5
「そんなの……いいよ。だって他の人なんて、考えた事も無かった」
「うん。知ってる」
「僕は……君だけでいい」
「ありがとう。でもそれじゃダメ」
胸の中で蠢く上手く言い表せない不安が嫌だった。
こんな事を言われるのが嫌だった。
そんな事を考えるのが嫌だった。
僅かに震えた声の僕を包み込むような優しい口調が嫌だった。
今にも離れてしまいそうな彼女が嫌だった。
一秒でも早くこの話を終わらせて目を背けは逃げ出してしまい、無かったことにしたかった。
「――あぁ、そうだ! あれ覚えてる?」
それは余りにも露骨で不格好な話題転換だったが、今の僕にそこまで気を遣う余裕は無かった。どうせどうやっても話を逸らした事を彼女に隠すことは叶わないだろうし。
少々投げやりな気持ちが混じりつつも僕は想い出の一つを口にしていた。どんな事を言ったのかは覚えてない。
「――もちろん覚えてるよ。楽しかったよね」
話を逸らさないで、なんて風に僕を引き戻す事も出来たはず。
でも陽咲はそうしなかった。まるでさっきまでしてた話が丸々と消えてしまったかのように、彼女はこれまでと同じで想い出話に花を咲かせてくれた。二人で共有した一つの時間。それを思い出し、語り合ってるとさっきまでの不安は身を顰め、陽咲をより近くに感じた。あの幸せに満ち溢れた日常のように傍に。
それからいつもの時間になるまで、陽咲があの話題をもう一度口にする事は無かった。僕は少しだけ安堵しながら彼女と別れるとそのまま帰路に就く。
数日後、僕は早めに終わりそうな仕事をしながら今日も陽咲に会いに行こうと思っていた。彼女とはあの日以降、二~三度会ったが、あれは悪い夢だったのだと思わせるかのようにあの話をすることは無かった。だから僕の中でも(考えないようにしていたというのもあるが)段々とあの話は薄れ始めていた。
「蒼汰ぁ」
すると若干ながら凭れかかり肩を組む翔琉。
「今日、呑みにいこーぜー」
「え? 今日?」
「おん。なんかあるのか?」
脳裏では当然ながら陽咲の事を思い浮かべていた。でも昨日も少しだけど会ったし、何より彼女に言われた事を思い出す。また誘いを断って来たってバレたら怒られてしまうかもしれない。黙ってればいいのはそうだけど、彼女は結構それも見抜いてくる。何故か違和感のような何かを感じ分かるらしい。
「いや、大丈夫。いいよ」
「おっし! んじゃまた仕事終わりなー」
「うん」
それから仕事が終わると僕らは翔琉の予約した居酒屋へと向かった。
「今日も頑張ったぜ! カンパーイ!」
その声に呼ばれ集まった五つのジョッキは幸せの音を鳴らした。
見慣れたメンバーで緩やかに始まった飲み会。料理で空腹を満たし、お酒で疲れを癒し、自由気ままな話題と共に時間はどんどん過ぎていった。
「いやぁ~。でも何だかんだあたし達もあのぺーぺーの時よりは変わったよねぇ~」
今日は少しだけペースの早い彩夏は不意にそんな事を言い始めた。
「今じゃ一応後輩もいるし、仕事もすっかり慣れたし、先輩なんて昇進しちゃったもん。どうですか? あたし達? 随分と立派になったんじゃないですか?」
彩夏はそのまま先輩へ少し胸を張りながら尋ねた。
そんな彼女から始まり流すように先輩は枝豆片手に僕らを見ていった。
「まぁ。仕事はね」
そしてそう一言。
「仕事はってどーゆー事っすか。やっぱり俺なんてこう――大人の男になったんじゃないっすか?」
先輩の言葉に真っ先に反応した翔琉は、より自信たっぷり。
でもそんな彼を見る先輩の眼差しはビールより冷えたものだった。
「自分の事を大人の男って思ってる時点で大人の男じゃないでしょ。てかそれって他人が決める事なんじゃないの? アンタらはあの頃と全く変わってないわよ」
「何言ってるんですか先輩。俺なんて行きつけのバァー、があるんですよ。大人でしょ?」
発音を良くしようとし過ぎて逆に遠ざかるという本末転倒な状態になっている事は置いていて、翔琉は彼なりの大人の余裕を表した表情をしていた。
「相変わらずお調子者で子どもっぽさが抜けてない」
すると先輩は食べかけの枝豆で翔琉を差しながらそんな事を言った。そしてその枝豆は移動し始め一直線に彩夏へ。
「男を釣るのが止められない。仕事でも。その所為で取引先の相手によって成績が変わり過ぎ」
枝豆は彩夏から圭介へ。
「観葉植物変態」
一言をさっと言い終え、移動を開始する枝豆。
「ちょっ! オレそれだけ!?」
そんな枝豆を見て若干ながら手を伸ばしながら圭介は驚きを露わにしたが、それでも止まらずついには僕の元へ。でも僕を見つめたままで、先輩は少しだけ間を空けた。
「――アンタは。最初から悪くなかったからね。強いて言えば今でも仕事に対して自信不足ってとこ。もっとこうウザいぐらいの気持ちがあったらもっと良い」
「はい……頑張ります」
これは僕の単なる想像でしかないけど、先輩は気を遣ってくれたんだと思う。確かにみんなは環境も含めて良い意味であの頃と変わらない。
でも僕は大きく変わってしまった。あの頃はまだ結婚してなかったけど――でも今は大きく変わってしまった。少なくともあの頃から右肩上がりだった僕の幸せは、あの事故を境に一気に転落した。だから先輩は一瞬、言葉に困ったんだと思う。
「ちょっ、ちょっと待って下さい! オレのなんなんすか?」
僕の返事から先輩のと同じぐらいの間を空け、圭介は話を自分のへ戻した。
だが、そんな彼を援護する者はいなかったらしい。
「お前は観葉植物変態だって」
「そーそー。いつからそんなんになっちゃったわけ?」
からかっているのか彩夏は蔑む視線を圭介へ向けた。
「変態ってなんだよ!? オレは観葉植物が好きなだけだ!」
「いや、あんたの家って観葉植物置き過ぎてもう森じゃん」
「誰がターザンだ。ちゃんとした家だわ」
「アンタ会社のデスクにも置き過ぎだから」
「先輩。あれぐらいいいじゃないですか。フィギュア置いてる村木と変わらないですよ」
「でも家のも含めて一本一本に名前付けてるんだろ?」
「ペット飼ったら名前付けるじゃん。それと同じでしょ」
「いや、アンタの愛情はもう変態の領域だから」
先輩の言葉に圭介と彩夏は何度も首肯した。
「そんな事はない! なぁ、蒼汰?」
するとその状況にひっそりと傍観をきめていた僕へ圭介は最後の頼みと言うように視線を向けた。正直に言って僕も圭介の観葉植物に対しての愛情は普通よりもレベルの高いものだと思ってる。でも好きなモノはその人の自由だし、それだけ愛情を注げるのは良い事だって思ってるから何かを言う事は出来ない。
でも今、僕は意見を求められてる。一体どうしたらいいんだろう。
「――んーっと。そうだねぇ。――でも僕は自分の好きな事やモノにそれだけ熱心に愛情を注げるのは良い事だと思うよ」
結果的に僕はそーやって逃げるような返事をしてしまった。
「まぁ、そんな圭介の事なんてどーでもいいって」
するとこれ以上追及されたらどうしようなんて思っていた僕を助けるかのように、彩夏がそう言った。
「それより先輩ってずっとその髪型ですけど、休日とかは別の髪型とかしてるんですか?」
彩夏は回ってきた酔いとは裏腹に微かだが回らなくなってきた呂律で先輩へとそんな事を尋ねた。どこか仕返しでもするかのように。
一方でそんな彼女の質問を聞きながら僕は一人、密かにホッと溜息を零していた。
「まぁ基本的にはこれ。楽だし」
「えぇ〜。どうせならもっと色んな髪型しましょーよー。パーマとか三つ編みとか――あっ! 思い切ってショートなんてどーですか? 絶対、似合いますって。試して見ましょ!」
「まぁ昔はずっとショートだったし」
「えぇ! そうなんですか?」
一驚を喫する彩夏は少し前のめりになった。
「部活してたから。その方が動きやすかったからって感じ」
「何部だったんっすか?」
「バレー」
「見えなくはないっすけど、運動神経良いんっすね」
「キャプテンでエース的な感じではあったからそうなんじゃない? 他のスポーツもある程度できたし」
ただ事実を淡々と述べてる。そう語る先輩からは自慢の類は一切感じなかった。
「まぁでも今はいいかな。やっぱ切らないで良い方が結果的に楽だし」
「いやいや。いくらスポーツ万能、成績優秀、仕事でも活躍、男女問わずモテた先輩とは言え」
「別にそこまで言ってないけど?」
「とは言え! ダメですよぉ~。乙女たるものちゃーんとしないと。その様子じゃっ、お肌のお手入れもサボってるんじゃないですかぁ? メイクももーっと頑張れますよぉ?」
ここぞとばかりに――と言うか無理矢理にでもマウントの類を取ろうとしているのがあからさまな彩夏は、腕を組んだかと思うと指を左右へ振り始めた。
「そんなんじゃ昇給は出来ても、結婚はまだまだですねー」
だがしかし、先輩はいとも簡単にあっさりと、たった一言でそんな彩夏を撃沈してしまった。
「アタシ長いこと同棲してる奴いるから。まぁ、事実婚ってやつ」
その言葉で凍り付いたように静まり返る僕ら。その中、悠々と先輩は枝豆を口へ運んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます