予想ができないことはいくらでも起こり得る
ガラスが割れるけたたましい音は、神経を集中させていた家からした。
「ギル!」
『────』
猫が内容が理解できない言葉で何かを言った。
「セラ、行くぞ」
「うん」
中で何が起こっていようと、魔女はしばらくギルが止めてくれる。
エリオスとセラは、いち早く中にと走り出した。
*
家の中に入り、向かった先はかつてアレンが死体となり見つかった部屋だ。
ドアが開いていて、中に駆け込む。
「アレン!」
アレンは壁際にいた。頭を打ったのか、頭を押さえながら立ち上がるところだった。
その目は前を凝視していたが、室内に入ってきた者たちに向けられた。
「──セラ、エリオスも、お前ら、なんで」
どうしてここにいるのか、混乱したようだった。
セラはアレンの無事を確かめ、室内に視線を巡らせた。
アレンが向いてた方。前方に、彼女はいた。
アルヴィアーナは光る帯のようなものによって、がんじがらめになっていた。
「アルヴィアーナ……何が……」
アレンは混乱に目を揺らしながらも、首に触れた。
「何を──何かされたの」
アルヴィアーナは、どうやってアレンを殺そうとしたのか。以前、分からなかったことがある。
慎重に尋ねると、アレンがはっとセラを見て、「違う」と視線を逸らした。
何かあった。そんなことは分かっている。窓が割れるようなことが起きたのだから。
「それより、お前ら、なんでここにいるんだ。……アルヴィアーナはどうなってる」
問いに、エリオスが進み出た。彼は真っ直ぐに弟弟子を見る。
「私たちは、アルヴィアーナをお前から離すために来た」
「……どういうことだ」
「アルヴィアーナは、この国を滅ぼそうとしている」
アレンは、目を見開いた。
「何、言ってる」
「事実だ。アルヴィアーナは、他国と繋がっている」
「──そんなはず」
それは、本当であり、若干の虚構が混ざっていた。
ギルは魔女は普通は人間に──他国に手を貸さないと言った。だから本当のところはこの時点では不明だ。
しかし、この先アルヴィアーナは他国に渡り、この国への侵攻の原因となる。
「アルヴィアーナが、密偵か、何かだって言うのか」
他国と繋がっていると言われて、連想するところは一つだろう。
アレンは呟き、瞠目する。瞳がゆれる。
「彼女は、魔女と呼ばれる存在だ」
「魔女……?」
彼にとっては急なことばかり、新たな事実ばかりが積み重ねられる。
そして、アレンが理解できないまま、その言葉を呟いたときだった。
バチンッと何かが弾け千切れる音がした。
「やめてやめてやめてやめて! それ以上、言うな!!」
口が自由になったアルヴィアーナが、叫んだ。
「まさか、本当なのかアルヴィアーナ」
「──」
アルヴィアーナは何も答えなかった。答えられなかった、のだろうか。
その無言をアレンは肯定と受け取った。何でだよ、と彼は絞り出すように言った。
「俺は、お前が何者でも、過去に何をしていたとしても、それでも良かった。今お前がここにいるのは──」
「──嘘よ!!」
女が叫び、遮った。
声を向けられた側が、一瞬すくみ、気圧される勢いだった。
「そんなの嘘……!」
悲鳴にも聞こえたのは、気のせいか。
その女の表情に泣きそうなものが混じり、悲痛に感じたのは。
嘘、嘘、嘘、と女は繰り返し叫んだ。
狂ったような叫びに、セラたちは口を開けなかった。完全に圧倒されていた。
しかし、
「私達は、誰からも愛されない! だから、殺すの!!」
この言葉に、切れた者がいた。
否、切れたように、反論した者がいた。だからこうするのだ、と言う内容、その前提に。
「愛してるって言ってるだろうが!」
叩きつけるような、激しい愛の言葉だった。
先ほどまで明らかに混乱するばかりだったアレンは、目付き悪く目の前を睨むように捉えた。
「お前が何者であれ、過去に何をしていたんだとしても、ここにいたお前は絶対にそんな人間じゃなかった! だから俺はお前が一人の女としてここにいるなら、今だけを見ようと思った!」
彼は、前のめりになり、止まらない。
「だから、俺は」
「アレン」
「離せ、セラ!」
アルヴィアーナに近づこうとしたから、思わず腕を掴むと、振り払われる。
セラは、反射的に再び腕を捉える。両手で。
「アルヴィアーナに近づくのは危ない!」
「何が危ない! ──そのときはそのときだ!」
「──!」
乱暴に、振り払われた。
セラがもう一度伸ばす手は、数秒遅れた。アレンに気圧された。
「来ないで!」
アレンが近づく方から、風のように吹き付ける圧を感じた。一瞬、呼吸を失った。
アルヴィアーナを制御しているであろう光の帯が、綻んできている。
『おい、もうギリギリだぞ! 抑えきれねえ!』
猫が、いつの間にか部屋の中にいた。
緑の目を険しく、猫は緊迫した声で言った。
『やるならすぐやれ!』
やれと言っても。
前を見ると、アルヴィアーナにたどり着きかけたアレンの腕を、エリオスが掴んだ。アレンの歩みを止める。
「アレン、下がれ」
「エリオス、お前──止めろ、アルヴィアーナは」
「アレン……!」
お願いだ、下がってほしい。
セラはもう祈るような気持ちで、兄弟子を呼んだ。
アレンは止まらざるを得なくなっている。セラの手は振りほどけたが、エリオスではそうはいかない。
「分かれ、アレン。お前は、自分を害そうとする力を感じたはずだ。アルヴィアーナは、お前を殺そうとしたんじゃないのか」
「──それでも」
なぜ。
目の当たりにして、なぜ。
アレンは、ほんの少し間を空けたが、拒否の言葉を発した。そして、腕を降り、エリオスの手を外す。外れた。
「それでも、俺は」
兄弟子は、アルヴィアーナに背を向け、エリオスに対するように立った。
どうして。
セラは、絶望的な心地になった。
どうして、こうなる。どうして、アレンはこうなっても、まだ。どうして。
「──そこまで思うなら」
呆然とするセラの前で、呟いたエリオスが剣を抜いた。
「エリオス──?」
「セラ、外に出ていろ」
エリオスは、セラの方を見ない。
彼が何をするつもりなのか、具体的に推し量る前に駄目だと思った。
「エリオス、駄目!」
「セラ、時間がない」
「でも、それは」
駄目だ。
『あ』
猫が、軽い音を、一つ溢した。
ほぼ同時。
何かが割れたような、けれど掴み所のない音がした。それでも例えるなら、分厚いガラスが粉々に砕けたとか想像できそうな音だ。
音が耳に響いている最中に、背中から何かにぶつかって息が詰まった。
「……ぅ、」
壁に叩きつけられたのだ、と分かるには少しかかった。
目を開いたときには、壁際に崩れ落ちていた。
そして、部屋の中に『異物』が現れていた。
前。彼女がいた場所。──一人の女だったものがいた。
魔女。
圧、と言うのだろうか。殺気と言い表すには異なる、単純にこちらを圧迫する見えない「力」を感じる。
「消すわ。私がここにいた証拠、全てを、無くす。私は、ここにいなかった、何もなかった、どうあっても私という存在をみてくれる存在なんていなかった、そんなもの夢物語だった」
「アルヴィアーナ……!」
アレンの声は、横から聞こえた。
「私は、愚かな夢を見ていた──」
魔女が顔を上げ、乱れた真っ黒な髪の間から目が見えた。
「魔女」という生き物だと思った。
その目に捉えられた、と自覚した瞬間、飲まれ、終わると感じた。
目は、底知れぬ黒だったのだ。どこまでも、どこまでも沈んでいくかのような澱みを宿した目だった。
風が吹き乱れる。窓ガラスがなくなろうと、外は雨も降らず、風などそれほど吹いていなかったはずなのに。
風の中心は魔女で、この部屋にだけ嵐が来ているようだった。
風に色があるはずはないのに、吹き乱れる風が黒く動いていた。
そして、黒い風が集まる中心、魔女の背後に闇が広がる。大きくなる。
黒より黒く、魔女の目のように、どこまでも沈んでいきそうな混沌がある闇から幾つもの手が伸びる。
死を感じた。
あれに触れれば、死ぬのだと思った。すでに死んだと思った。
もう、何も出来ない、と。
「そこまでだ」
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