う。


「でも、僕の会社でもそろそろ私服でも良くなるみたいですけどね」


 そう言った直後に僕は一人、こんなどうでもいい事を言わないで彼女の方こそ素敵な服装をしているのだからそこを褒めれば良かった、と自分に溜息を零していた。


「えー! そうなんですか? 少し残念です」

「だけど、少なくとも僕の周りはみんな引き続きスーツを着るみたいですよ。僕もそうなんですけど結局、学生時代と同じで毎朝着る服が決まってるっていうのが何だかんだ楽なんですよね」

「あぁ。分かります。それ。――ちなみに制服って学ランでした? それともブレザーでした?」

「えーっと。ブレザーでしたね。北沢さんはどうでした?」

「私もブレザーでした」


 そこからは齢も違えば出身も違うにも関わらず、意外にも中高時代の話で盛り上がった。こういう状況が久しぶりで緊張してた部分を差し引けば北沢さんは雰囲気も実際の感じも話し易く、いつの間にか自然と言葉が溢れ出していた。もちろん最初より体を駆け巡るアルコールの影響も少なくないとは思うけど。それでも北沢さんとの食事はまるで彩夏達と呑んでいるかのように楽しいものになっていた。

 でも僕らには共通の話題があり学生時代が落ち着くと、自然にそこへと舵は切られていく。


「そう言えば旭川さんって彩夏から聞いたんですけど、ミディークルムお好きなんですよね?」

「はい。そうなんですよ。北沢さんもなんですよね?」

「はい。よく聴いてます」

「僕、最近、久しぶりに『夜空の舞踏会』聴いたんですけど、やっぱりどの曲もいつ聞いてもいいですよね」


 僕の口にした曲名に北沢さんは花開くように笑顔を浮かべた。


「『二月の流星群』見ました?」

「映画館で」

「良かったですよね! 特にあの曲が流れる場面!」


 熱を帯びた言葉で語る北沢さんはやや興奮気味だったが、その気持ちは考えるまでも無く分かる。それにその場面も思い出そうとするまでもなく、自然と脳裏へ浮かび上がって来ていた。先程よりも上がった熱量は暖かな日差しとなり、僕らの話には咲き誇った花畑が広がった。あの曲やこの曲。ライブや音源、主題歌やメンバーが出演した映画やドラマにアニメ。話のタネに困るどころか尽きることは無くあっという間に過ぎていく時間。それは最初の緊張や不安が馬鹿らしく思えてしまう程に楽しい時間だった。

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