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首でも吊ってしまおうかという念に、駆られた気がした。
休み時間になると私は、廊下の隅にしゃがみ込んだ。呼吸を整えようとしても、何処か決まりの悪さを感じた。具合が悪い、と言うほどでもなかったが、立っているのが、妙に気恥ずかしくなった。
レコード屋からの苦情という、明確な私への非難が、これほどまでに、喉に骨が刺さったような感触を生むのかと、半ば関心すら覚えるほどだった。昼食を取らなければならないのに、食欲なんて少しもわかなかった。いつもなら、コンビニで朝食と一緒に買ってあるパンか、食堂でなにかを適当に選ぶのだけれど、そのどちらも、私の気分に照らし合わせると、合わないパズルのピースを、無理やりねじ込もうとしているつもりになった。
「苦情が来たんだって?」
しゃがんでからしばらく、五分くらい経ったあとに、いつの間にか現れていた紗良が、急に私の頭上に声をかけた。
「誰から聞いたのよ」私は、そっと目線を真上に向けて、紗良の顎の付け根を見つめた。
「由麻部長から聞いた。奈津乃のバンドメンバーだから、教えてくれたんだよ」
「……紗良、どうしたら良いと思う」
私が、耐えきれなくなって尋ねると、紗良は私の真隣に座った。こうしていると、不良の集まりだと思われるかもしれなかった。
「……潮時だったんじゃないの」
紗良は、普段からは考えられないくらい真剣そうに、そう口を開いた。
目の前の廊下を、知らない生徒が、私達なんて気にもしないで駆けていった。
「昨日、見かけたわ」私は、見苦しいような言い訳をする。「あと、もう少しなのよ。もう少しで……あの老人のことが、わかると思うの」
「そんな根拠、ないんじゃないの?」紗良は、どこか呆れたふうだった。「取り憑かれたみたいに必死に探して、その弊害が来たんだよ。軽々しく首を突っ込むには、歪な謎だったんだろうね。ねえ奈津乃、練習しよう。もうすぐ、公開ジャムセッションもあるんでしょ」
「……嫌よ」
「奈津乃」
私の顔を、両手で自分の方に紗良は向かせた。彼女の大きな瞳に、両目を潰されそうになった。手の感触は、それでも生温さがあった。
「何を、そんなに焦ってるんだよ」
彼女を手で払い除けて、視線を顔ごとそらした。
もう、床しか見えない。
「焦ってないわよ……」
「どうして、そんなに必死なの? なにかあるの?」
「紗良には、わからないわ」私は重い腰を、ため息を吐きながら、持ち上げて立った。逃げるような姿勢に近かった。「ごめん。練習もちゃんとやる。でも今は、放って置いてほしいの」
「……じゃあ、私も手伝うよ」
「…………そんなの……悪いわよ。紗良、そこまで老人に、興味もないんでしょ。もう無理に手伝わなくていいから」
「無理じゃないよ」紗良は、はっきりと言う。「好きで、奈津乃について行ってたんだよ。それに、奈津乃がずっと、練習に集中できないほうが、私は嫌だな」
「…………ごめん」
「ごめんは、わかったから」
そして紗良は、私を慰めるように、見ようによっては蔑むように、立ち上がってから私の手を強く引いた。
勇気よりも、はっきりと、罪悪感を覚えた。
それからなにもないまま、二日ほどが過ぎた。
紗良から呼び出しがあったのは、今朝のことだった。昼休み、外の広場に来て欲しい、とだけ書いてあった。特に疑う理由もないので、私は三階の教室から、まっすぐに外へ出て、広場へ向かった。
あの日から私は、老人のことを、自分から調べようとはしなかったものの、その手持ち無沙汰な加減が、逆に私の意識を老人に向けた。つまり、もう依存症に近いくらい、彼について考えてしまっていた。
けれど、苦情の問題から、レコード屋にはもう近づけもしない。
だから、紗良からの連絡があったとき、きっと老人のことで何か重大な秘密がわかったんだ、と私は、金曜日のように晴れやかな気持ちになった。
広場には、既に紗良が待っていた。広場とは、本館と別棟の間に位置する、芝とコンクリートと、木とベンチで作られたスペースだった。野球をするには狭いと、授業のとき誰かが言っていたのを、何故か通るたびに思い出してしまうが、ただ通るだけにしては、随分と広い。
ベンチに腰掛けて、楽しそうに手を振っている彼女の隣に、私が腰掛けると、紗良は単刀直入に本題を口にした。
「老人のバンドを調べて来たよ」
と言って、彼女はスマートフォンの画面を私に見せた。
「調べてくれたの?」
「そりゃそうよ。この二日間、知り合いを辿ったよ。で、偶然両親が知ってるっていう人に当たって。その人に感謝したくなった」
「ありがとう紗良……」
私は深く頭を下げながら、微笑む紗良を尻目に、画面を熟読した。
バンド名は『ハイパーマーケット』。当時らしい、古めかしいフォントでロゴが作られていた。1970年代中頃に活動していたが、その後、80年を跨ぐことなく解散。その理由は、メンバー間の不仲が原因であった、とされる。
写真を見ると、またもや時代を感じる風貌の若者が、四人ほど一晩中考えてきたかのようなポーズを決めて、じっと立っていた。男、男、男、そして女が一人。そのうちの一人が、あの老人に間違いがないことは、現在でも残された面影でわかった。彼は、ギターを持って立っていることから、ギタリストだったらしい。
「ネットで調べても出ないような連中だから、苦労したよ」紗良は言う。「その人で、間違いないよね」
「ええ……でも」
私は、一つの事実に気づいてしまった。この編成、そしてこのスタイル。バンドのロゴとアルバムタイトル、その雰囲気から、導き出される音楽ジャンルに。
「このバンドって……ハードロックよね」
「そうみたいね。プログレと何が違うの?」紗良は、深い意味も考えないで、無邪気にそう投げかけた。
「まあ、同じような時期の音楽だけど、ぜんぜん違うジャンルよ。こんなハードロックやってた人が、あそこまでプログレというか、マンダラバンドに固執するとは、私は思えないわ」
「そうなんだ。まあ、よくわかんないけど」紗良は、どこか面倒くさそうに笑った。「けど、実力派で名前が通ってたみたいだよ、そのバンド。まったく有名にはなれなかったみたいだけど。似た時期なら、プログレみたいな、変な音楽もやってたんじゃないかな」
「どうだろ。趣味と仕事の演奏は別だとも思うし……」
「ね、奈津乃」
彼女がベンチに深く凭れた。
「もっと深く調べたって、決定的なものは出てこないんじゃない?」
私はスマートフォンを紗良に、一度握ってからそっと返した。
「……でも、あと少ししたら、わかるかもしれないじゃない」
「そうやって、辞めない理由を探していくと、人は依存的になるんだと思うよ」
ただいま、なんて、最後に口から発したのは、何年前になるのだろう。
老人のことを、もっと深く調べたかったし、紗良と一緒に考えたかったのだけれど、この間、こっぴどく叱られた授業で課された、レポートの提出期限が迫っていたので、珍しく私は、さっさと家に帰ってきた。あの教員にいじめられるのを、これ以上受け入れるつもりも、私の方にはなかった。
住宅街に位置する、網城、と表札が出ている、二階建ての一軒家が、私の住んでいる場所だった。中には、きっと母親が一人でいるのだろう。考えたくもなかった。庭もあるのだが、随分と手入れがされておらず、荒れ果てているし、私も何年も近づいていない。
建て付けの悪くなっている玄関扉を抜けて、さっさと二階にある自分の部屋に滑り込もうと、足を急がせたのだけれど、気持ちの悪いくらい耳の良い母親は、私の足音を聞いて、奥のリビングから顔をのぞかせて、声をかけて、私を止めた。
「あんた、またこんな時間まで、ギターなんか弾いてたの?」
階段に、片足を乗せながら、首もこの女に向けないで、私は歯ぎしりをしてから、怒りを抑えて答えた。
「だから?」
長い、わざとらしい息を吐いてから母親は、嫌味ったらしく口を開いた。
「勉強しなさいよ。何のために、大学に行かせてると思ってるの。ギターなんか弾いて、何になるっていうの」
「うるさいな。ちゃんとやってるわよ」
「単位だって、何回落としたかわからないじゃない。卒業できるの? 変な部活に入れ込んでから、あんた、おかしいわよ」
舌打ちをした。
「お前みたいな凡人に、何がわかるっていうのよ」
それから、話も聞かないで階段を駆け上がった。自分の部屋のノブに手をかけて、中に入ると同時に、鍵をかけた。電気を点けて、部屋が姿を取り戻していった。外の世界や、母親のいる家から、この扉一枚を隔てて、明確に区切られているような安心感を、そこまでしてようやく覚えた。
なんてことはない、私の部屋。机、ベッド、漫画ばかりが入っている本棚と、大きめのCDラックが目立つ。もちろん、プログレッシブ・ロックばかりが押し込められていた。扉の真正面にある窓からは、開けると涼しい風が入ってくるのだけれど、どうでもよかった。
背負っていたギターを、慎重に下ろして、机に向かった。私を苦しめるレポートを、潰してやろうと思ったけれど、それよりもまず私は、両手で頭を抱えて、机に突っ伏した。
もとより、授業なんて微塵も聞いていない。レポートなんか書けるわけがない。ノートパソコンを立ち上げようとしても、それすら億劫だった。私はそうしているうちに、スマートフォンをパソコンの上に、遠慮なしに置いた。
私じゃわからない。レポートも書けないし、老人のことだって、死ぬまでわからない。
もしかすると、せれな先生なら、なんでもわかってしまうのだろうか。
私なんかじゃ何も出来ないけれど、せれな先生なら……。
私は、明かりを消した。もう、自分の姿を見ていることも嫌だった。誰にも認識されたくなかった。闇に溶けて消えてしまいたかった。
心の何処かでは、私に気づいてほしいって、思いながら。
結局、レポートをまとめられないまま、来週のあの授業は、もうすっぽかしてしまおうという、最低の手段を、私は選ぶつもりだった。
今日は、隣町の貸しスタジオで、バンド練習を行う予定になっていた。紗良からの提案だった。部室にある防音室の順番を、悠長に待っていられるほど、私達に演奏的な余裕があるわけではなかった。
電車に乗って、くつろぐ間もなく、五分もしないうちに到着する。改札を抜けると、O駅に全てを吸い取られてしまったかのような、出涸らしのような駅前が広がっていた。住宅街と、田んぼ。私の家の最寄り駅も、似たようなものだけれど。
こんなところに、貸しスタジオ屋があると聞かされて、一年の頃は疑っていたのだが、本当に線路沿いにあるビルに、その店の存在を認めたときは、少しだけ感動したものだった。
スタジオにはすでに紗良と、もうひとりのバンドメンバーである、檜原美保子が来ていた。私達のバンドは、この三人で構成されている。ジャズ研究部らしく、ジャズスタンダードを演奏するバンドだが、私の趣味で、プログレをジャズアレンジしてねじ込むことがあった。当然、客のウケは、すこぶる悪かった。
美保子は、ドラムの前に座っており、私を認めると手を振って、微笑みかけた。どうも彼女は、良いところのお嬢様らしく、家には、ちゃんとしたドラムセットも備えてあるらしいことは、日頃の会話から推察できた。
派手すぎない茶髪だけれど、おっとりとして、礼儀正しい印象なのに、よくドラムなんて叩けるな、と私は感心していた。ビリー・コブハムが好きだと本人も語っていたし、実際のプレイスタイルもオープンハンドだった。ドラムのことは、私にはわからないけれど。
紗良が、隅の方で電話をしている。私は音をあまり立てないようにして、アンプの前でギターを取り出して、さっさと準備をしていく。誰だろうと思って、少し耳を澄ませると、相手は紗良の妹らしい。この姉妹の仲は、非常に悪い。紗良は、ひどく苛ついた様子で受け答えをしており、しばらくすると、スマートフォンを投げかねない勢いで電話を終えた。
「ふざけんなよあいつ! 私より頭がいいからって、図に乗ってるんだよ。私が何も出来ない人間だって、決めつけやがってさ」紗良は、毛をむしるような勢いで、自分の頭を掴んだ。「オルガンもベースも、あいつは演奏なんか出来ないくせに」
「……紗良は、頑張ってるわ」
美保子が優しくそう語りかけると、紗良は落ち着きを取り戻した。
「……ごめん。練習だよね。集中する」
バンド練習が始まると、それ以前の重い空気は、どこかに消え去った。私自身も、いざギターを持ってしまえば、それなりにモチベーションが復活するのもあった。練習は、思ったよりも楽しげに進んだ。紗良も美保子も、私なんかよりずっと練習が好きみたいで、知らない間に私を置いて、上手くなっていた。
私は、曲を追うことで精一杯だった。却ってそれが、余計なことを考えないで済んだのかもしれなかった。
休憩になって、私は隅でイヤフォンを耳に突っ込んで、曲を聴きながらレポートの草案を眺めた。今朝までは、あんな授業はすっぽかすと決めたのに、結局そうする勇気すら持てない自分に、嫌気が差した。
とりあえず、あの教員は私をいじめることは好きみたいだが、レポートの出来にさほど文句を言う人間でもない。どんなに出来が悪くても、提出さえすれば、単位はもらえるだろう。私には、四年生になって遊ぶような余裕すらないから、単位の一つが貴重だった。
「奈津乃、何聞いてる?」紗良が私を覗き込んで、尋ねた。
「マンダラバンドのセカンド」
「まだそれ、聴いてるの? 練習曲は?」
「…………家では聴いてる」
「嘘よ」
と美保子が、ドラムセットの奥から声をかけた。
「奈津乃、さっきもよく間違えてたじゃない。曲、覚えてないでしょ?」
図星だったので、私は何も言えなくなった。
「それ、今度のレポート?」紗良が言う。「レポートも出来てないし、曲も覚えてないんだから、気持ち切り替えたほうが良いよ。私も手伝うって言ったけど、それは、奈津乃の負担を軽減したいからで……。練習は練習、授業は授業、そういうふうに、切り替えてほしかったんだよ。私が手伝ったら、奈津乃にも、余裕ができると思ったのに」
「……ごめん」
そんな出来た人間じゃなくて、ごめん。
私は聞こえないように、そう呟いた。
その後の練習は、集中こそすれど、満足の行く結果にはならなかった。原因は、全て私の練習不足によるものだった。逆に言えば、彼女たちふたりに、問題はない。
帰り際に、紗良が私にCDを渡してきた。改札を通ろうか、という瞬間だった。
コピーされたCD。何も書いていない。これ聴いて、練習でもしろっていうのか。
「それ、あの老人の、バンド時代の音源だよ。持ってるって人に、焼いてもらったんだ」紗良が、きまりの悪そうな顔をして、言った。「だから、奈津乃。それで必要な情報なんて、全部揃ったでしょ? それ以上調べて出てくることなんかないよ。奈津乃が頑張ったって、意味ないんだよ。奈津乃……集中しようよ」
「……うん。ごめん、頑張るわ」
「その言葉を聞けただけで、私はうれしい」
紗良と美保子と別れた。帰りの電車の中で、私はずっと、紗良から貰ったCDを眺めていた。ここにどんな音楽が含まれているのか、もしかしたら、なにかわかるかもしれない、全部わかってしまうかもしれない。
そんなわけないのに、そんな気がした。
家に帰ると、そのままCDを、パソコンに入れて再生した。
曲が流れる。聞いているうちに、私の性欲にも似た胸の高鳴りは、次第に収まっていった。
ただただ、普通の音楽。普段生活していて、自分から聴くことがないような、漠然としたハードロックが、スピーカーから流れている。騒がしくて、知性の欠片もない、例えばあのジャズ研の馬鹿たちや、軽音楽部の馬鹿が好きそうな……
普通の人間。
この程度の音楽を、当たり前のようにやる人間。
そんな中で、あの老人は、プログレッシブ・ロックを好んで聴いていた。周りにはどう思われていたのか、自分をどの立場に置いていたのか、私には、それがわかるような気がした。
私も、ここに陥るのだろうか。
ここに落ちぶれて、何もなさないまま死んでしまうのだろうか。
私が忌み嫌っている、あの連中に埋もれて。
普通の人間のランクにすら、到達できないくせに、何を言ってるんだ。
普通が難しいのに、なんでその上に、自分がいると思っているのだろう。
部屋の真ん中で、何処にも腰掛けないで、私は、ただ立ち尽くしてそんなことを考えた。
再生を止めて、CDを取り出して、私はベッドの上にそれを、思い切り投げ捨てた。
翌日、部活へ顔を出すと、中兼が数人の部員を囲って、なにか講釈を垂れていた。
いつものことだ、と思って無視していると中兼は、偉そうに私を呼ぶ。
「奈津乃、来なさい」
「……は?」
「いいから、来なさい」
「何の用よ……」
私は、嫌そうに彼女に近づいた。中兼は、スマートフォンの画面を私に見せた。それはネットオークションや、フリーマーケットサイトのページだった。普段、まるで覗きもしないから、その見方を理解するのに、少し時間がかかった。
どうやら、出品されているものは、レコード。
マンダラバンドの、セカンドアルバム。
「これ……」
私は、息を呑んだ。あのレコードだ。それも、一つじゃない。何件も、何件も。同じ出品者が、それなりの値段をつけて、レコードを、売りに流していた。
「あなたがこれ以上、馬鹿なことを繰り返さないように、私も調べてあげたの。そうしたら、ここにたどり着いた」中兼は机に腰をおいて、腕を組み私を見た。「これがどういうことだか、奈津乃はわかるわよね」
わかりたくない。首を振った。
「なら、教えてあげる」
中兼が、私を見つめて、言う。何人かの部員が、彼女に見惚れているみたいだった。
「転売よ。定価で買ったものを、買い占めて、いい値段をつけて売る。この世で、最低の行為のうちの一つよ」
「転売って……証拠あるの?」私は悔しくなって、反論する。「この出品者が、あの人だって証拠は」
「ないけれど、これは推測よ」中兼が、咳払いをした。「このレコードに、特別な思い入れがあって買い占めてるんじゃなくて、こういったサイトで、いい値段をつけて売ろうっていう魂胆よ」
「でも、それにしちゃ、値段が安いと思うけど……」
「ある時期は釣り上げて、高値で売りさばいていたの。それが、今は売れなくなって大人しくしてる。それでも、新しい出品を止めていない。次々と。つまりこう考えられるわ。老人はボケているけど、あのレコードが、高い値段で売れたことは覚えている」
「…………どういうこと」
「インターネットに出品してるのは、彼の孫で間違いない。たぶん最初は、自分の家のレコードと同じものを、間違えて買ってきてしまった。それを見つけた孫が、善意からインターネットに出品をする。すると、売りに出すとそれが、結構な儲けになることを二人は知ってしまった。あのレコード店は、値段が安いから、この差額は大きいわ。だけど、何度も売れるものでもない。困った孫は、値段を下げることで、在庫の処理を図ろうとしたけど、老人は、そのことを理解していなかった。高値で売れたという、成功体験しか覚えていなかったから。その時のことを思い出して、ずっと同じレコードを買い続けてくるの」
中兼の推理を聞いて、私は崩れ去る思いだった。
負けた、
こんなやつに……
「どう奈津乃。あなたの集めた情報と、矛盾するところがある?」
「………………ない」
「良かった。これで解決ね」
部員が中兼に拍手をする。それを受けて彼女も、どこか気持ちよくなっている。
耐えられない。
でも、さっきの話が、耳から離れない。
そんなはずはない、と何処かで思っていた。何かもっと、理由があるはずだと。ボケていたなんて、認めたくない。第一、ボケているようには見えなかった。
本当にそうか? ボケている人間の区別なんて、私は気づくのか。
私では、彼女の推論を覆す証拠だって、集められないのに。
私は重い足を引きずって、廊下の先のトイレに向かった。途中で倒れてしまいそうなくらいに、視界が歪んだけれど、なんとか便器に腰を下ろして、両手で顔を押さえて、俯いた。
奇妙なくらい静かな個室にいても、私は少しも落ち着かなかった。
負けたんだ、私。
何も勝てない。中兼に、なにか一つでも勝てるところなんて、私にはなかった。決定的に、最も現実的な形で、それを思い知らされた。
泣こうとも思った。でも思ったより、トイレなんて場所は、声の反響が目立った。
泣くことも許されなかった。
私の、負け。
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