僕の家の秘密 

鷹山トシキ

第1話 タイムスリップ

 僕はひまわり町に住んでいるしがない派遣社員だ。ひまわり町はつくば市からほど近いところにある。11月15日で30歳になるが、まだ結婚もしていない。僕の家は結構、いや、かなり変わっている。

 僕の祖先は戦国時代、忍者として活躍した赤扇伊賀丸あかおうぎいがまるだ。


 間諜の歴史は、人類の歴史とともに古く遡ることができる。その発祥については日本発祥説の他に、インド発祥説、中国発祥説などもある。『孫子』用間篇を始め、古来、間および諜を説く兵書は多い。飛鳥時代には、聖徳太子が、大伴細人おおとものほそひとを「志能備しのび」として用いたと伝えられる地域もあるようだが、『日本書紀』等にそのような記載はない。


 忍者・忍術は、源平時代以後に日本で発祥したものである。忍者、忍術は日本国内各地に分かれ、いくつかの集団を形成していた。文献上にその名が見られる忍術流派は71流を数え、伝書及び資料の確認される流派は31流とする説がある。中でも甲賀や伊賀を本拠としていた忍者集団は有名である。これらの場所には多数の忍者屋敷があり、日々の訓練が行われていたと考えられる。甲賀と伊賀は、鎌倉時代にはその領地の大半が荘園で木材の供給地だったため守護や地頭による支配を受けなかったが、戦国時代になり荘園が崩壊すると、地侍が数十の勢力に分かれ群雄割拠した。各地侍が勢力を保つため情報収集戦とゲリラ戦が日夜行われ、「忍術」が自然発生したのではないかと考えられている。


 伊賀・甲賀・雑賀、さらには柳生・根来等の紀伊半島は、天武天皇が壬申の乱の直前に住んでいた場所であり、後醍醐天皇の南朝が置かれるなど、特殊な霊地が多い。


『太平記』で、高師直が石清水八幡宮焼き討ちに「忍び」を使ったと記されるのが文献上の初見である。長享元年(1487年)の室町幕府将軍・足利義尚率いる幕府軍と六角高頼の戦いでも、六角氏は甲賀・伊賀と連合軍を組んだ。特に伊賀忍者は、古代、琵琶湖が伊賀国内に存在し、そのため土質が農業向きではなく特殊技能を体得し国外へと移動して忍者集団を形成したものという。


 天正13年、羽柴秀吉によって甲賀の侍衆は改易処分となり甲賀は秀吉の家臣中村一氏の支配となる。これにより甲賀の元侍衆たちは浪人となり没落していく。これを「甲賀ゆれ」と言う。


 なお、戦国時代には、伊賀・甲賀組や紀州根来衆の他に甲斐武田氏の透破(三ツ者)、越後上杉氏の鳶加当他、相模後北条氏の風魔党、奥州伊達氏の黒脛巾組、加賀本願寺の修験、伊勢長島一向一揆、出雲尼子氏の鉢屋一党など各地方諸文献に草等の忍者らしき記載が有る。

 

 伊賀衆甲賀衆の一部は本能寺の変の際に、堺(現・大阪府堺市)の見物に訪れていた徳川家康を護衛して伊賀越えを行なったことから、徳川幕府に召抱えられるようになった。この際、200名程の伊賀衆が仕官したが、1582年から1615年の間に75名が死亡しており、記録によれば危険な城攻めの前線などに投入され戦死した者が多かったという。その過酷な任務に対し、知行は10石程度と薄給であった事もわかっている。


 伊賀越以前からの家臣であった服部半蔵は重用され、江戸城の城門の一つにその名が付けられ、現在も東京の地名「半蔵門」として残っている。彼らは、徳川幕府のために諸大名の内情を探るだけでなく、江戸城下の世論調査、大奥の警護、空き家となった諸屋敷の管理なども担当し、同心として江戸城下の治安の警護に当たった。


 徳川家光(家光体制)時、老中(松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛)、御側(中根正盛)は、武断政策を強硬に進めた。その結果、浪人が増え社会問題化し、島原の乱や慶安の変といった大規模な事件(一揆)が発生した。大目付として諸国の様子の監視を任とした中根正盛が国目付(諜報員)を諸方に派遣して、その動きを詳細に調べさせた。島原の乱に出陣した討伐上使・松平信綱を近江国水口宿で出迎えた甲賀之古士共(甲賀衆百余名)は、かねてより存知の間柄にあった信綱に参陣への懇願をしたが、集団的な参陣は認められず10名のみが随行を許されることとなる。信綱より10名に命ぜられる内容は、甲賀忍者が得意としたゲリラ戦ではなく、陣所から城までの距離、沼の深さ、塀の高さ、矢狭間の実態などの諜報活動(隠密活動)であった。一揆軍の立てこもった原城内を探索したり兵糧を盗み取るなど活躍したものの、落とし穴に嵌って敵から石打にあい半死半生で逃げ出したこともあった。結局、彼ら10名は奮闘も空しく軍功を認めらることなく、戦後に仕官することは叶わなかった。個人的な諜報能力の高い者のみが、幕府や諸藩に取り立てられる時代になった。島原の乱は忍者が最後に活躍した戦いであると、言われている。 隠密機関の成果として慶安の変の際に、武功派で幕閣に批判的であったとされる紀州藩主・徳川頼宣を幕政批判の首謀者とし失脚に追い込むことに成功したことが挙げられる。強固で中央集権的な江戸幕府の監察活動が常態化し始めたのは、この頃からである。


 戦国時代末期の侍衆改易処分で領地を失い没落した甲賀古士は幕府に対して仕官という形での救済を訴願している。この時一緒に提出したのが『萬川集海』である。


「御庭番」は忍者と思われがちだが、八代将軍・徳川吉宗が紀州藩から連れて来た薬込役を伊賀者と同格に格付けしただけに過ぎず、忍者とはかかわりがない。土地に残った伊賀衆甲賀衆はそのまま百姓身分化した。


 マシュー・ペリーの率いる黒船が浦賀沖に来航した際、藤堂藩の無足人沢村甚三郎が調査のために船上パーティーに日本側随員として参加し、パン、タバコ、蝋燭、便箋を持ち帰った。これがいわゆる忍者の活動の最後だった。 明治維新期になると甲賀古士らは一転して倒幕となり甲賀隊を結成して戊辰戦争に参加するも、忍術書に見られるような術は実戦に何の役にも立たなかった。


 9月の連休はつくば山温泉に出かけた。地下風呂やローマ風呂の他、屋上には露天風呂がある。昼過ぎのつくばの景色を眺めた。お昼はつくばセンター駅ビル内にある、魚問屋で食べた。サーモンやとろ、アナゴの乗った丼モノ。

 愛車ミニクーパーの調子がおかしい。尾灯が切れ、ウォッシャー液も出なかった。ディーラーに赴いたら無料で修理してくれた。鬼滅の刃がブームで、25日は無限列車編がテレビで放映され、秋からは遊郭編がスタートする。アタック25が終わった。何と、46年も続いた。

 

 伊賀丸は伊賀国出身だ。

 伊賀国では、藤林・百地・服部の上忍三家が他の地侍を支配下に、最終的に合議制を敷いて、戦国大名に支配されない地域を形成していた。外部からの侵略に対しては結束して戦い、織田信長が伊賀国を支配するために送り込んだ築城奉行・滝川雄利を追放、その報復として攻め込んできた織田信雄の軍も彼らは壊滅させている(第一次天正伊賀の乱)。改めて敵の一部を調略してから、信長が大軍を編成し攻め込んできた際に、その他の伊賀国の忍者集団は壊滅的な打撃を受けた(第二次天正伊賀の乱)。百地丹波以下100名が紀州の根来へと落ち延びたと言われる。

 伊賀丸は天正伊賀の乱の後、常陸の小田氏治おだうじはるの配下に加わった。

 

 11月1日  

 茶の間でツタヤで借りてきた大河ドラマ『真田丸』のDVDを観た。主演は堺雅人、ヒロインは長澤まさみ。今は亡き、竹内結子も出ていた。

 ジョギングから親父が帰ってきて、イソジンでうがいをして炬燵こたつに入るなり話をはじめた。親父のおさむは建築家だ。

「すぐそこに交番あるだろ?交番長の海老名えびなは古い友人なんだが、最近幼い子供が次々に行方不明になってるそうだ」

夜道怪やどうかいの仕業かも知れないね?」

 祖母の梅が昆布茶を飲みながら言った。

 夜道怪は子取りの名人のような妖怪として伝承されており、秩父では子供が行方不明になることを「夜道怪に捕らえられた」「隠れ座頭に連れて行かれた」という。比企郡では「宿かい」という者が白装束、白足袋、草鞋、行灯を身につけて、人家の裏口や裏窓から入ってくるといわれる。


 民俗学者・柳田國男の著書においては、夜道怪の正体は妖怪などではなく人間であり、中世に諸国を修行して旅していた法師・高野聖のこととされている。武州小川(現・埼玉県比企郡小川町)では、夜道怪は見た者はいないが、頭髪も手入れされておらず、垢で汚れたみすぼらしい身なりの人が、大きな荷物を背負って歩く姿を「まるで夜道怪のようだ」と言うことから、夜道怪とは大方そのような風態と推測されている。


 風呂に入ろうとしていると、親父は炬燵のウンチクを話し始めた。

 炬燵は中世室町時代に囲炉裏の上に櫓を組み、蒲団をかけた物に起源を求められる。囲炉裏を床より下げ、床と同じ高さと蒲団を置く上段との二段の櫓を組んだ足を入れられる掘り炬燵となった。更に囲炉裏の周囲まで床より下げ、現在の掘り炬燵の座れる構造の腰掛け炬燵ができた。大炬燵と呼ばれる、近世江戸時代に大勢が入る炬燵に使われた。炬燵は日本では火鉢とともに冬には欠かせない暖房器具として発達した。当時は、熱源として木炭や炭団(後に練炭、豆炭)などを用いた。熾きた炭として紙や灰で酸素供給を減らし、補充間隔を延ばして使っていた。


 寺院や武家では火鉢が客向けの暖房器具で、炬燵は家庭用であった。そのため「内弁慶」という言葉と同様に、外では意気地がないが家庭中では威張り散らす人を「炬燵弁慶」と言う。


 江戸時代中期には置き炬燵が広まった。熱源部分に囲炉裏の代わりに火鉢を用いたものである。置き炬燵は掘り炬燵とは異なり、移動可能であることを特徴とする。江戸時代の炬燵の様子を描いた絵日記としては、石城日記が挙げられる。


 1909年(明治42年)、イギリス人陶芸家バーナード・リーチが、正座が苦手であることから東京・上野の自宅に作った掘り炬燵が、住宅向け腰掛け炬燵の最初である。小さな掘り炬燵でも腰掛け炬燵として使えるように、足を下ろす穴よりも囲炉裏になる穴が深く掘られ、耐火性能を確保している。炭を床面よりもかなり深くに置く事になり、補充・灰掃除が大変なことと、一酸化炭素中毒を起こしやすいことが欠点であった。志賀直哉、里見弴が随筆で誉めた事が宣伝となり、昭和初期に日本全国へと普及した。それにより、熱源部分の分類であった掘り炬燵と言う名称が、腰掛け炬燵の意味となった。


 この深い囲炉裏での炭の使用の不便を避け、練炭コンロを入れて使う練炭炬燵も普及する事となる。触媒を上に乗せ一酸化炭素や臭いを削減した掘り炬燵専用練炭コンロもある。また、燃料に豆炭を使う豆炭炬燵も1960年代からある。熱源部分に豆炭を入れ、囲炉裏や火鉢の熾きた炭の灰の厚さによる温度調整に替わり、ダンパーで通気量調整ができる(近代は住居の気密性の高さに対応するため一酸化炭素を減らす触媒を付けている場合もある)。触媒部分は消耗品で、中毒死や火災を避けるため毎年の交換が必要である。電気炬燵は大正後期に発売されたが、家庭にはなかなか普及しなかった。


 一方大正時代には固定式の堀り炬燵に変わって移動可能な炬燵が出始めた。これは木製の囲いの中に火鉢状の熱源を入れるものであり、相当に普及した。しかし囲いがあるために脚が伸ばせないという欠点があった。そのため座卓状のものに脚を伸ばせるよう熱源を上部に装備する炬燵の模索も始まった。


 大正後期には移動可能でかつ脚を伸ばせる“上部加熱式やぐらこたつ”というべき炬燵の実用新案が2件登録されている。1922年(大正11年)に東京市の平田東一が登録したものは、テーブルの天板下面に多数の電球を取り付けたものである。1924年(大正13年)には東京市の帝國電気株式会社が、座卓の天板下部に反射板付き電熱器を下向きに付けたものを登録している。この2件のアイデアが製品として商品化されたかは明らかでない。


 その後1932年(昭和7年)に富山県の井田源蔵が申請し1935年(昭和10年)に登録された実用新案がある。これはこたつ内で脚を伸ばせるように、やぐらの天板下面に断熱材と反射板を取り付けた上でその下に熱源を置き、更に伸ばした脚が直接触れないように熱源の下に金網を設置するというアイデアである。この実用新案を基に1935年に“安全反射コタツ”の名称で商品販売が開始された。熱源は最終的には電熱式になったが、当初はブリキ製の引出しに灰を置きそこに炭を入れるものであった。販売力の問題から販路はほぼ北陸に限られていたようである。


 実用新案の期限が切れた昭和30年頃になると“上部加熱式やぐらこたつ”への参入が活発になる。1957年(昭和32年)には東芝がニクロム線熱源の「電気やぐらこたつ」を発売しており、その性能・価格・販売力から全国的なヒットとなった。以後熱源は赤外線などに変わるものの、長期に亘ってこの形式の炬燵が主流になった。


 過去に販売されていたレモン球式は電熱線自体から可視光線とともに近・遠赤外線を出していた。また、最近の製品でも石英管ヒーターを搭載した安価なモデルは赤い光を出す。これは構造的に、裸電球に手をかざすと暖かいのと原理的に似ているが、発熱体のニクロム線が太く赤外線放射に特化しているため電球ほど明るくはない。ヒーター管の形式によっては可視光線を出さないものがある(一部のシーズヒーター管など)。最近の製品は電源を入れても暗いままか、それほど明るくない。


 当初発売されていた電気炬燵は熱源部分が白かった。しかし、当時多くの人が「これで本当に温まるのか?」と疑問視してなかなか購入しようとはせず、売り上げが伸びなかった。そこで企業は熱源部分を赤くして温かさがきちんと伝わる様に見せたものを1960年頃に発売したところ売り上げが伸びた。

 

 11月2日の夜、夢枕に亡くなった母方の祖父が現れた。祖父の勝蔵かつぞうは3年前、心筋梗塞で呆気なく亡くなった。

「13時にチャイムを100回押してみろ、魔法を操れるようになるぞ」

 土曜は仕事が休みだったので、おふくろが作った焼きそばを食べ終えるとチャイムをピンポーン♪ピンポーン♪と押し始めた。

「何やってんのよ!?」

「うるせーよ!!」

 おふくろと親父は怒ったが、屈することなく連打した。

 100回押し終えると空を飛べるようになった。

  

 日曜、僕は空を飛んで街を散策した。

 

 茶の間にある振り子時計の中を開けた。何かが入っていた。🔑

 僕は不思議な鍵を見つけた。

 そういえば、庭にある物置の中に謎の鍵穴があったな?

 僕は物置に入った。🧱🧱壁のところに鍵穴がある。鍵を差し込んで、捻った。ガチャリ…ガァッ。  🧱⬛🧱

 壁がスライドして不思議な空洞が現れた。

 🔦懐中電灯をオンにした。

 奥に進む。伊賀丸が使っていたであろう忍具を見つけた。

 苦無くないを手に入れた!

 サイズは大苦無(13 - 15cm程)と小苦無(8 - 10cm程)がある。

 平らな鉄製の爪状になっていて、壁を登ったり、門扉などの備えが厳重で潜入困難な場合に壁や地面に穴を掘るスコップとしての使い方や、武器にも使用されるなど、現代でいうサバイバルナイフに近い装備であった。


 後部が輪状になっており、紐や縄を通して使用したり、水を張ってレンズ代わりにするなどの使い方もあった。小型のものは手裏剣のように使われることもあり、飛苦無とびくないと呼ばれた。


 現代のフィクション作品においては、棒手裏剣のバリエーションとして扱われることが多々あるが、上記のように実際には多用途に使われるものである。

 

 11月14日

 我が家には浴室にテレビがある。ゆず湯に浸かりながらニュースを見た。コロナ6波が来ないか心配だ。

 ダイニングの一角にスタディコーナーを作った。

 甥っ子の喜助きすけが計算ドリルをやってる。「ねぇ、国男くにお君、教えて?」

 喜助は僕を国男君って昔から呼ぶ。来年で小学4年生だ。

「いいよ。あっ!8✕5は45じゃなくて、40だよ」

 リビングから畳コーナーに繋がっている。

 喜助のお昼寝スペースや洗濯物を畳むスペースとして用いられる。

 翌朝はヒドい雨だった。インナーバルコニーなので、急な雨でも洗濯物が濡れるのを防ぐ。

 僕は数年前、群馬県太田市にある自動車工場に派遣されていた。アパート住まいだったが、ベランダなどなく室外機の下にハンガーをかけていた。

 赤扇邸は木目がアクセントになっており、シンプルだけど目を惹く温かみを感じるキューブ型の家だ。


 11月17日

 疲れていたのか9時くらいには寝てしまった。

 勝蔵じいさんと夢の中でババ抜きした。

「国男よ、茶の間のテレビに魔法をかけておいた。リモコンの横のところにあるスイッチを押すと、テレビをタイムマシン化出来る。例えば本能寺の変を体験したいなら、1・5・8・2・6・2と押せ」

 万能なタイムマシンではないな?

 1999年の12月31日までしか遡れない。

 2000に合わせるには2・0・0・0と押さないといけないが、0チャンネルなんて存在しない。

 1チャンのニュース、5チャンのグッドモーニング、7チャンのモーサテ(経済番組)、4チャンのZIP、7チャン、1チャン、4チャンの順で押した。

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