夜にスモッグが投棄される

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 殺意のようなものを、細くて切れそうな弦に向け続けている。

 ギターを演奏することは、別に好きでもなんでもなかった。面倒な課題や決まりや工程をクリアして、大して綺麗とも思わない蚊の羽音みたいな音を出すのに、どれほど時間を費やす価値があるのか、私はいまだにわからなかった。それでも技量を向上させる行為には、私を嫌いな人間から遠ざける効果があるような気がしてならなかった。

 上手くなれば、他人より優れた自分を証明できるはずだった。私は、その立場を誰よりも望んでいた。好きでもない楽器の演奏に、それなりのレッスン料を払って、長くはない青春の時間を、チョコレートを炙るように溶かしていくのは、並の理由では正気を保ってはいられなかった。

 右手と左手を連動させる。何万回やったって、いまいち完全に同期が出来ている手応えみたいなものを、得られた試しがなかった。譜面を見て、大きめのスピーカーから流れている曲に耳を向けた。いつ作られたのかもわからない、ジャズ・スタンダードだった。先生に紹介されるまで、聴いたこともなかった。参考に、と渡された譜面と呼ばれる紙切れには、曲の流れと、和音の流れと、あとはどうだっていい歌詞が記されていた。

 先生が私をこの部屋に一人にして、もう一時間は経つ。お金を払っているにもかかわらず、先生は私に付きっきりで教えてくれた試しがない。最初に基礎練習と、課題曲の要点と、私のフォームチェックと、くだらない雑談をして、私があとは一人で続けられそうな状態であることを確信すると、子供が寝ている部屋からこっそりと抜け出すみたいに、影のように消えていく。

 私自身、不満は覚えていなかった。先生に関わっているだけで、変な物事に詳しくなって、私の嫌いな人間たちにどんどん差をつけられる気がしていたからだった。むしろ、このレッスン料では、先生の時間を無駄に浪費させてしまっているのではないか、と本気で感じているほどだった。もっときちんとした料金を払うといつも言っているのに、先生はそれに対して首を縦に振ったことはなかった。

 小さな部屋だ。先生のくつろぎの間だと、最初に通されたときはそう説明された。背もたれすら無い椅子がふたつ。ひとつは私が今ギターと一緒に体重をかけていて、もうひとつは先生が一時間前までお尻を乗せていた。その周りには、本棚とCDラックと、さっきから曲が流れている大きなスピーカーが置いてあった。本もCDも知らないものばかりだった。この部屋に通されるたびに、ここに私の見たこともない世界が広がっていて、その切れ端を先生は集めているのかという感慨を無理やり捻出している。

 窓は閉じている。外は見えないが、もう暗くなってきていた。訪れたときはまだ陽も昇っていたのに、気がつけばレッスンの終わりに差し掛かっていた。

 その不満をギターにぶつけた。ボディを蹴りたくなったし、弦を引きちぎりたくなったけれど我慢した。曲に合わせて、ソロを取った。アドリブは得意だった。自分の気に入らないことを感情的に、それでいて音楽理論という道標に沿って弾けばいいのだから、何も難しくはなかった。誰に聞かせるわけでもない、ここにしか存在しないメロディーを生み出しているのも、信仰心にも似た神秘性を感じないでもなかった。

 けれど、弾いていて思う。ここ最近は、大して上達を実感できなかった。

 その事実が、焦りややるせなさを生んでいた。こんなところで停滞している暇なんて無いのに、先の景色を見たいっていうのに、私の身体が、他の人間と同じスピードでしか歩んでいかなかった。

 一息をついて、スマートフォンを開いた。レッスンは、今週まだあと一回ある。それから先の休日で、どれだけ自分を磨けるか。いつもそこが自分の命日であるかのように思っているのだけれど、本当に死ねた日は一日だってなかった。

 首を振って、すぐに演奏に戻った。

 せめて、余計なことなんて、レッスン中は考えたくない。

 親指に、切れ込みを入れるように弦をなぞっていく。

 私はギターを弾く際に、ピックを使わない。あの薄いプラスチックの破片みたいなものを、いちいち管理するのが億劫でもあったし、なにより指の感触が好きだった。銃よりも、包丁で刺したほうが肉の感触を確かめられるという理論に、どこか似ていた。

「奈津乃ちゃん、そろそろ休憩にしましょう?」

 突然、耳に声が届いた。気配に全く気が付かなかったので驚いたが、まあそれ自体はいつもどおりなので私は入り口に目をやる。

 それから私は演奏を止めて、ギターを置き、音楽プレイヤーを殺した。

「もう、そんな時間ですか」

 気がついていたのに、わざとそう口にした。

「いつも頑張るんだから、奈津乃ちゃんは」

 部屋の入り口に立っているのは、ラフな格好をした、いつ見ても噛み切ってしまいたくなるような、めちゃくちゃ美人な女。

 彼女は、銀川せれな。私のギター講師だった。



「……もう少しで満足できそうなんですけど」

 私は椅子にまた座って、立て掛けたギターの弦を爪で引っかきながら、すこし嫋やかなニュアンスでそう呟いた。

「まったく。ギターが好きなのはわかったけど……」せれな先生は、少しだけ困ったような表情を浮かべた。「でも、ずっと弾いてたって、疲れて嫌になるだけよ。そういう身体の不満を伴った体験って、頭が覚えてるから、そんな状態で続けても良くないわ」

 先生は腕を組んで、閉じた扉にもたれかかった。

 髪が長くて、それでいて手入れが面倒なのか寝癖みたいなものが目立つ。身長は私よりも少し低いくらいだけれど、私よりもずっと細かったし、顔の作りも段違いで整っていた。何年前に作ったのかもわからないような眼鏡も、玩具みたいに似合っていた。

 一見すると年下にも見える女に、どこか迷惑そうに言われると、私もここに居座る理由なんてものは、面白いくらい綺麗に消えてしまった。

「……わかりました」筋肉を動かして頷いた。すると、本当に心から肯定していたような気がした。

「うん、素直でいいわ」

 私は、足元に置いてあったアンプリファイアの音量と電源を落として、シールドを引き抜き、そして少しだけ雑にギターを掴んでケースに戻した。

 急激に、部屋がもとの姿に戻った。私のいた痕跡が、こうしてみると風で吹くよりも簡単に消えてしまうという事実に、虚しさすら覚えた。

 先生はくるりと踵を返して扉を開け、軽い足取りで廊下に出た。私も、後ろ姿に着いていった。玄関に面している、フローリングの細長い空間だった。

「手を洗って、コーヒーでも飲みましょうか」

 歩きながら、私を見ないで先生はそう口にする。足音が、私のものよりもずっと軽い気がして、恥ずかしさすら覚えた私は、踏みしめた音が鳴らないように、なるべくつま先で歩いた。

「でも、ずっと弾いてないと、みんなに置いていかれそうなんです」

「奈津乃ちゃんは上手いわよ。私が教えた生徒の中でも一番」

「今まで何人くらい生徒がいたんですか」

 質問をしてから、少し私は先生の背中から距離を測った。

 それなのにせれな先生は、どうでも良さげに一瞬だけ考え込んで、どう見たって適当そうな口調で答えを口にした。

「奈津乃ちゃんで……三人目くらいかな」

「他の人って、上手かったんですか?」

 リビングに入った。照明が変わった。眩しさに、目を開けるのが嫌だった。眉間をフォークで刺されているみたいだった。

 振り返って、銀川せれな先生はにっこりと笑って、嘘なんてついていないのがどう見てもわかるような表情を、顔いっぱいに浮かべて、さらりと言葉を紡いだ。

「奈津乃ちゃんには、遠く及ばないわよ」

「そう、ですか」

 私は、思わず口元を両手で覆い隠さざるを得なかった。

 嬉しくも悲しくもない私を、悟られたくなかったからだった。



 リビングは、私が腰掛けるテーブルの周り以外は、よくわからないレコードやCDや本や、さらには古いゲームや弾いているのかわからないギターと、着ているのかわからないおしゃれな服などが、見事なくらい散らかっていた。先生には、片付けをする暇も無いのか、そもそもそんな能力すら無いのかは、わからなかった。そもそも彼女が、私のいない間はどんな生活を送っているのか、なんだか想像もつかない。

 この部屋は、入り口から右方の、テレビとソファが置いてあるエリアと、左方のキッチンとテーブルがあるエリアに別れているようだった。入り口正面には、大きな窓があった。ここから、昼間であれば陽の光が、目玉を潰されそうなくらいに入ってくるのだろう。

 意外なほど綺麗なキッチンで、先生はコーヒーを淹れた。何かこだわりがあるのか、彼女はいつも、豆からコーヒーを作ることに固執していた。どういう工程で生み出されるのか、興味のなかった私にはわからなかったが、別に私には、豆と缶コーヒーとの間に、それほどの違いがあるとも思えなかった。私の舌が、きっとばかなんだと思う。

 私に淹れたてのカップを渡してから、せれな先生は、テーブルの近くに置いてあるレコードプレイヤーを触り始めた。私がレッスンで通される部屋のスピーカーよりも、更に小さいものにコードで接続されていた。レコードプレイヤーもスピーカーも、買ってからさほどの時間が経っていないらしく、まだ新しい物のように見えた。

「奈津乃ちゃんの好きなプログレでもかけようか。何が良い?」

「ジャズを聴いて、イメージトレーニングしたいです」私はジャズ研究部の人間らしい答えを口にした。「ギターのやつで、何かおすすめってないですか」

「駄目よ。頭を切り替えたほうが良いわ」

「じゃあ……何でも良いです」

「プログレで好きなやつはないの?」

「マンダラバンドのセカンド」

「あれは……隣の部屋にあるから、ごめん」

「……なら、そこにあるやつでいいですよ」

 先生は頷いて、近くに落ちていたレコードを拾い上げて、慣れた手付きでセットしてから、針を落とした。私も、その一連の儀式めいた作業を、この手でやってみたいとは思っていたけれど、最終的に針を落とすのがどうしても怖くて、未だに試みたことはなかった。

 期待もせずに待っていると、流れてきたのはディス・ヒートのセカンドアルバムだった。練習が終わってからのくつろぎの時間には、わざと頬をつねるかのように、全く適さない音楽だけれど、それが今の私には、妙に心地よかった。

「で、奈津乃ちゃん」

 先生は私の前に腰掛けながら、薄く微笑みながら、優しく口を開いた。

「先週のレッスンに来れなかったのは、どうして?」

 まるで、夏休みの話を聞きたがっている同級生みたいな態度だ、と私は思う。

「それは、私用です」

「今日、あれほど執拗に、必死で練習してたってことは、奈津乃ちゃん、もしかして先週、ギターに関することはほとんどなにもしてないわね」先生は、私の手を見つめた。そこに全てが現れているかのように、言う。「私の出した宿題もやってないでしょ。単なる私用だとは思えないけど、なにしてたの?」

「……いや、ちょっと調べ物です」私は、申し訳なく思って、頭をかいた。「先生、あそこのレコードショップ、知ってますか? 駅から少し離れたところにある」

 せれな先生は、当然だという顔をして、大きく頷いた。



 先週の頭くらいの話だった。

 私がいつものように、この街に一軒だけあるレコードショップ「ニューバーンデー」で、プログレのレコードをじっと眺めていたときのことだった。

 店内はさほど広くはなかったけれど、ラインナップを音楽ジャンルで分けてあった。大別して、ジャズ、ロック、クラシック、ポップス。そのロックの中に細分化される形で、私の好きなプログレッシブ・ロック、つまりプログレが含まれていた。

 砂糖をまぶした古紙のみたいな匂いが、店内に漂っている。レコードショップらしさを、私はそれで実感していた。

 ここで、家にはプレイヤーがないから聴けもしないレコードのラインナップを、じっと眺めて静かに悦に入るのが、最近の私の趣味だったのだ。

 その隣に男性客が、前触れもなくのっそりと姿を現した。

 初老の、別になんてことはない普通の男性だった。不快感も、変な清潔感すらも感じない。年齢は、六十、七十くらいだろうか。

 プログレのファン層はこの年代の男性が大半だった。別に、日常的な光景といえばそうだった。むしろ、私のような女子大生がこんなところにいる方が、路上に落とした他人の私物くらい、彼からは奇妙に映っているのだろうか。

 けれど、そこで私はある噂話を思い出した。昨日、所属しているジャズ研究部に顔を出したときだった。先に集まっていた、三人くらいの部員たちが、つまらなそうな話をしているのを、近くで聞いていた。

 ――この町に、同じレコードを買い続ける爺さんがいる。

 どうせなにかのコレクション目的だろうと思って、私は軽く聞き流していたけれど、そのレコードがプログレッシブ・ロックであることと、バンドの名前がマンダラバンドで、そのセカンドアルバムをターゲットにしているという情報に、妙な興味を惹かれてしまって、気がつけば頭から離れなくなってしまっていた。

 私も、このアルバムのCDを持っているので、一度くらいは聴いたことがあった。プログレファンとしては、それなりに有名なバンドだけれど、何度も狂ったように買い続けるほどなのか、私の耳では、異常なほどの入れ込みを抱くようなバンドだとは、どうしても思えなかった。

 しかし、その噂の老人が、目の前のこの人なのだろうか。ジャズに比べると、あまり人が近寄ってこないプログレのコーナーを、じっと舐めるように見つめていたので、私は彼から距離をとって、少しだけ横に逸れた。

 白髪交じりの頭に、老人がよく着ている古臭い服装をしていた。よくいる爺さんだ、としか思えない。

 しばらく横目で観察していると、老人はついに、一枚のレコードを手にとった。そこは、最近買い取ったレコードなど、新入荷した商品を雑に並べておく棚だった。まさかと思って、見つかってしまうのも忘れてしまうくらい、私は目を凝らして彼を見つめていた。

 彼の手は、マンダラバンドのセカンドアルバムを掴んでいた。

 この人だ。間違いない。

 私はその時、指名手配犯を見つけたときのような、不謹慎な気持ちになっていた。



 へえ、なんて言って、せれな先生は、信じているのか疑っているのかすらも、よくわからないような息を漏らした。

「結局、その人はどういう目的だったの?」

「それが、未だにわからないんです。私も、考えてみたんですけど、さっぱり思いつかなくて。こういうのって本人にでも尋ねないと、一生わかりっこないですよね」

「店員さんには聞いてみたの?」せれな先生は自分のコーヒーを、苦そうにすすった。「噂になるくらいだから、なにか事情を聞いてるんじゃない?」

「さあ……。部員も、誰もそこまで突っ込んで調べてないみたいなんですよね」私は、そして気に入らない人間達の顔を思い出して、言った。「あいつら、雑談のネタにするだけで、調べようともしないんですよね」

「普通そんなもんよ」先生は、して欲しくもないのに頷いた。「危険な人物かもしれないから、大抵の人は、そんな奴には自分から関わらないものよ」

「でも……気になったら調べるほうが、絶対に良いですよ。あいつらなんて、結局その程度の、安い人間なんですよ。おまけに、件のマンダラバンドのセカンドを、誰かが持ってきて部室で聴いてたんですけど、プログレ自体知らないんですよ、あいつらって……。信じられませんよ。ジャズ研だからって、ジャズだけ聴いてれば良いって思ってるんですよ」

 私は、コーヒーの溜まったカップをじっと眺めながら、そこに嘔吐するみたいに話していた。

 そんな私の愚痴みたいな話に、先生は笑って相槌を打った。それだけで、私はこの人のことが好きだった。

「はは、気にしてすらいないのよ。プログレがどうとか、ジャズがどうとか。変な爺さんが買い集めてる、変なバンドの作品としか思ってないんでしょうね。色眼鏡で見始めたら、正常に鑑賞するのは難しいわ」

「先生は、どう思います?」

 視線を上げて、先生の顔を見ながら、私は切り出した。

 心のどこかで、確証なんて無いけれど、もしかしたらこの人なら、こんな変わった老人の謎なんて、一気に解き明かしてしまうんじゃないかって。

 先生は、それでもただ微笑むだけだった。

「うーんどうかな」

 暗くなってきて、何処も見えはしないはずなのに、先生は窓の外に視線を向けた。

「もし、奈津乃ちゃんが解き明かせるなら、部活のみんなも喜ぶんじゃない?」



 玄関口からぱたぱたと、私に手を振るせれな先生が見えなくなる所まで出て来て、ようやく一人になったのを実感した。

 急に、ギターの重さが煩わしくなると、私は一体何をやっているんだという思いが、手首を切ってしまいたくなるくらいに、強まってしまう。

 せれな先生の家、つまり駅から少し離れた分譲マンション、そのエントランスを出てしばらく歩くと、田んぼや森や、薄暗い路地裏が現れる。私はここを通る時に、明るい気持ちだったことは、一度としてなかった。

 ――私が解き明かせるなら。

 そう先生は言った。

 できれば苦労しないって、どうしてその時に言わなかったんだろう。

 立ち止まって、田んぼを見つめた。もう田植えも終わっている。五月だった。どこか生臭いような、強迫観念に近いような臭いが漂ってくる。綺麗に揃っている、整列された緑の草の中で、一本だけへし折れているものが見えた。

 せれな先生は、私がそれほどの人間だって、本気で思っているのだろうか。

 スマートフォンを起動して、イヤホンを繋いだ。現実逃避でもするのが一番だったのだろうけれど、頭にはあの謎の老人と、私に微笑みかけるせれな先生の顔しか、浮かび上がってこなかった。

 いっそ開き直って、私はマンダラバンドのセカンドアルバムを再生した。わざとらしいくらいに荘厳な音楽が、私の四肢と一体になるような感覚がある。そのまま駅に向かって、黙って歩いた。

 私が謎を解くなんて、難しいと自覚しているけれど、ジャズ研の連中なんかには負けたくなかった。私を受け入れないあいつたち。私よりも鈍いあいつたち。そして、私なんかよりも、ずっと人間関係が上手くいっている、あいつたち。

 やっぱり、マンダラバンドの再生を止めた。まったく違うジャズなんかを流し始めたが、それなんかも気乗りしなくて、私は結局、イヤホンを耳から離した。練習をしすぎたのか知らないけれど、もう何を聞いてもうるさいとしか感じなかった。暑苦しい、人混みに放り込まれたときにも似ていた。

 すれ違う、私と同じようにギターを担いで、音楽を聴きながら歩く若者。

 わざと見ないように、目を伏せたが、背中の痒い部分のように、意識が向いた。

 あいつらとは違う。

 違うんだ。

 私はきっと。

「私は、あいつらとは違うの…………」

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