case12.根岸優の罪〜頭でっかち尻つぼみ〜

 どんなことにも意味があると教えられた。


 失敗も挫折も後悔も、無意味なことなどないと。そんな今すぐ忘れてしまいたいこと全部ひっくるめて、それが自分自身なのだと。


 それならば、出会わなければ良かったと、そう思う彼女との出会いも、僕にとっては意味のあるなにかなのだろうか。




 大人びた子だな、と思った。「先生は彼女いるんですか?」などと僕を揶揄うように色恋の話をする子よりずっと。窓際の席に座りグラウンドを眺める彼女の横顔は、全てを知っているようにも見えた。



「先生、分からないところがあって……。お時間あるときに教えてもらえないですか?」


 彼女は学生の本分である勉強のことを聞いてくるときでさえ申し訳なさげに下を向く。「あぁ、どこ?今聞くよ」と返した僕に「今じゃ足りないぐらいたくさんあるんです」、とまたも下を向いた。センターで分けられた前髪のお陰で彼女の丸いおでこがよく見える。つるりとした丸みは女性の象徴のようで、自然と鳴りそうになる喉を理性で抑え込んだ。

 

 彼女が言うには休憩時間の10分間では到底足りないほどに不明箇所があるらしい。僕の仕事は教師で、彼女は生徒だ。「教えてほしい」と言っている生徒がいるなら、それに応えることが僕の仕事であった。



 「じゃあ、放課後おいで」と地学室に呼び出した。この高校に理科の教師は大勢いれど、その中で地学教師は僕一人だ。なのでここは文字通り、僕の城である。

 彼女は約束通りにやって来た。3回ノックの後に「失礼します」と丁寧に声をかけ、ゆっくりと扉が開く。

 「どこが分からないの?」と聞きながら背もたれのない椅子に腰を下ろせば、彼女はなんの躊躇いもなく僕の横に座った。驚かなかったと言えば嘘になる。正面に座るものだとばかり思っていたからだ。「ここなんですけど」と、彼女の薄ピンクの縦長の爪が質問箇所をなぞった。




「もう大丈夫そう?」

「はい!お時間を割いていただきありがとうございました」


 にこりと笑った彼女はしっかりと僕の方を見ていた。やっぱりここの誰よりも大人っぽい。顔の作りはどちらかといえば幼い方なのに。艶やかな唇や、目を縁取る黒々としたまつ毛が色気を纏っているからだろか。

 無意識にそんなことを考えている自分自身に気づき、すぐさまそれを打ち消した。教師としてあるまじき思考だと思ったからだ。


「いえいえ。じゃあ気をつけて帰れよ」


 と、それで終わるはずだった。そのはずだったのに、彼女は少し言い淀む仕草を見せ、僕の顔をチラチラとうかがうような視線を寄越した。


「ん?どうした?まだ分からないとこでも?」


 そう聞きながら、これは良くない、と。雲行きが怪しくなってきたぞ、と思うのに、心のどこかで何かを期待し始めている自分に気づいたりもした。


「先生は、彼女いますか?」


 頬を赤らめた彼女のその表情が、僕のことを好きだと告げていた。いつものように、はぐらかすことも嗜めることもせず、僕は「いないよ」とただ事実のみを伝える。

 途端、彼女の顔は綻び「私、先生の彼女になりたい」とあどけない笑顔を見せた。


 「僕は先生だからね、二階堂とは付き合えないよ」と常套文句は喉まで出かかったが、終ぞ声になることはなかった。おかしい。僕の預かり知らぬところで、口がひとりでに「うん」と了承の返事をしている。

 いや、やっぱりだめ、と言いたくなったが、無邪気にはしゃぐ彼女を見ていると、それはとても言えなかった。





 彼女はとても理性的で、恋にうつつを抜かすタイプではなかった。僕と付き合っていながら、学校では以前と少しも変わらない態度で生活していたし、万が一見られたら困るので外出デートができなくても文句を言ったりしなかった。

 キスやセックスをしなくてもそれで不安がったり、求めてくることもなく、自分と僕の立場を弁えているようなその態度に安心した。


 安心していたのだ。なのにあまりにも普通、あまりにもブレない彼女を見ていると、僕の方がだんだんと不安になってくる。

 何で付き合ってんだろ?僕のこと本当に好きなのかな?と、僕の部屋でテレビを観ながら笑う彼女の横顔が、なんだか少し憎らしい。


「せんせ?どうしました?」


 怖い顔してる、と彼女の綺麗に整えられた爪が僕の眉間を触る。「なんでもないよ」と言いそうになったが、なんでもなくないことは眉間に刻まれた皺が物語っているわけで。

 僕が「好きだよ」と初めて告げれば、彼女は「私も」と唇を重ね、「えへ、キスしちゃった」と、放心状態の僕に笑いかけた。彼女の赤い唇から覗く濡れた赤い舌が僕を誘う。

 教師といえども男なのだと。言い訳に使ってはいけない言い訳を頭の中で繰り返し、僕は彼女を抱いた。



 越えてはいけない一線というものは実際に存在するようで。僕にとってはそれがセックスだった。いや、キスとセックスを同日に行ったのだから、もしかしたらその一線はキスだったかもしれないけれど。今となっては確かめようもない。


 溺れた。文字通り、僕は彼女に溺れた。

 教室で男子と楽しそうに話す彼女を見ては年甲斐もなく嫉妬心を感じ、その男子が知らないであろう彼女の淫靡な姿を思い出して優越感に浸った。

 教師としてはあるまじき贔屓を無意識にしてしまい、他の女子生徒に「根岸せんせーって、二階堂さんに優しいよね」と指摘されたりもした。


 いけない。これではいけないと分かっているのに、彼女を見れば「むちゃくちゃにしてやりたい」と思うし、彼女に会えば「この世の誰よりも優しく甘やかしてあげたい」と思う。

 そしてそんな僕の心を見透かすように彼女は「せんせ、今日もセックスしよ?」となにも身につけていない足を広げて、僕を誘うのだ。

 セックス中も、壊してしまいたい、何よりも大事にしたい、と相反する感情に襲われる。そしてその中で僕は剥き出しの欲望を彼女に吐き出す。そんな僕を見て、「先生も私と同じ人間なんだね」と彼女は満足そうに笑うのだ。





 終わりは突然だった。いつものようにセックスを済ませ、服を身につけた彼女は「別れます」と笑った。「また明日」と言うときと全く同じ笑顔だった。

 そんな表情で言われたものだから、最初は聞き間違いかと思った。が、どうやらそうでもないようだ。彼女は「もうすぐ進級ですし」とにこやかに告げる。


「え?進級は関係ないだろ?」

「……んー、先生とのセックスはもう充分楽しんだので」


 最近スリルがなくて、つまんなくなっちゃった、と無邪気な声が弾む。頭が真っ白になって言葉が続かない僕を置いてけぼりにして、彼女はなおも楽しそうに話す。


「嫉妬されるのもうざいし」「先生ファンの一部の女子からはやっかまれるし」「それに、最近既婚者の彼ができたんです」「その人とのセックスが楽しくて」


 じゃ、そういうことなので、と膝上のスカートを揺らし、彼女は僕に背を向けた。ギィ、バタン、と響く扉の音のなんと無情なことだろう。結局彼女はなんだったのだろう。何がしたかったのだろう。

 彼女の真意を探ろうとしたが、平凡な僕には到底理解が及ばない。


 なんて酷く、恐ろしい女だ。そんな女から離れて行ってくれたことに感謝しなければいけない。そう思うのに、この喪失感はなんだ。




 彼女は以前と変わらず、真面目で大人しい生徒のまま高校卒業の日を迎えた。

 変によそよそしくなることもなく、また挑発してくるようなこともなく。彼女と想いを重ね、身体を重ねたあの日々は夢だったのではないか、とさえ思ってしまいそうなほどの態度。

 

「根岸先生、今日までお世話になりました」


 背後から突然に声がかかり肩を跳ねさせた僕を見て、彼女はおかしそうにクスクスと笑う。口元を覆う手の白く美しいこと。僕は伸ばしそうになる手を押さえ込むように、下唇を噛んだ。


「あぁ、大学でも頑張れよ」

「はい。先生も、ここで頑張ってくださいね」


 なんだか癇に障る言い方に大人気なく「なぁ、二階堂。なんで僕に好きだって言ったりしたんだ?」と、ずっと疑問に思っていたことをぶつけた。

 それを聞いた彼女はさもおかしいという風に声を出して笑う。さらに馬鹿にされた気になって、恥ずかしさから顔が赤くなる


「せんせ?この世には意味のないことだってあるのよ」


 優しく下がった目尻と、緩く持ち上がった口角、光る頬、風に揺れる黒髪、そして今日も整えられた薄ピンクの爪。

 彼女は誰よりも知った風な顔でそう答えた。

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