22.「それ自己紹介ですか?」
何度も何度も口づけを交わして、ぼんやりとしてきた頭に突然楓ちゃんの首筋のキスマークが浮かんできた。
「あっ!」
と、良い雰囲気を壊すほどの予想外な大きい声に、千石が「なに?」と眉を寄せた。
「ね、聞いときたいんだけど。千石って、好きだったの?楓ちゃんのこと」
「えぇ?カエデ?あぁ……好き……どうなんでしょう。好ましくは思っていましたよ」
え、そうなの……。めっちゃショック。というか千石って気が多いのかな?漫画で抱いていた印象とは随分違うんだけど。
自分から聞いたことなのに、想像していた答えと違ったことで勝手に傷ついている。身勝手だと自分でも思うけど。不貞腐れ始めた私に気づいていないのか、千石は「でも」と話を続けるようだ。
「今になって、カエデの幸せを心から願う、あの感情が恋なら良かったのに、と思います」
千石のその言葉に違和感を覚え顔を見れば、千石の瞳は遠い昔を懐かしむように細められていた。そして気づく。千石はこの世界の楓ちゃんではなくて、元いた場所、リングの世界のカエデちゃんを思い出しているということ。
なんだ良かった、と思ったのと、やっぱり好きだったんだ、と思ったのはほぼ同時だった。彼の過去にまで嫉妬するのはさすがにダサいし、どうかしてる。
千石は私が「うん?」と、先ほどの彼の言葉の意味を理解していないように頷いたことを確認し、そして大きく息を吸い込んだ。それから少しの思慮と逡巡の後、千石は意を決したように息を吐いた。
「僕が今あなたに抱いている感情は、そんな綺麗なものではないです」「幸せになってと言ったけれど、本当はあなたの幸せを願えない」「僕以外の誰かと添い遂げるなら、あなたをいっそ、とさえ思ってしまうんですよ」
口を開いた千石は、私に教えるように一言一句を丁寧にはっきりと紡いだ。そして、私の反応をうかがうかのように顔を覗き込み、しっかりと視線を合わせた。
「恋とはこんなにも歪で独りよがりなものなんですか?」
そう言った千石は確かに微笑んでいるのに。自分の内にあるはずの感情に振り回されていることに戸惑っていた。
千石、申し訳ないけれど私はその質問に答える術を持っていない。だって、この歳になっても愛と恋の違いさえ分からないのだ。したり顔で愛だの恋だのと講釈を垂れる人なら上手く返せるのだろうか。千石の苦しさを少しでも和らげてあげられたのだろうか。
「僕を恐ろしく思うなら僕から逃げてください」
その言葉を聞いて、私は思いきり首を左右に振った。千石はそんな私を見て眉を開き、本当に僅かな、簡単に振り解けてしまいそうなほどの力で私を抱きしめた。
「でも、きっと僕は逃げたあなたを探し出してしまう」
穏やかな千石の声が私に降り注ぐ。言われていることはとても物騒なのに、私の心はこの上なく落ち着いていた。
「だから諦めて?あなたを僕のものにさせて」
ごめんね、と千石は続けて謝った。なにも謝ることなどないのに。私はもうなにを言えばいいのか、どの言葉を使えばこの気持ちを千石に伝えることができるのか、分からない。それどころか考えることさえ放棄したのだ。この想いが言葉にした瞬間に、陳腐でありふれたものに変わってしまいそうで。私はただ頷いて、千石を抱きしめ返すことしかできなかった。
2人でベッドに寝転んで、遊びのような軽いキスを何度も交わした。
千石の唇は夏だというのに驚くほど冷たく、死体とキスをしたならこんな感じだろうか、と笑えない冗談が頭に浮かんだ。
私の体温を奪って千石の唇が人並みに温かくなってきた頃、千石が「そうだ。ここに来たとき、本気でこの世界が地獄だと思ったんです」と思い出し笑いをした。そういえば千石と出会った頃にそんなことを言っていたな、と私も思い出す。
「全然地獄っぽくないじゃん」
「ふふっ、ほんとに。なんて生温い地獄だろうと思いました。魔物もいなければ、血の匂いもしない」
「……せんごく、」
「だけどね、ここは本当の地獄だった」
頭上にたくさんの疑問符を浮かべた私の表情を見て、千石の瞳が慈しむように細まる。
「地獄なの?この世界が?」
「はい。いつあなたと離れてしまうかも分からない僕の身が憎いです」
あぁ。千石は私以上にこの世界から消えてしまうことを確信して、それを不安に思っている。そしてその後の私を心配してくれている。だから千石は私をあれだけ拒んでいたのかもしれない、と今までの千石の言動に納得がいった。
そして千石の言葉に誘われるように、彼のいなくなったこの世界を想像した私は絶望した。いや、絶望なんて生温い。そうだ、そこがきっと地獄だ。違う、それが確定しているこの世界こそが地獄なのだ。
離れ難い人といずれ離れてしまうこの世界。そして千石を失った世界で私は生きていかなければいけない。今になってその残酷さを実感し、私はごくりと唾を飲み込んだ。
「怖くなりました?」
「怖いよ。千石を失うことが怖い」
「僕もです。この世界であなたと共に生きていけるなら、ここが地獄だろうと構わないのに」
気づけば流れ出ていた私の涙を千石が優しく拭う。
「僕は、瑠璃子さんを泣かせてばかりだ」
「ううん。ね、千石。どこに遊びに行く?キャンプもしたいし、デートの定番!みたいなとこにも行きたいね!」
「んー、動物園とか?遊園地とか、」
「うん!秋になったら紅葉観て、食べ歩きもしたい!……あっ!」
"食べ歩き"そのワードに米屋のことを思い出した。私が突然大声を出したものだから、今まで無理に明るくしていた空気は霧散し、いつもの私たちの空気が戻ってきた。その証拠に私の大声を耳元で聞いた千石の顔が「うるさい」と歪んでいる。
「え、ほんとうるさ。どうしたんですか?」
「えー?あははー、こっちの話」
「……米屋さん関係ですね?とっとと振ってあげてくださいよ」
鋭い目つきの千石に責められて思わず口籠もる。しかしちょっと待った!千石も私に言わなきゃいけないことがあるんじゃないか?
「千石こそ、楓ちゃんのことちゃんとしてよね!その、せ、セックスまでしたんでしょ!?」
口にすることがだいぶと憚られたが。勇気を出して告げた私に、千石は「なんか勘違いしてるようですけど。僕、寺元さんとしてないですし、もうきっぱり振ってますよ」と答えた。
「…………?」
「いや、だからね、」
「え、いつ?いつ!?だって、昨日楓ちゃんの首にキスマークついてたよ?」
「僕がつけたんじゃないです。プールの帰りにきっぱりと断ってますんで」
な、なんだぁ。なんだぁ。あの日、セックスをしてたんじゃなかったんだ。よかったぁ!
私の思ったことはそのまま顔に出ていたみたいだ。千石は合点がいったようで、「だから昨日あんなにベロベロに酔ってたんですか?」と顔を引き攣らせた。
本当に申し訳ない。私の勘違いで何人振り回した?しかし千石には簡単に謝れないのが私である。
「だってだって、千石が誰とでもキスするとか言うし、私にもやらしいことしてきたからぁ!誰とでもすんのかな、って思ったの!」
「それは……!僕だって悩んでたんだよ!瑠璃子さんを縛りつけてしまうことに!それなら遊んでる、軽いって思われた方がいいかな、って」
「でも結局私にはしてくんなかったじゃーん。挿れないって意地の悪いこと言ったりしてさぁ。私そんなに千石のタイプじゃない?って悲しかった」
「僕だって我慢してた!本当はしたかったよ。けどもっと好きになったら苦しいだろ、お互いに。だから我慢したんだよ。それぐらい分かれよ!」
はぁはぁ、と2人、肩で息をする。もうなんなの、と目が合って、同時に吹き出した。
「ほんとバカ。意地っ張り。独りよがり。浅はか」
「あれ、それ瑠璃子さんの自己紹介ですか?」
「ふふ、そうかも」
「じゃあついでに、思わせぶり、酒癖悪い、鈍感も付け足しといて」
「なにそれ、ひどーい」
「ははっ。……好き、瑠璃子さん、好きです」
「私も、好き。せんごく、好きだよ」
その日初めて、私たちは同じベッドで体を寄せ合って眠った。ぴったりと絡み合った体は、この人と離れたくない、という私たちの気持ちを表しているかのようだった。
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