7
「何が?」
「だからぁ、家に帰って旦那さんがいるっていうのですよー!」
考えると言うよりただ枝豆とお酒を口に運ぶための沈黙を経て先輩は答えた。
「別に。普通」
「えー! 何ですかそれぇ」
その答えは不満だと言外で伝える彩夏の表情。
「あっ、じゃーあー。先輩って旦那さんの前ではどんな感じなですか? 普段と違って意外と甘えちゃう感じとかー」
「普通」
「ホントですかぁ?」
訝し気な視線を先輩へと向ける彩夏。それを受けながら先輩は動揺など微塵もせずお酒を呑んだ。
「まぁ、逆にこうじゃない先輩っていうのも全然想像つかないし――つまんないですよ」
「別にアンタを楽しませる為に生きてないわよ」
するとさりげなく正論で殴り返された彩夏は、逃げるように僕の方へ酔いで恍惚とし始めた双眸を向けた。
「じゃあ、蒼汰は?」
「何が?」
「だーかーらー! 家に帰って愛する奥さんがいるのってどうだった?」
「おい。そう言う話は止めろって」
彩夏の言葉に他の三人が、走った電気に反応したように少し焦慮としたのは直接見ずとも感じ取れた。それはどこか気まずそうで、彩夏を見ながらも横目で僕の様子を伺ってる。気を遣ってくれてるのは十二分に分かった。
「え? ダメだった? あたしはただ想い出話みたいなの聞こうと思っただけだけど……。そういうのもダメ?」
「時間は経ったって言ってもまだ――」
「いや、大丈夫だよ」
圭介が僕に気を遣ってくれてるのは良く分かる。
だから僕は大丈夫だという旨を遮る形になっても伝えた。陽咲と会っては話しをしているからなのか、彼女を思い出しても前よりは平気だ。もちろん彼女と実際に会って話しをしてるなんて事までは言えない。でも今は彼女の話をして思い出しても大丈夫。
陽咲とはあの場所で決まった時間しか会えないから、今でも家に帰ったら一人暗闇の中だけど、僕はあの日々を懐古しながらも思い出した。
「凄く――幸せだったよ」
「へぇー。なんか、先輩より幸せが伝わってくるね」
彩夏に言われて気が付いたけど、僕はいつの間に笑ってた。一人慌てながら口元を隠すが、もはや意味は無い。
「あぁーあ。あたしも早く結婚したいなぁ」
愚痴るようで呟くようで――でも全員に聞こえるぐらいの声を出しながら彩夏は天井を見上げた。
そしてすぐに戻って来た彼女の口は次の質問を僕へ投げ付けた。
「蒼汰はさぁ。誰かを心から愛する幸せを知った訳じゃん。再婚とかって考えてるの?」
その瞬間、僕の脳裏で蘇ったのは陽咲だった。新しい人を見つけて欲しい、その時の事を僕は無意識に思い出してしまった。同時にあの時の感情が僕の中で鮮明に思い出される。それはまるであの瞬間に戻ったようだった。
「考えてないよ! 僕は陽咲だけを愛してるだから!」
両手でテーブルを叩き、気が付けば僕は大声を出していた。
我に返れば凍り付いた空気の中、みんなが僕へただ視線を向けている。気まずさの中、何を言えばいいか分からないと言った感じだ。
「――ごめん」
静まり返った部屋に響く彩夏の謝罪の声。
その時には僕は後悔の念に埋め尽くされていた。
「あっ、いや。ごめん」
実は陽咲と会っていてなんて理由を説明する訳にもいかず、僕は申しわせなさそうな彩夏に謝る事しか出来なかった。
それからの事は更に呑んだ酒の酔いも相俟って覚えてない。きっと呑みの席を一変させてしまったんだろう。気が付けば家のベッドで目覚めてた。
その日もいつもより遅れてはいたが僕はお墓参りをしてあの場所へと向かおうとしていた。陽咲と会えるのだからお墓参りをしなくてもいいと思いはしたけど、それでもやっぱり何故か墓石に花を供えては手を合わせてしまう。
そしてあの場所へ。そんな僕の足を止めたのは和尚さんだった。
「また向こうへ?」
丁度、初めてあの場所を訪れた時を再現するように掃除をしていた和尚さんは僕を見るとそう尋ねた。
「あぁ、はい」
「いいですよね。あそこからの景色は」
「そうですね。とっても気に入ってます」
確かにあの場所へ行くのは陽咲と会いにだが、別に嘘をついている訳じゃない。
「特にこの時間は静かで、一人でいるにはうってつけですからね。ゆっくりと自然の穏やかな流れを感じ自分を整えられる。生きるとは受け入れていく事。明日の天気を変えられぬように、私達は自分に起こる事を選択出来ないですからね。受け入れいくしかないんです。まずは受け入れ、それから歩み進める。過去は変えられず、未来は予測出来ぬとも、あなたの心はあなたのモノです」
柔和な微笑みを浮かべた和尚さんはそう言うと、軽く頭を下げ道の向こうへ手を向けた。
「足止めしてすみません」
「いえ」
そんな和尚さんに会釈をし、僕は足を進めた。
そしていつもの夕焼け景色を眼前に欄干へと凭れかかる。
「お疲れ様」
いつの間にか隣にいた陽咲の存在に僕はそう言われて気が付いた。
「ありがとう」
お礼の言葉は夕焼け空へと消えていき、僕らはそのまま静寂に包み込まれた。会話の無い沈黙でさえ、心地好い。僕は彼女の傍にいられるだけで十分に満足なんだと、改めて知った。
「考えてくれた?」
だけど不意にそんな僕を覆う暗雲。夕日は依然と僕らを幻想的に染めているが、やはり暗雲が垂れ込めている。
僕は返事をするのも忘れ、狐面の横顔を見つめていた。
「――君のこれからの事」
もし何でも消せる消しゴムがあるのなら、聞かなかったことにしたい。あの沈黙ままでもいい。僕は悪足掻き的に返事をせずただ眼前の景色を眺め続けた。
「ダメだよ。ちゃんと時間はあげたんだから」
まるで子どもを窘めるような口調の陽咲へ僕はそっと横目を向け様子を伺った。さっきとは違いこちらを見る狐面と目が合い、またゆっくりと視線を前方へ戻す。
「――陽咲以外の人なんて、必要ない」
「んー。まぁ。……そう言うと思った」
このままこの会話は終わるのかも。そんな淡い期待はあった。
「でも、この人ならって人がもしかしたら見つかるかもしれないよ。分からないじゃん。どれだけ願っても、もう私は答えてあげられないんだから――だからそんな私じゃなくてちゃんと傍にしてくれる人と出会わないと」
「そんな事ないよ。それに今だってほら。確かに一日中、好きな時にとはいかないけど……ずっとこのまま一緒にいればいいじゃん!」
だからもうそんな話はしないでくれ、そう訴えるように手ぶりまで力強くなってしまった僕。
でもそんな僕に対し、彼女は否定するにはあまりにも優しく首を振った。
「ずっとは無理だよ。言ったでしょ? 私は君が心配だったからこうして目の前にいるって」
陽咲は少しだけ間を空け視線を眼前の夕焼け空へと戻してから言葉を続けた。
「でも、そうだね。どうしても嫌だって言う君に無理矢理させるなんて事も出来なければ、そんな風にするのも嫌だし」
「どうなるの?」
彼女の話を聞きながら僕の中ではさっき言っていた「ずっとは無理」という言葉が過っていた。何かしらの制限一杯まで一緒にいられるのか、それとも――。
焦らすようにゆっくりと僕の方を向く狐面。
「お別れだね。今日ここで」
「えっ?」
それは予想だにしない言葉だった。ここでだなんて――いつか死ぬと知っていてもまるで自分が不死であるかのように思ってしまうように、僕はまたいつか来てしまう別れを勝手に遠いものとしてしまっていた。
だから不意を突かれ情けない声が零れ落ちる。
「だってもう、私がここに来た意味は無いんだもん。世界をあるべき姿に戻さないと。私のいない世界。それが本来の姿なんだもん」
唖然とし一言の言葉すら思い浮かばない。
「もし君が新しい人を探すなら、これからもうちょっと手伝って一緒に良い人を見つけようって思ってたけど仕方ないね。君が嫌がる事を強制したくないし」
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