それぞれの2年+1年+1年の結論

令月 なびき

2年+1年+1年の終わり

「ねえ、今日の晩御飯、どっちが作る? 多数決で決めようよ」


 彼女からそう言われて彼は笑った。


 この家には2人しかいないから多数決も何もあったものじゃない。でも、彼女は知り合ったときからこんな調子だった。


 彼はそれを聞いて、また言ってるなと思うだけである。いや、むしろ言ってほしいのだ。他愛のない会話でも、2人の中では週末の儀式というか、楽しいコミュニケーションの1つだった。


 彼女もまた、こう言えば面白がることを分かっているのだろう。涼やかな目元が笑っている。その口元から白い歯がこぼれた。彼はそんな彼女の表情が好きだった。


 もちろん多数決はいつも同票で決着がつかなかった。だから毎週末は2人で一緒に夕食の準備をした。



 彼と彼女の関係はもう4年になる。


 彼は、彼女と過ごした時間を節目ごと、たとえば出会ってから結婚するまでの2年を一区切りとして数え、結婚後は1年+1年と数えていた。最初の2年はどんなことがあって、結婚した1年目はこんなことがあったと、色々とメモするのが彼の習慣だった。


 要するに、彼らの仲は良好なのだ。


 もっと言えば、昔よりケンカも減っていた。ほぼないと言ってもいい。無関心になったわけではない証拠に、飲みに誘われれば出かけていた彼が、今では真っすぐ家に帰るようになっていた。



 もし彼に悩みがあるとすれば、たまに不安が押し寄せることだった。この生活を続けていていいのか。平穏な時ほど意味もなく不安になるということかもしれなかった。



 もちろん、平穏な日々にも多少の変化はあった。


 その年の暮れ、彼は病気になった。

 大したことはないと医者は言う。もらった薬を飲んで大人しく寝ていれば良くなるはずだった。



「最近、忙しかったから疲れたのかもね?」


 彼女は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。性分なのだろう、看病するのが楽しそうだ。


「久しぶりにいつものレパートリー以外でお粥とかがいいのかな。でも作ったことないから、うまくできるかな」


 普段の料理よりお粥のほうが簡単そうだが、彼女はそんなことを言う。しかし今は食欲がない。気持ちだけもらって眠ることにする。

 

 もしお粥を作ってもらえば、彼女のことだから美味しく作ってくれるのだろう。


 ……いや、そう言えば、結婚するずっと前に一度だけお粥を作ってもらった記憶がうっすらと蘇ってきた。今の味はあの時と違うんだろうな。もちろん、どちらが美味しいなどと比較するつもりはない。しかし、つい結婚前のことを考えてしまうのは自分でも悪い癖だと思う。


 もしかしたら、歳を重ねて少し偏屈になったのかもしれない。事実、結婚後、彼は彼女に得意料理の数種類ばかりをせがんだ。同じ物ばかり食べて飽きないの? と彼女は言う。しかし、むしろ彼にはそれがいいのだった。



 2日後の朝。目を覚ますと彼女がそばにいた。顔を近付け具合を見てくれる。よく寝たせいか、熱は下がっていた。そのまま夕方まで静かにしていると、気分もすっかり良くなっていた。



「ねえ、今日の晩御飯、どっちが作る? 多数決で決めようよ」


 こんな時にもそう言われて、彼は笑ってしまった。


 目は口ほどに物を言う。彼女の目は優しく温もりのある表情をしていた。決して嫌がらせで言ったわけではないことは、長年一緒にいてよく分かっていた。


 笑えるなら少し元気が出たのね、そう言うと彼女もいたずらっぽく笑う。そうして彼女は席を立つとキッチンへと向かった。長い黒髪が目の前で揺れる。結婚した頃から変わらぬヘアスタイル。


 鍋を取り出したものの、おたまを持ったまま考え込んでいるようだ。その後ろ姿をつい目で追いかける。そんな他愛のない日常に安心して、また少しだけウトウトする。


 

    ◇



 新年がすぐそこに迫っていた。


 彼の流儀で言えば、2年+1年+1年+もう1年が来ようとしている。


 つまり、また1年、彼女との時間を増やすことができる。



 そんな折、彼にハッキリと1つ心配事ができた。今度は彼女が体調を崩すことが増えたのだ。歩く時も少しペースが遅かったり、会話の途中でも上の空だったり。大丈夫? と声を掛けても、彼女は笑うだけだった。長くいれば、どこかおかしくなることなんてあるものねと、特に気にしている様子も見せなかった。

 


 しかし、やはりどこかで無理があったらしい。


「ねえ、今日の晩御飯……」


 そう言ったまま、彼女はへたり込んでしまった。


 彼はひどく狼狽した。早速、施設に電話を入れる。しかし、その日は遅かったのでつながらなかった。次の日、いてもたってもいられず朝一に電話をする。


 ありがたいことに、すぐに出張で見に来てくれるという。



 到着するや否や、そのスタッフは言った。


「試作機ですからね。短期間でも体に相当なガタが来るのは前にもお話しした通りです。交換しますか? 今すぐ記憶のバックアップも取れますけど?」



 彼は迷った。彼女との生活は続けたい。

 しかし、迷った結果、彼はそれを拒否した。


 彼女はこの世に1人だけ。


 体の交換も記憶のバックアップも必要ない。初めから分かっていたこと。それなのに、ここまで来てしまったのは自分の未練が原因だ。


 結婚してすぐ、事故で彼女を突然失い、残っていた彼女の動画や音声をかき集め、彼女そっくりのアンドロイドに読み込ませた時から、こんなことをして意味があるのだろうかとの後悔が付き纏っていた。ただでさえコピーのような彼女を作ったことへの自責の念があるのに、更にコピーを作ることには懐疑的だった。



 結局、彼はスタッフに応急処置だけお願いした。



 いつかはこんな日が来る、その不安は心の奥底にあって、何かの拍子に顔を出していたが、今それをハッキリと目の前に突き付けられていた。


 心の整理をする時が来た、彼はそう思った。2度目の未練はないようにしたい。前から考えていたことだった。



 応急処置だけで済ませた結果、彼女は車イスでの生活になった。アンドロイドが車イスを使って人間である彼がそれを押す。世間から見れば逆の関係だった。


 それでも、最後の一瞬が来るまで、向き合ってからお別れをしたかった。彼女が傍にいてくれる間は、どんな形でも問題ではなかった。



 しかし、そんな生活も長くは続かなかった。やはり全体にガタが来ていたのだろう。足だけでなく、体全体がぎこちなくなっていくようだった。また、言語にも支障が出ていた。彼の声は正常に聞こえているものの、答えはたどたどしく、時には無言で頷くだけが増えていった。



 お別れの時は刻一刻と近付き、彼はこれまでの出来事を思い出していた。同時に、ここまでしないと彼女を忘れられない自分が情けなかった。


 しかし、当時はあまりに突然すぎる別れだった。すぐに忘れられるほど、人間はそんなに器用じゃないとも思えるのだ。


 写真や動画を見て、亡くなった人との思い出に浸る。そんなやり方では満足できない。時代と共にもっと直接的な方法が生まれてくるなら、それを試すことは道理ではないか。


 事実、最新技術で甦った彼女は、容姿も言動もかつてのままだった。もちろん、彼が用意できたデータの範囲で。しかし、彼女の口ぐせや仕草を目の当たりにすると、それは些細なことだった。



 そして、その日を迎える。

 最後はあっけないものだった。


 車イスを押しているとき、急に彼女は我に返ったようになり、その顔を彼の方に向けた。


「晩御飯、もう多数決もできないね」



 彼は、この日が来たら問わねばならないことを思い切って尋ねた。写真や動画の中の彼女では、質問したくともそもそもできないのだから。


「その……キミはボクといて楽しかったのかな?」


 かつて、最初の別れの際、問おうにもその機会のなかったこと。しかし、彼女の回答は予想とは違っていた。


「……最後の最後に間違えてはいけないわ」



 そう言われて彼は思わず彼女を見た。しかし、長く一緒にいたのだ。ある意味では結婚前の2年も足せば丸4年。彼女の性格はよく分かっている。言っている意味もすぐ理解できた。ずっと考えていたのに、気付けなかった別れの言葉。



 彼は、車イスの持ち手から手を離すと、前に回って屈みこむ。


 彼女の顔を真正面から見た。彼女を送り出すなら、本当に言うべきことは1つだ。


「一緒にいて本当に楽しかった。ありがとう」



 彼からそう言われて、彼女は心から嬉しそうに笑った。一瞬、彼女の切れ長の目に光が戻った気がした。


 彼の目を見ながら彼女も返す。


「私も楽しかった。……さよなら。今までありがとう」


 それが彼女の最後の言葉だった。



「こちらこそ本当にありがとう。さよなら」


 今度こそ彼もさよならを言うことができた。

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