第2話 吉野朝の成立

 正行のもとには父の遺した情報網から、頼みもせぬのに日々世の中の動きが伝えられた。

 もちろん、彼や幼い弟たちにそれらの意味するところが理解出来た訳ではない。

 ただ事実が、どのような経緯で行われたのかという知識だけが増えていった。

 稀代の軍略家を失った大覚寺統だい朝廷(のちの南朝)は勢いに乗った足利あしかが尊氏たかうじの軍勢に抗しきれず、主力である新田にった義貞よしさだの軍勢が生田いくたもりからたんへ逃れて京に戻ってくると、その年二度目のえいざんえんりゃくぎょうこうを決めた。

 それは父が望み、ぎりぎりまで喰い下がって進言した策である。

 帝を叡山へお移しし、足利勢を入京させて淀川を塞ぐ。

 輸送路を断って兵糧攻めをすれば飢えて勢いが衰えるのでこれを新田軍が叡山から、楠木軍が河内から挟撃する……しかし、今はそれも出来ない。

 肝心要の楠木軍がいないのだ。

 糧道を断てねば足利軍はいよいよ意気あがり、比叡でさえ攻め落とす勢いとなろう。

 情報筋の読み通り足利軍は怒濤の如き大軍で攻め寄せ、後醍醐方の武将ぐさ忠顕ただあき名和なわ長年ながとしらを討ち取った。

 尊氏はその軍事行動と並行して驚くべき政治行動をとった。

 彼のための朝廷を作ったのだ。

 当時の皇統は皇位継承争いの果てに大覚寺統と持明院統という二つの皇統に別れていて、両統迭立という双方の皇子を交互に天皇にする約束事になっていた。

 大覚寺統の天皇である後醍醐天皇と対立してしまった尊氏は「朝敵」というこの国でもっとも不名誉な逆賊という扱いを避けるため、持明院統ふし帝の皇子豐仁とよひと親王を皇位に就かせたのである。


 源氏の嫡流である事。


 それが尊氏の行動原理だった。

 鎌倉幕府を見限ったのも、平家北条氏に代わって源家足利氏が武家の棟梁として幕府を開く野心からである。

 ろく陥落後直ちに戦後統治に乗り出したのも、中先代なかせんだいの乱の折に朝廷無許可のまま届捨てで鎌倉へ出撃したのもみな、その原理によるものである。

 そこには貴種の意識が無意識に働いていたに違いない。

 その源泉は清和源氏の名が示す通り、五十六代せい天皇にある。

 彼の顕在意識の中には「貴種」であるという強烈な自負はなかっただろう。

 だが、はっきりとこうあっての足利氏という認識はある。

 それは今度の叛逆が尊氏の本意ではなく、周囲の状況からやむなく決起したという事実に端的に現れている。

 豊仁親王をくらいに就けたことも源氏が棟梁としての正当性を天皇を担ぐことで認めさせようとしたに過ぎない。

 正当性という点においては未だ欠けたるものがある。

 天皇そのものの正当性だ。

 天皇の正当性を証し立てるものとして三種のじんというものが存在する。

 たのかがみさかにの勾玉まがたまあまの叢雲むらくものつるぎがそれである。

 尊氏は自らが擁立した天皇(こうみょう天皇)に正当性を与えるために、どうしてもこの三種の神器を必要としていた。

 所在はいまだ在位中の後醍醐天皇の元にある。

 彼は叡山に逃れている後醍醐天皇に密使を送り、京の都へかんこうするように奏請そうせいする。

 その際、ご丁寧にも後醍醐天皇の皇子成良なりよし親王を東宮に立てると言ってきたようだった。

 東宮とは皇太子のことである。

 尊氏は「従来通り両統迭立を履行します」と言ってきたとこになる。

 尊氏においてはこの提案に裏はない。

 尊氏は武家としては唯一人と言っていい朱子学精通者であり、もっとも勤皇の志篤い人物である。

 彼の行動を詳しく調べれば、兄尊氏以上に足利幕府にこだわった弟直義ただよしや執事こうの師直もろなおら過激な家臣と、公家中心で武家を蔑ろにした後醍醐天皇の親政に対する武士の不満がなければ後醍醐天皇に背いたとは思われない。

 北条氏に代わり、源氏の棟梁としていつの日にか幕府を開くのだという望みはあったとしても、朝廷に反旗を翻してまで遂行するほどの強い意志や行動力があったようには感じられない。

 還幸を促す奏請には新田との絶縁も条件に入っていたが、後醍醐天皇はこれを受け入れた。

 その背景には、公家衆の厭戦気分と都恋しの念がある。

 準備は密やかに行われた。

 しかし、このような心ない企てが露見しないわけもない。

 義貞は込み上げる怒りをぐっと堪えて出発直後の鳳輦ほうれんの前に立ちはだかり、涙を流して秘密裏に脱しようとしたその行為をなじった。

 さすがにそれは剛毅な帝にも効いたのだろう。

 あっさりと自らの非を認め、彼を慰めた。

 そしてその場で恒良つねよし親王に譲位の式を行って、義貞とともに越前へ遣わした。

 譲位の式とは簡単に言えば三種の神器を譲る儀式である。

 とすれば恒良親王は天皇となり、義貞とともに再挙を期して越前に向かったということになる。

 であるにも関わらず、京に戻った後醍醐天皇は、五百の兵を率いて強要に来た直義にも三種の神器を渡している。

 だけでなく、花山院で警護と称した武士による軟禁から逃れ、吉野に向かった際にも三種の神器を持ち出している。

 いずれが本物であるかは知れない。

 ただ、後醍醐天皇の持ち出した神器こそ本物であろうと、世の人は見た。

 三種の神器は天皇の正当性を示す象徴であり、極論を許されるのなら神器そのものに実際の価値はない。

 ただ人々の認識が意味や価値を作るのだ。

 おのみことまたの大蛇おろちの体内から取り出しただの高天原たかまがはらの鉄から八百やおよろずの神々が造らせたなど、当時はともかくさすがに令和の世にあって本気で信じているものなどまずいないだろう。


 後醍醐天皇の持ち出した神器こそ本物であろう。


 この認識こそが吉野朝廷を正統と思わせ、圧倒的劣勢にも関わらず以後四十年以上存続させることになる。


 正行はその報に接したとき、なぜか父の首級を思い浮かべた。

 あの諦念を感じさせる首級をだ。

 思い浮かべた首級には最後に見た穏やかな表情が重なっていた。

 父はなぜ、このような帝に誠心誠意を尽くして殉じたのだろうか。

 割り切れぬ思いはあったが、父の遺言を守るために軍勢を出して帝を無事に吉野へ迎えている。

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