20.「僕のことが好きじゃなかったの?」
水と日差しはやはり、随分と体力を奪うようだ。晩ご飯も食べて帰るか?となったけれど、余りにも疲れていた私は「今日は解散しよ」と提案した。米屋と楓ちゃんも「そうですね」と同意してくれたので、私、千石、楓ちゃんは同じ電車に乗って帰路についていた。
「慣れた慣れたと思ってたんですけど、やっぱり慧くんといるとすっごく見られますね」
と、楓ちゃんは声をひそめながら私に耳打ちをした。それに小さく笑い返す。どこに行っても千石は目立つ。何をしてても誰かの目を引く。今なんて扉にもたれて、焦点の合っていない目で景色をぼーっと眺めているだけなのに。「あの人めっちゃかっこいい」と聞こえてくるのだから、恐ろしい男だと改めて思う。
最寄り駅に着いたところで、楓ちゃんが「わたし、買いたいものがあるのでここで」と告げた。夏の18時はまだまだ明るい。なのに千石が「心配なので、付いていきますよ」と一言、さらりと言葉をかけた。楓ちゃんは嬉しそうに「ありがとう」とその好意を受け取る。
「じゃあ、ね。またね、楓ちゃん」
私は言うだけ言ってその場から逃げた。千石がどんな顔をして、どんな気持ちでそれを言ったのか。想像することも、この目で確認することも嫌だった。
どうやらお風呂に入ったあと寝てしまったようだ。薄っすらと目を開ければ、体が鉛のように重くて、少しばかり頭痛もしている。部屋が真っ暗だということはそれなりの時間で、そして千石はまだ帰っていない。そういうことだろう。
思わず吐いたため息は思っていたより頼りなく、それが悲しさを色濃くした。なんか食べなきゃ、と思うのに、ベッドから起き上がる力が湧いてこない。このまま全部忘れたい。千石のこと、千石への気持ち。出会う前の方がずっとずっと幸せだった。
とりあえず頭痛薬を飲もうと、気力を振り絞って起き上がったその時、ガチャリと玄関の扉が開く音が聞こえた。今、何時だ、とスマホを見れば21時過ぎ。楓ちゃんがなにを買いたかったのかは知らないが、セックスをする時間は十分あったなと考えてしまった自分が恨めしい。
「起きてたんですか?」
「いや、今起きた。頭痛くて」
扉を開けて部屋に入ってきた千石は、ベッドに腰掛けていた私を見るなり驚いた声を出した。部屋が真っ暗だったので寝ていると思ったのだろう。
「大丈夫ですか?熱中症じゃないですよね?」
水分ちゃんと取りましたか?と言いながら千石が電気をつけた。途端に明るくなった部屋の眩しさに思わず顔をしかめる。
「違うと思う。とりあえず薬飲もうと思って」
「僕が持ってくるから、瑠璃子さんは座ってて」
なにも今、そんな風に優しくしなくてもいいのに。タイミングの悪い千石の言葉に素直に従い、「ありがと」と告げれば、薬と水を手にした千石が私のそばに腰を下ろした。
「疲れた?はい、これ飲んでください。あ、その前になにか食べましたか?」
「ふふっ、」
「なんで笑ってんですか」
「千石、お母さんみたい」
こんな沈んだ気持ちでも笑えるんだから、私は大丈夫だ。そう思えた。私が笑ったことに安心をしたのか、千石も微かに笑みをたたえる。やっぱり好きだな、と思った。思いたくないのに、勝手に心が思ってしまうのだ。私の預かり知らぬところで溢れ出す感情は制御不能で、もう開き直って諦めるしかないのだろうか。叶わないと知っていながら、もっともっと好きになっていくしかないのだろうか。
「あなたが笑ってくれるなら、もうなんでもいいですけど」
「え?なんて?」
「いえ、ご飯食べました?」
「まだ。千石、は?」
「僕もまだです」
なにか作りましょうか?と立ち上がった千石の小指の先をそっと握った。
「なんですか?」
「キスして、」
「…………だめ」
「、どうして?」
「ふっ、どうしてだと思う?」
そんなの分からない。はっきり言ってくれないと分からないよ。聞きたい、教えてと詰め寄りたい。だけど千石の細められた瞳が、緩く上がった口角が、相反して下がった眉が、それを許してはくれなかった。
▼
まだプールで蓄積された疲れが取れていないのだと思う。週明けの仕事は思ったよりもしんどくて、久しぶりに仕事辞めたい、と思った。
そんな地を這うメンタルの私にキラキラと明るい笑顔を浮かべた楓ちゃんが「お仕事終わりですか?」と声をかけてきた。くっ、眩しい……!だけど今の私にその眩しさは猛毒なわけだ。
「うん、そう。帰ってきたところ。楓ちゃんは今からお出かけ?楽しんでね」
私の覇気のない声に、彼女の「はいっ」という明るい声が被る。丁寧にケアされているであろう艶やかな髪を高めの位置で一つに結んだ楓ちゃんが、「それじゃあ、失礼します」と体の向きをくるりと変えた。ポニーテールがふわりと揺れ、私の視線を奪う。
あ、あれって……。そこで気づいてしまったのだ。彼女の華奢な首筋に一つ。赤々と存在を主張しているいわゆる所有印。恐らくまだ真新しいだろうキスマークに釘付けになって、そして悟った。やっぱりあのプールの帰り道、千石と楓ちゃんは……。
千石への気持ちを消したいと願っていた私に、これが決定打となったわけだ。今日このまま千石に会いたくない。会ったら酷いことを言って彼を怒らせてしまいそうだから。
この期に及んで千石が私の元から離れてしまうことを恐れている。千石が私以外の誰かを見つけたのなら遅かれ早かれ家を出て行くだろうに。愚かだろうか。惨めだろか。だけど、恋人としてが無理なら同居人として。どんなに細くても千石との繋がりの糸を切りたくないのだ。
家に帰れない私が「飲みに行こう」と誘えば、サエちゃんは喜んで承諾をしてくれた。まだ会社の近くにいるらしいので、先ほど電車を降りたばかりの最寄り駅に引き返し再び会社がある駅を目指した。
千石へは何も告げていない。そもそも連絡手段がないので、急な予定が入った時は連絡なしで帰りが遅くなることもあった。だから今日も心配させることはないだろう。
サエちゃんから『ここにいるよ』というメッセージと共に送られてきたお店へと向かう。そこは梅酒の品揃えが豊富な、お洒落な個室居酒屋だった。
店員さんに「連れが先に来てるんですけど」と言えば、サエちゃんが待っているであろう個室へと案内される。店員さんが丁寧に扉を開けてくれ、そこへ「突然呼び出してごめんね」と入れば、そこにはサエちゃんの他に米屋も座っていた。
「あ、れ?米屋?」
「そうそう、たまたま会ってさ!誘っといた」
「サプライズゲストでーす!って、なんかあったんか?オレ、邪魔なら帰るけど」
私の異変に米屋はすぐに気づいてくれた。サエちゃんに連絡をした後、ううん、本当はサエちゃんよりも先に"米屋と"、と思ったのだ。だけど米屋に恋愛の話をしてもいいのか、そんな痴態を見せてもいいのか迷って、結局やめた。
「ううん!びっくりしただけ!米屋もいてくれて嬉しい」
「そっか?ならいいんだけど。ま、座れよ、何飲む?梅酒の種類がすごくてさぁ」
自分の鞄をどけて、そこに招いてくれた米屋の横に腰を下ろした。狭い個室で米屋と横並び。たまに触れる肌の感触に誘われるように、私はお酒を流し込んだ。
「やばいね、瑠璃子飲み過ぎ。やっぱなんかあったのかな?」
「オレは特に聞いてないけど。おい、美輪、もう飲むのよせって」
「あたしてっきり、米屋と瑠璃子が付き合いだしたか同棲しだしたかと思ってたんだけど」
「ないない。まじでオレのこと意識してなかったもん、こいつ」
「米屋、いい奴なのにね……瑠璃子のこと頼むね」
もう飲めないのに、まだ千石のことを考えしまう自分の頭が嫌で、それを掻き消したくて梅酒を口に含む。見事に酔い潰れた私の肩をサエちゃんが優しく叩き「後のことは米屋に任せたからね!また明日話聞くから!」と帰って行った。薄情者めー、と思ったが、米屋の「オレんち来るか?」という優しい声に落ち着きを取り戻す。
「よねやんち?」
「そう。オレんち。来る?」
「……いかない。いまいったら、よねやにとんでもないことしちゃいそうだから」
お酒を多量に飲んでも理性までは失っていないようで、そんな自分に安心する。この状態で同じ部屋で夜を過ごして、米屋に縋ってしまわない自信がなかった。
「とんでもないことってどんなだよ!なに?なんかあった?」
「よねやのすきな子が、ほかの人とせっくすしてたらどーする?それでもあきらめらんないとき、よねやならどーする?」
私の突然の問いかけに、米屋の表情が少し強張ったのが分かった。だけどすぐに柔らかい表情に戻った米屋は「わっかんねー」と正直な感想をもらす。
「だけど、好きな子が失恋したならその隙につけ込む。な、オレんち来いよ」
自信満々に言い切った米屋は、先ほどよりも強い口調で私を家へと誘った。有無を言わせないようなその口調にドキリとした。このまま米屋んち行ってもいいかも。そしたら千石のこと考えなくていいかも。私が頷きかけたとき、千石の悲しげな笑みを思い出した。泊まるにしても千石に言わなきゃ。
「よねや、いっかい家にかえってもい?」
「ん?あぁ、明日仕事だしな。いーよ。で、その後オレんちな」
それに私が曖昧な笑みを浮かべると、米屋は「一人にしたくないオレの気持ち、分かるだろ?」と余裕のない声を出した。
米屋がインターホンを鳴らせば、不機嫌さを隠す気のない千石が現れ、「米屋さん、わざわざ送ってくださってありがとうございました」と丁寧な謝辞を述べた。しかし他人行儀すぎるその物言いは分厚い壁を感じさせる。
「あぁ。一旦来ただけだからお礼を言われることなんてしてないんだ」
「はい?ちょっと瑠璃子さん、早く入っておいで」
「美輪、明日の準備しておいで」
2人に同時に行動を促され、私は米屋に向かって「うん」と頷いた。それを見た千石は顔の片側だけを器用に歪め「そういうことですか」と言いすてた。
靴を脱いで部屋に上がり、廊下の壁にもたれている千石の前を素通りする。何か言ってくるかもと身構えたが、千石は一言も発しなかった。
私が一泊用の旅行鞄に荷物を詰めるところを、千石はただ黙って見ていた。前にもこんなことあったな、と過ったけれど、思い出し笑いをする気にはとてもなれない。黙々と荷造りをする私の背中に千石がぽつりと「僕が出て行きましょうか?」と声を落とした。その言葉の意味を理解した途端、心臓を強い力で掴まれたような苦しさを覚える。ちがう、だめ。そうなってほしくないから、少しでもそばにいたいから、こうしてるのに。
「や、やだ。それはだめ」
「……僕、瑠璃子さんが何を考えてるのか全く分からないです。僕のことが好きじゃなかったの?」
好きだと言えたらどれほどよかっただろう。だけどそうなれば千石は私の前から消えてしまうのでしょう?
「、す、きじゃない」
「そう。気をつけて行っておいでね。僕はここで、あなたが帰って来るのを待ってるよ」
千石が愛おしげに微笑むのを私は初めてみた。どうしてそんな顔を私に見せたの。楓ちゃんを抱いたその体が、愛を囁いたその唇が、慈しんだその瞳が、どうして私までもを捕らえて、離そうとはしてくれないのだろう。
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