第16話

 結婚3週目。月曜日はお義母さんの天ぷら教室。

 ダルマシル家のベラさんの娘はジルで15歳。女学生で来年卒業。その後は少し働きながら花嫁修行。あと3年前後でお見合いをする。恋愛結婚がしたいと言っていた。

 セヴァス家の嫁のクララは20歳で結婚2年目。クララは他地区の卿家の次女。父親同士が同僚で縁談話が持ち上がって嫁いできたという。


 水曜日、お義母さんが茶道教室の時間帯に私もお出掛けして良いと言われ、クララと2人でうらら屋と甘味処ランプへ行った。

 うらら屋でクララは帯揚げを1枚、それから飾りクシを買い「私も真珠が欲しいから旦那様におねだりしよう」と言った。

 クララはお小遣い制だけど、欲しいものを全部自分で買うわけではないみたい。


 甘味処ランプのお品書きは何が何だか分からなかったので、1番安いトゥルンバにした。それからチャイ。

 ロイが好きなものを食べて下さいとお小遣いをくれそうになったけど、義母にお小遣いは禁止されている。内緒と言われたけど、絶対に隠し事なんて出来ないから断った。

 それで一緒に食費の計算をしてもらって、4等分——割り算! まだ出来ない——してもらい、先週分の余りを嫁入り道具で貰ったお財布に入れてきた。

 トゥルンバは熱々の生地で表面はカリッとしていて甘い。店員に聞いたら揚げ物だった。

 チャイは紅茶のような独特のお茶。紅茶より好きで、砂糖を入れたらもっと好きだった。

 

 飲食しながらクララに祓い屋の使い方を教わった。

 祓い屋はかめ屋で習ったけど、長屋でいう「忌み部屋」のこと。

 血は汚いからと言われてきたけど、月のものがきて、血を好む家に妖や鬼が入り込まないように過ごす場所と説明された。

 帰りに祓い屋に寄って、使い方を教わった。鍵は町内会長の家で保管されている。

 祓い屋は3軒ある。小さいけどお風呂があって、平家で広い部屋1間。綺麗でふかふか布団も揃っている。隣は神社。祓い屋には立派な木が生えていて、しめ縄が巻かれていた。それからお地蔵様もいる。

 町内会の嫁達で毎日順番に掃除しているという。クララ曰く、私も義母の許可が出たら参加。嫁の仕事はまず家のこと。次に町内会の仕事。そして最後は旦那様の職場の集まりなどでの仕事の順。

 妖や鬼は夜に現れるから、夜だけ特別な場所で過ごすということらしい。


「妖や鬼なんて恐ろしいです。16年無事で良かったです」


 長屋の忌み部屋には魔除けのものなど何もなかった話をした。


「私の実家の地区は家の離れだったわ。離れが最低2つあるの。客用と祓い屋。この地区は合同で驚きました」

「同じ卿家でも違うんですね」

「苦手な奥さんと顔を合わせると気まずいけど、仲の良い奥さんと鉢合わせると息抜き! 自由! って感じで楽しいですよ」

「そうなんですか」

「母が、月のものの時の旦那様の色狂いから逃げられて楽そうとも言っていたわ。人目もあるし、神社でわざわざ祓い儀式をして自宅に呼び戻すから、冷静になりますしね」


 色狂い。また新しい言葉だ。


「うちの旦那様は最近ご無沙汰なのに、この間は月のものの時に限ってで困りました。祓い屋から連れ戻されると明らかにそういうことだから恥ずかしいのに、旦那様は何も考えてなさそうです」

「学がなくて教えて欲しいのですが、色狂いとは何です?」

「夜のことですよ。特に月のものの時の。男の人はどうして我慢が出来ないのかしら。それこそ妖や鬼の仕業ですかね。祓い屋に行くべきは女じゃなくて妻のいる男だと思います」


 夜のこと。夜のお勤め。えっ……月のものの時まであるの?

 いや、狂いだから基本はないのか。会話の流れでもそうだった。


「疲れて苦しそうなのに、そういう時にまでなんて、そうまでして子が欲しいのですね。卿家の仕組みからして、跡取り息子が大切なのは分かりますけど」

「あはは。リルさん、嫁いだばかりの私と同じことを考えてます」

「同じことですか?」

「あの苦しそうな顔はええって意味ですよ。ルリさんに聞いてびっくりしました」


 ルリさんとは誰だろう。それも気になるが「ええ」が気になる。ええ、良い、気分が良い、気持ち良いということ。


「男は金を払ってでも色が欲しくなる生き物みたいですよ。嫁の気分なんて丸無視して好きに抱いて、好きに花街へ行って。嫁は跡取りを産まないと肩身が狭いか、下手すると要らん嫁だと追い出されるのに、いい気なもんです。嫁の気持ちも考えず、養子をもらえばええ、くらいなんでしょうね」


 花街。また新しい単語。抱いて、は夜のことだろう。夜のことは抱く、とも言うのか。


「まあ、かわゆいかわゆい言うてくれたり、色々大事にしてくれますし、お義母さんからも少しくらいは守ってくれるから良いです。目に余れば父や母に告げ口……あっ、お義母さんだ。油を売り過ぎました」


 花街について聞く前にクララは私に手を振って走り出した。小走りだ。


「リルさん、今日はありがとう。また遊びに行きましょう」

「クララさん、こちらこそありがとうございます」


 少し迷ったけど、手を振り返す。クララは満面の笑みを返してくれた。綺麗で可愛らしい、それで楽しくお喋りしてくれる人だ。


(また新しい事を知った。色狂い……それだ。それでお母さんは子どもが6人。多いと言っていたのはそういうことだ。夜のお勤めなのに、朝もだったのは旦那様の色狂い? お勤めと狂いの境は? ご無沙汰って言っていたから……)

 

 そのうち毎日じゃなくなる。疲れるし寝るのが遅くなるから眠いけど、痛くなくなってきたし、むしろハレンチだけどなんだか気持ち良い、心地良いと思う時もある。

 特にキス。それから抱きしめられること。頭を撫でられたり、手を握りしめられたり、それはいつでも嬉しい。でも最後の方にすることは毎日じゃなくて良い。そうか、そのうち減るのか。それは朗報。

 でも、月のものの時にさえありえるというのは悲報。

 お腹や腰が痛くて気持ち悪い時に……。考えたくない。

 夜のお勤めが減ると好きなキスなども減る。子作りのコツみたいだから……いや、そもそも子作りは関係ない? 色狂いって言っていた。

 それならいつでもキスは嬉しいと思っている私も色狂い?

 恋の音が3人に加え、謎が増えて深まった。


 話の流れからして花街は夜をする場所。誰と? どう考えても嫁ではない女が相手。

 金を払ってでも色が欲しくなると言っていたから、お金と引き換えに夜のお勤めをする場所。世の中にはそんなお金の稼ぎ方があるのか。

 いくら? ずっと1人の男を相手にはしなさそう。色々な人と? お金を払うなら誰とでも? 


 想像したら気持ち悪くなりそうでやめた。そんな仕事したくない。

 

(それなら逆もある? お金を払って女性が男性を買う? 買いたい? 買いたくない……。お菓子が食べたい。子どもが出来たらどうするの? そもそも花街も子どもが出来たらどうするの? 誰との子か分からない……)

 

 やめたと思ったのに考えてしまう。謎だ。世の中は謎で満ちている。知識が増えるとさらなる疑問がどんどん出てくる。

 

(旦那様も花街に行く……。もう行ったことがある? ありそう……。それか花街じゃなくても誰かに教わってそう……。夜の色々、髪型と一緒で本で読んだって無理そうだもの……)


 なんだか気分が暗くなってきた。帰宅してからも、家事をしながらグルグル考えてしまった。

 特にロイがそのうち花街へ行くこと。なんだか食欲が無くて夕食を残した。残した分は朝食にする。

 辞書で花街を調べたら、遊女屋・芸者屋などの集まっている地域と書いてあった。

 遊女を調べると「報酬のもとに不特定の男の枕席へ同席する客を遊ばせる女」だった。

 芸者は「宴会の席などで、歌や踊りなどで座に興を添え、客を楽しませる職業の女」だ。


(客を遊ばせる……。苦しい顔はええという意味だから、気分が良いとか気持ち良いとか……。私も少し思うから男性はもっと? 遊ぶだから楽しいという気持ちもある? あの顔で楽しいの? いや、微笑んでる時もあるからその時?)


 筆記帳には書き出せない、書き出す気にならない知識。

 卿家の嫁は忙しいようで、忙しくない。場所や道具が色々揃っているし、畑仕事をしなくてもお金で食べ物を買える。細々と面倒なこともあるけど、効率が良い、というやつだ。

 時間があるから考える時間がこうして増えた。これは幸せなこと? それとも……。


「リルさん」

「はい!」


 襖が開く音がしたと同時に名前を呼ばれて、辞書を閉じた。

 振り返ってロイを見上げる。怪訝そうな表情。


「夕食を残すなんて初めて見ましたし、浮かない顔をしていましたけど、昼間何かありました?」


 ロイが私に近寄ってくるので、体の向きを変えた。ロイが前に腰を下ろす。いつもと同じあぐら。両手を取られた。

 風呂上がりだからいつもより温かい。


「今日はセヴァスさん家の若奥さん、クララさんとお出掛けしました。トゥルンバとチャイが美味しかったです。それから祓い屋のことを教わりました」

「そうですか。トゥルンバやチャイはどういうものです?」

「トゥルンバは東の国のお菓子で揚げ物です。カリカリもちもちしていて甘くて美味しかったです。チャイは多分紅茶の仲間です」

「東風菓子のあるお店へ行ったんですね」


 ロイがニコリと微笑む。ロイは毎日よく笑う。


「はい。うらら屋も行きました。クララさんは親切で楽しくて……」


 ロイと目が合って、暗い気分が戻ってきた。思わず俯く。それでロイの左右の手を交互に見つめる。

 過去のことはともかく未来のこと。私を撫でたり抱きしめてくれるこの手は、他の誰かも撫でたり抱きしめる。

 それは止められないこと。楽しみを奪おうとする嫁はきっと要らない嫁。

 嫌だからどうした、と言われるだけで済めば良いけど「もう要らん」と言われたら……帰る家はない。

 嫌なことがあっても、ロイの機嫌を損ねることは言ってはいけない。わざわざ嫌な思いをさせたいなんてまるで思わないけど、ぼんやりだし変だから、そのうちやらかしそう。

 子を産む。家事全般をする。健康。それが私に求められていること。子どもを産んだらずっと追い出されない?

 子はいるけど嫁はもう要らん、となったりする? 私では義父母やロイが持つ学や教養を与えられない。

 義母のように手足が悪くなったら?

 病気をしたら?

 きっと要らん嫁は追い出される。

 だから結婚は家と家の結びつきなんだ。クララは「目に余るなら父や母に告げ口」と言った。告げ口したら実家が旦那様に文句を言ってくれる。対等ということ。私は違う。いまさら気がついた。

 

「それでどうしました? 母上に早く帰ってこいとか、帰りが遅いと怒られました?」

「お義母さんは何も言いません。私を怒りません」


 私は小さく首を横に振った。


「それならどうしました?」

「旦那様に要らんと言われても、帰る家はないからどうしたものかと……かめ屋でまた働けます?」

「リルさん? 要らんなんて言いません。どうしてそんな事を考えたんです?」

「跡取り息子を産む嫁なら、産んだら終わりなのかなとか、家事全般をする健康な嫁なら、病気や怪我をしたら用無しだと気がつきまして」


 ぼんやりだ。こういう所がぼんやり。


「リルさん。子どもを産んだら育てないといけません。男と母上だけでは育てられません」

「はい」

「嫁が動けなくなったから捨てて新しい嫁を迎えるなんて、そんな薄情な家に新しい嫁は来てくれません。出来ることをしてもらって、家事をする人を雇ったりします」

「そうなんですか?」

「そうです」


 私の手を包むロイの手の力が少し強くなった。


「もしも養子をもらうことになったら、育てるのは自分の嫁のリルさんです。母上から学んでもらっているのも、勉強してもらっているのもその為です」

「そうなんですか?」

「嫁を迎えるということは、余程のことがなければ一生、死ぬまで守るいうことです」


 そろそろと顔を上げると、ロイは困り笑いをしていた。その「余程のこと」は何だろう。それを知りたい。


「こんな家は嫌だと出て行かれたら困りますから、大事に大事にします」

「旦那様、大変良くしていただいているので出て行く気持ちなんてまるでありませんけど、万が一嫌になっても私に行くところはありませんからやはり出て行きません」

「そうです? 先程かめ屋と言っていましたよ。リルさんは働き者で料理が上手なので働き口を見つけられるでしょう。嫁さん同士で親しくなるとツテが増えます」


 ロイの手はますますキツく私の手を握りしめた。


「困り事も、欲しいものも、不安も、何でも遠慮せずに言うて下さい」


 優しい眼差しと言葉が嬉しくて頷こうとしたけど、顔は動かなかった。


「余程のことは何ですか? せんように気をつけます」

「お金を使い込むとか、色恋狂いで不倫してそれで家の仕事を疎かにするとか、犯罪をするとか、そういう常識外れなことですね」


 色恋狂い。新しい単語だけど何となく意味は分かる。色狂いに恋狂いの合体だ。ただ、どういう感情や状況なのか想像出来ない。


「不倫は何です?」

「よそに男を、恋人を作ることです。一部の華族以上になると嫁の不倫は死罪物ですが、うちは卿家ですから、まあ……」


 ロイの手はますます私の手を強く握った。恋人を作って色恋狂いをして、子どもが出来たら困るのは当然の話。いや、卿家は子どもがいることが大切だから許され……ない気がする。

 よその知らん男の子どもは忌み嫌われそう。それで追い出されるのか。そこまで狂うの?

 いや、だから「色恋狂い」なのか。色も恋もおそろしいものみたい。私のまだ知らないもの。恋の音は勘違いや誤解だ。謎が1つ解決。

 本物の恋は狂うもので、私はちっとも狂っていない。多分だけど。


「まあ、何です?」

「その時の気分で、腹を立てて追い出すかもしれません。許せる、許せないはその時でないと分かりません。父上や母上がリルさんの味方をするかもしれませんし、先のことは分かりません」


 先のことは分からない。その通りだ。ロイの嫁になってまだ3週間目。大切なのは今で、先のことではない。

 私は頷いた。今度は顔が動いた。


「旦那様をさしおいて、お義父さんやお義母さんが私の味方をするなんてことがあるんです?」

「そりゃあ、自分が酒を飲んで暴れるとか、家に金を入れんで遊び呆けるとか、嫁を大事にしないとか、そういう時はバカ息子よりも良い嫁を守ります。特に子がいたら。そん時に追い出されるのは自分です」


 自然と目が丸くなった。


「旦那様はそのようなことしません」

「そうです?」

「はい」

「リルさん」

「はい」


 ロイは「そろそろ風呂が空きますね」と私から離れた。なんとなくキスされると感じたので肩透かし。

 その後ロイは寝室から出て行った。それで、書斎に入る音がした。この夜、ロイは初めて私を抱かなかった。

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