第9話 ここは地の果て飛龍隊
5分と経たずに飛龍たちは食事を終え、飛龍乗り達も大礼服から近衛親衛隊の濃紺のジャケットと赤い騎乗ズボンの制服に着替え、いよいよ実際に飛龍に乗る事になった。もっとも、しばらくは歩くだけで飛ぶのは先の話である。
「馬と扱いは同じですが、慣れれば飛龍の方が人のやりたい事を考えて動いてくれます」
テオドラのその一言を聞いてモーリス以外は安心して飛龍に跨った。つまり、飛ぶことを考慮に入れなければ馬より扱いやすいのである。
「俺、馬に乗った事ないんだ」
一人取り残されたモーリスは皇帝と謁見した時と同じくらい惨めな気持ちになった。
「それはバスティア元帥から聞いている」
ブレスト司令はそうは言うが、モーリスの置かれた状況が変わるわけではない。
「というわけでフーク、助けてやってくれ」
「それじゃあエスクレド少尉、私の後ろに乗ってください」
テオドラはスパルタカスに横乗りで乗って手綱を取った。モーリスはテオドラの後ろから恐る恐る鞍に跨り、2人して手綱を握って演習地と称する裏の原っぱへと歩き出した。
巨大な飛龍の一団が草原を闊歩する。近隣の農民たちは事前に説明は受けてはいたが、皆一様に農作業の手を止めて世にも珍しい光景に驚いていた。
「ほら、しっかりして下さい」
先頭を行くスパルタカスからテオドラが指示を飛ばし、モーリスを補助する。モーリスは船とは違う不思議な感覚に呆気に取られてテオドラの指示のまま手綱を操るばかりである。
「こりゃあ、馬よりラクダに近い乗り心地だな」
帝国一の騎兵と自他ともに認めるギョームだけに、初めて乗る飛龍でもその騎乗姿は堂に入っていた。2本脚の軽飛龍は馬よりも揺れがある。
「こっちは速い牛みたいだ。馬より楽ですね」
軽飛龍ほど素早くはないが、重飛龍にはより安定感がある。ジャンヌは既に内心このアメジストにたまらない愛着を抱き始めていた。
「馬と殆ど変わらない装具ですが、改良の余地はありますな。例えばこの鐙一つとっても…」
殿のベップはリウィウスの一歩歩くごとに新しい発見があり、頭がむしろ混乱していた。だが、その混乱が進歩の種である事をよく知っている。
「各自少しでも早く乗りこなせるように努めてくれ。来月のパレードには参加できるようにな」
これに並走するのが馬に乗ったブレスト司令である。むしろ道行く人を驚かせたのは、隻腕である事が信じられない手綱さばきで馬を操る高名な稲妻ブレストの姿であったかもしれない。
とにかく初日の事で飛龍に慣れるのが第一であり、一行はそのまま夕方まで延々と飛龍を歩かせ、時に走らせた。最初はおっかなびっくりだったモーリスも、生来の運動神経と冒険心を発揮して急速にスパルタカスに順応し、最後はテオドラをブレスト司令に託して単身スパルタカスを操れるようになった。
「全力で走ればどのくらいのスピードが出せる?」
「そうですね。馬よりは落ちますが、人よりは間違いなく速いです」
ギョームからテオドラへの何気ない質問がモーリスの冒険心に火をつけた。
「大尉、ひとつ思い切り走らせてみませんか?」
「フーク、可能か?」
「じゃあ、今日の締めくくりに走らせてみたらどうです?」
「よしエスクレド、あそこに道が横切っているだろう?あそこまでどっちが速いか競走だ」
「よっしゃ、やりましょう」
モーリスとギョームは横に並ぶと、テオドラの合図と共に同時に拍車を入れて飛龍を走らせた。
飛龍は乗っている2人の意図を知っているのでゴールライン代わりの道を目指してぐんぐんと加速する。ギョームにしてみれば慣れたものだが、モーリスにはそれは初めての感覚であり、たまらない快感であった。
最初は互角だったが、残り3分の1というところで経験の差が出始め、最後は飛龍の身体半分の差でギョームが先にゴールを通過した。
「こりゃあいいな。馬より迫力がある!」
ギョームは年甲斐もなく興奮している。
「おやっさん、騎兵って気分良い物なんですね」
モーリスも負けたとはいえ、全身に飛龍乗りとなった喜びがみなぎっていた。
「弾が飛んで来なければな」
2人は笑った。実に爽快な気分であった。
「これで空を飛ぶってどんな気分ですかね?」
「素晴らしいだろうな。早く飛んでみたいもんだ」
そうしていると重飛龍も同様に走ってくる。こちらはほぼ差なくゴールした。
「脚が短いからでしょうな。登り坂より下りで少し遅くなります。これは貴重は知見ですよ」
ベップも内心は興奮しているのが隠しきれていない。ジャンヌだけは少し冷静であった。
「女伯、元気がないですな?」
ベップがそれにいち早く気付いた。
「いや、そんな事は。だが、ここは何もないなと思って」
ジャンヌは夕陽を背に道の続く先を眺めた。見渡す限りの草原に道が1本続いているだけで、視界には本当に何もない。とどのつまり、飛龍隊は恐ろしく辺鄙な所に置かれているのだ。
一行は日の沈まないうちに本部に引き上げ、飛龍を水で洗ってやり。夕食を摂らせた。大きいうえに鱗があるので手入れは馬より大変である。
日が落ちた頃に飛龍の手入れと後片付けが終わって本部で夕食となった。夕食を終えて将校全員で初雪亭に入ると、既に地上班の面々がすっかり出来上がっていた。コクトー神父さえワイングラスを店の片隅のピアノに乗せて何やら陽気な音楽を奏でている。
「あら、これは偉大なる稲妻ブレスト閣下。よくぞお越しを」
カウンターで地上班の誰よりも泥酔している銀髪のご婦人が、酒保商人にしてこの初雪亭の主であるシモーヌ・モランであった。20歳と言えばそう見えるし、40歳と言ってもそう見える。不思議な女だ。
「このような僻地にかようなる飲んだくれの荒くれを高給をもって集めて下さり、まこと感謝いたします。将来の大儲けと閣下に乾杯!」
モランは誉め言葉とも悪口ともつかない事を言って、手にしたビールジョッキを一瞬で空にした。
「よし、全員聞いてくれ!」
それを見ていたブレスト司令が号令すると、地上班の面々は一瞬で静かになった。全員がブレスト司令に全幅の信頼を置いている証である。
「今日は近衛飛龍隊の事実上最初の日であり、記念すべき日だ。というわけで、皆に私から一杯奢る」
地上班は黙っていた時間分の利子を付けて大歓声を上げた。
「モラン、祝い酒を頼む」
「かかる時に適当なビールやワインでは酒の神への冒涜で、祝い酒は北東部産の上物のスパークリングワインと決まっています。これは啓典の教えや帝国憲法より優越する絶対の掟というもので」
モランはブレスト司令の行動を予見したとしか思えなかった。そのスパークリングワインがカウンターの下から続々と出てきて、居合わせた人数分のグラスと共にカウンターに並んだのだ。
「近年最大の当たり年のワインを用意しました。これを目出度き門出に供することが出来るのはいみじくも近衛親衛隊御用の酒保商人として身に余る栄誉であり、大儲けであり、酒と商いに美学を求めて生きる女、シモーヌ・モランのその美学の体現なのです」
胡散臭い口上を述べながらモランは泥酔しているのが嘘のような手つきで次々ワインの栓を抜き、さながら曲芸のように両手にボトルを持ってグラスを透明で泡立つワインで満たしていく。
しかも如何なる魔術を用いたのか、カウンターに並べたボトルの中身を一滴も残さず、全てのグラスに均等にワイン入れて見せた。それがモランの美学なのだろう。
「よし、全員グラスを取れ」
カウンターに全員が群がり、じきに全員の手にグラスが行き渡った。
「この飛龍隊の周りには何もない。だが、飛龍隊がある。飛龍隊に乾杯!」
「乾杯!」
号令と共にワインはたちまち飛龍隊一同の腹の中に納まり、再び初雪亭は喧騒に包まれた。
「さあ将校さんも飲みなさいな。命の保証が無いのに酒を飲まないでどうします?死に赴く者の為にこそ神は酒を作りたもうたのです。ねえ、神父様」
「ワインは神の血ですからな」
コクトー神父はピアノを弾く手を止めて返事をし、ワイングラスを一気に空けると、再びピアノを弾き鳴らし始めた。それに合わせてアハメド医師が故郷の物らしい不思議な踊りを踊る。それは飛龍隊がとにかくとんでもない所だという事を象徴するような奇妙な光景であった。
飛龍乗り達もとにかく飲んだ。ブレスト司令も、テオドラも飲んだ。今まさに敵が襲撃してきたら間違いなく全滅だろう。
飛龍乗り達の中で一番盛大に飲んだのはモーリスであった。そしてモーリスは酔っぱらって怪しい足取りで外に出た。初雪亭の壁に梯子がかかっていて、モーリスは意味もなくそれを登って屋根に立った。
思うほどには離れていないはずの帝都は地平線の向こうである。どちらを見回しても、農家の灯りが僅かに数えられるほどあるばかりで、本当にここには何もないのだ。
モーリスはそれを確認すると屋根の上にあおむけに倒れた。海でもそうであったように、空の月と星だけはこの世のどこに行っても平等にある。そこまで気付いてそのままモーリスは寝てしまった。
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