幻想奇譚集『人妖協奏録』

霜月遠一

黒の少女と血の吸えない吸血鬼

 深い森の奥底。幾重にも折り重なった枝葉の影が、木漏れ日すら通すまいと外界からの一切を拒絶するかのように天を塞ぎ、見渡す限りの全てを昏い緑色の中に閉じ込めていた。毒々しいまでの一面の緑は、豊穣の緑というよりはむしろありのままの無造作な自然そのもので、それは即ちこの樹海が人類種の管理の外に捨て置かれた禁足地であるということの証明であった。


 帰らずの森――この森の近辺に住まう集落の人々はこの森をそのように呼ぶ。どうしてそのように呼ばれているのか。言うまでもなく名の通り、一度森に足を踏み入れたが最後その者は決して帰ること叶わずして、果ててこの森の一部へと取り込まれてしまうからに他ならない。

 単に広大で薄暗いが為に迷いやすいというだけの話ではない。その殆どがいとも容易く殺されてしまうのだ。この森に棲まう、飢えた住民達の毒牙によって。

 魔の瘴気に中てられ歪な怪物と化した野生動物。人間程の大きさの生き物でさえも蔦にて絡め取り、己が消化器官の酸によって溶かし栄養と変えてしまう食虫植物もとい食肉植物。そして脆弱なる人の身にはあまりにも耐え難い有毒の空気。しかしこれらですら帰らずの森の表層でしかない。それ程までに危険な存在が、この樹海にはごまんとひそめき蠢いているのである。


 この森は決して迷い子を帰さない。外界と隔絶された混沌の地にて生存を許されるのは適者生存の理に導かれた強者だけ。ありとあらゆる危険が跋扈し、危険が危険を蹂躙するこの世の果て。弱者は瞬時に淘汰され、土に斃れて閉ざされた生命の円環へと回帰するのみ。

 弱肉強食。それが帰らずの森に存在するたったひとつの、そして絶対の法則。決して人の身では及ぶことのない人外の領域。

 ならばこそ。この森の中心部へと向かって、ただの少女が傷ひとつすらなしに粛々と歩いているなどという光景は、果たしてどのように説明されるべきであろうか。

 

「………………」


 少女はひと言も発することはない。それはある意味当然だろう。彼女は護身として屈強な戦士も熟達した魔術の遣い手も伴うことはなく、たった独り我が身ひとつで魔の領域を侵しているのだから。虚空に喋りかける趣味など生憎持ち合わせてはいない。唯々ひたすらに粛々と前だけを見据え、水分を多分に含んだふかふかの土を踏みしめて進むのみ。


 そんな彼女の出で立ちは酷く奇妙なものだった。頭にはつばの広い黒色のハットを被り、肩からは飾り気のないロングコートが靡いている。それだけであれば、女性の格好にしては些か成人男性のそれに近いものというくらいで、特段語ることのない日常を生きる者の格好であろう。けれどもそんな彼女の格好を特異たらしめる要素は容貌にある。

 彼女の顔全体を黒いマスクがすっぽりと覆い隠しているのだ。目の部分には赤いレンズが嵌め込まれ、彼女の視界を薄く彩っている。鋭く尖ったマスクの口元はさながら猛禽の嘴のようで、その下に潜む彼女の表情は当人以外知ることは叶わない。とはいえ、常人からは大きくかけ離れた格好であろうと、この森に棲まう異形達の見てくれの醜悪さには遠く及ばないのではあるが。

 闇夜を駆ける鴉。もしくは、死を齎す死神。知らぬ者が彼女の格好を称したのであれば、きっとそのような言葉が返ってくるに違いない。

 けれども、結局はその程度だ。彼女の宿す異常性というものは。彼女の齢は十五を少し過ぎた頃。大人と子供の境目くらいの年齢の少女が、今も尚この場にて生を許されている。その事実に比べれば、格好の異常性など取るに足らない塵芥の如し。


 さて、そのような少女がどうして帰らずの森、その奥深くに至りて尚生きていられているのか。答えは至極明快。強いのだ、彼女は。この森の悉くよりも、遥かに。

 彼女の軌跡、二時間程前に少女が森へ立ち入ってから此処までに歩いてきたその足跡の上には夥しい数の屍骸が転がっていた。全て、彼女に襲いかかっては逆に狩られて命を落とした魔物達の屍骸。黒いコートに点々と刻まれた赤黒い体液は彼女自身のものではない。彼女が屠った魔物の返り血だ。屍山血河。それらを踏み越え、彼女は尚も歩き続ける。

 彼女はそんな魔物を狩る為に半生を強くなることだけに費やしてきた。彼女はハンター――人を襲う悪鬼羅刹や、人を喰らう魔の物達を狩り、その報酬にて日銭を稼ぐ人外専門の狩人なのだ。彼女がこのような人外犇めく魔の森を訪れたのも、そんな彼女自身の背景に起因する。

 先日、彼女は依頼を受けたのだ。近頃、森の凶暴な魔物が頻繁に森の外に出ては村人を襲っているので調査して欲しいという依頼を、森の近辺に棲まう村の村長から。

 それは異常なことだった。本来ならば帰らずの森の魔物達は余程のことがない限りはこの森から出てくることはない。前述したように、瘴気や胞子の漂う森の空気は人間にとっては有毒極まりない危険な環境なのだが、それは同時に森の生き物にとっては必要不可欠の環境でもあるからだ。過酷な環境へ適応するということはある種の先鋭化だといえる。

 森の生き物は森の過酷さに適応する代わりに、過酷でない環境への適応力を失った。彼らが森の外に出たならば、当然個体差はあろうが立ちどころにして死に至る他有り得ない。即ち、この森は文字通りの閉じた円環なのだ。そんな円環に綻びが生じているという現状が異常でなくしてなんだというのか。

 ――なんて言葉を村長から熱弁されたものの、当初の少女はこの依頼を受けるつもりは一切なかった。村を訪れたのもとある目的の為の調査に寄っただけであり、当分は危険を冒さずとも食っていけるくらいの持ち合わせもあった。確かに森から魔物が出て人を襲うというのは異常なことかもしれないが、そんなものは自分には関係のないこと。自分は世の為人の為、正義の為に身を尽くして戦っている訳ではない。それにどうせ森の生き物は一度森を出てしまえば長くは生きられぬのだから。

 しかし、結局のところ今の彼女は依頼を受けてこの森の調査に出向いている。何故か。それは彼女がハンターなどという常に死の付き纏う危険な職を生業にしている理由と密接に関わっていた。

 それを端的に表すのであれば――復讐に、なるのだろう。


「……! 空気が、変わった……?」


 唐突に響く少女の呟き。ずっと一定の速度で動かしていた両足を止め、彼女はマスクの赤いレンズ越しに森を見渡した。視界に映る光景は先程までとなんら変わりはない。けれども確かに、何かが違っていた。目に見えぬ部分、ハンターとして潜ってきた死線によって研ぎ澄まされた直感が告げているのだ。この先に、何かとてつもなく強大で恐ろしい存在が潜んでいるということを。肌が粟立つような、ともすればひりつきにも似た感覚。此処に至るまでに払ってきた火の粉などとは比べ物にもならぬ威圧感。


「間違いない……この感じ、アイツがいる」


 その言葉と共に彼女が抱いたのはひとつの確信であった。己が復讐の対象、己の日常という名の幸福を奪い去った災厄。それがこの先に潜んでいるということを。

 ごくり、と少女の喉が鳴る。同時に彼女は半ば無意識にロングコートの内側へと手を伸ばし、自身の相棒とでもいうべき得物――特注の六連装リボルバーのグリップを握りしめる。剣や槍などの近接武器で連中と相対するにはあまりに危険。弓やボウガンでは威力が足りない。故に熟練のハンターが得物として選ぶのは専ら銃なのだ。

 その銃の中でも彼女の持つそれは特別な一丁だった。ハンター達の間では知らぬ者のいない伝説のガンスミス『ゴールドマン』の手掛けた彼女の為だけの銃。人ならざる魔物達を確実に葬り去る為の専用カスタマイズが至るところに施された、この世にふたつとない至高の逸品。

 この銃の威力は彼女自身が誰よりも知っている。人に撃つなど考えられない程の馬鹿げた火薬量の銃弾を扱える耐久性。銃に彫り込まれた刻印――エングレーブは一般的な滑り止めとしての機能を担うだけでなく、刻印そのものが聖魔術的な意味合いを宿しているが為に、人ならざる存在に対してはより一層効果的に働くのだ。

 しかしながら、それ程の得物を手にしても尚、彼女は自信を持ってこれから相対するであろう存在を討ち滅ぼせるとは言い切れなかった。


「なに弱気になってるのよ……殺せるかどうかじゃない。殺すんでしょ、アイツを、必ず……!」


 少女は己を鼓舞するように小さく言葉を呟いた。マスク越しのくぐもった声は森を揺蕩いそのまますぐに溶けて消え失せる。言葉とは裏腹に、彼女の鼓動はその勢いを増すばかり。心情を敢えて音へと変えて紡ぐという事象そのものが、裏を返せば不安の現れなのだろう。

 そうして彼女は密集した草木の間をすり抜け、一歩進む度に強くなる重力にも似た威圧の波をかき分けて――遂に、辿り着く。


 森の最奥、威圧感の中心。かの者の鎮座するその空間は、木々が絶え間なく茂る帰らずの森の中においてはあまりにも奇妙な光景であると言えるだろう。端的に言うのであれば、何もないのだ。一際高く聳える一本の太い樹を除いては、何もない。

 一本の樹を中心にして、その周囲はまるで刈り取られてしまったかのように開けていて、今までは一切差し込むことのなかった木漏れ日すらもがぽつりぽつりと淡く世界を彩り、恒久的だった筈の闇を打ち払っている。辺りはしんと静まり返り、得体の知れぬ魔物の鳴き声も、獰猛化した狼の遠吠えも、それら全てがこの空間を不躾に侵食することは叶わない。

 酷く、幻想的な光景だ。少女はぼんやりと、そう思った。もしもこの世に神からの祝福を受けた聖域などというものが存在するのなら、きっとこんな光景なのだろうか。一瞬だけ、少女は胸に宿した殺意の念を忘れてしまう。眼前に広がる美しい光景に、そのような殺伐とした感情は似つかわしくなかったから。されど、その中心。木に傍に座り込み、上体を幹に預けてぴくりともせずに項垂れる人影の存在を認めた瞬間、霧散しかかった殺意が再び少女の炯眼へと宿される。


 一歩、一歩。先程までそうしていたように、彼女は地面を踏みしめ、ゆっくりと歩き出す。淡いパステルカラーの聖域を少女の黒が塗り潰してゆく。闇より暗い、少女の黒が。


「だれ――――?」


 もとより、気配を殺して存在を悟られぬままに命を刈り取るつもりなどはない。それでは復讐が果たされぬではないか。故に少女は気配を殺すこともなく人影へと近づこうとした。すると当然の結果として何者かの存在を察知した人影は、頭を垂れたまま掠れた声で問いを紡ぐ。


「……人生ってのは、何があるか分からないものね。最初にこの依頼を受けた時は、まさかアンタに会えるだなんて思ってもいなかったわ」


 少女は語る。目の前の人影――服とは言えぬようなボロ布一枚に身を包んだ銀髪の女性へと。

 座り込む女性の前には、ありのままの人骨が人ひとり分だけ横たわっていた。どうしてこんな森の奥深くに人骨があるのか。少女は一瞬だけ奇妙に思うも、どうせ喰われたのだろうと結論を出してすぐさま視線を女性へと戻す。


「数年前まで、大陸全土を脅かしていたある残忍な吸血鬼がいた。『紅の災厄』なんていう大層な呼び方をしている連中もいる訳だけど……まあ、それはいいか。その吸血鬼は神出鬼没に姿を現しては、周辺に住む人間を惨たらしく皆殺しにする悪魔のような……というよりは、悪魔そのものね」


 少女はマスクに覆われた口元を歪ませながら語り続ける。彼女の言葉は銀髪の女性に向けられているようで、けれども彼女の双眸は違う何かを睨みつけているようだった。


「人間は皆例外なくその吸血鬼を恐れていたわ。小さな村ひとつやふたつなんてものじゃない。何人もの熟練のハンターが拠点にしていたような大きな町ですら幾つか滅ぼされた。たったひとりの吸血鬼によって、ね。信じられる? たったひとりよ?」


 銀髪の女性は答えない。少女も返答を期待していた訳ではない。そも、これは相互理解を目的としたコミュニーケーションなどではないのだ。単なる事実の確認か、或いは命を賭した果し合いに至る寸前の少女なりの前口上なのだから。


「あたしもね、昔は信じてなかったのよ、そんな話。あたしのパパは農家だったからすごく身体が大きくてとっても力持ちだった。でもパパが言うには、魔物達から人を守ってくれるハンターや王都の騎士団の人達は、パパよりももっと力が強くて頼もしい人ばっかりだから大丈夫だって。だからあたしも、大人達が子供を怖がらせる為の嘘でそんな化け物、本当はいないんだって思ってた。――あの日が来るまでは」


 一段階、少女の声の調子が低くなる。過去を振り返ると同時、彼女の奥底から溢れだしそうになった郷愁の念。二度とは戻らぬ大切な記憶。けれども感傷に浸るのはまだ早い。慈しむにはあまりに早すぎる。

 故に彼女はそれらを飲み込み、握りしめたリボルバーの銃口をゆっくりと女性の頭部へと向け、撃鉄を起こしてから引き金へと指をかけた。銃のフレームが木漏れ日の光芒を受けてぎらりと牙を剥く。


「みんな、殺されたわ。パパも、ママも、隣に住んでたトミーおじさんの一家も、お調子者のエリオットも、みんな、みんな。四肢をもがれ、首元を喰いちぎられ、目玉を抉られ、頭を踏み潰されて……まるで虫を捻り殺すみたいに、惨たらしく……!」


 ――数年前のあの日、少女の運命を決定付けた審判の刻。幸福の終焉はあまりにも不意に、そして無慈悲に。終わりの始まりは夕食の時間、ライ麦のパンと温かいスープを家族で囲み、質素ながらも笑顔の絶えない穏やかな幸せを彼女が享受していた時のこと。

 村の何処かから、つんざくような悲鳴がひとつ、日常を切り裂いた。明らかに家畜のそれではない。人の声帯から発せられた、絹を裂くような狂乱の悲鳴。果たして、何が起きたのか。食事の手を止め、神妙な顔付きで立ち上がったのは少女の父親だった。小さな村社会において有事の際に立ち上がるべきは屈強な男だ。故に彼は何が起きたのかを確かめる為、少女と妻を家に残して外へと出て行った。「パパが戻ってくるまで決して家を出てはいけないよ」と、たったひとつの言葉だけを残して。それが少女が父と交わした最期の言葉であった。


 暫くの時が経つも、父が帰ってくる気配はない。何が起きたのか。父は大丈夫なのか。時間が経つにつれて次第に大きくなってゆく心の中のざわめきを、言の葉に乗せて少女は幾度となく母に向けて零す。母は少女の頭を撫でながら、何度も何度も大丈夫だと繰り返していた。けれどもふたりの共有する不安は高まるばかり。どうか杞憂であって欲しい。そんな少女の純粋でちっぽけな願いは、しかし次の瞬間最悪の形で裏切られることとなる。


 またも上がる、ふたつ目の悲鳴。否、それだけでは終わらない。三つ、四つ、五つ――次々と連続する恐怖に塗り固められた人の叫び声。最早、限界であった。少女の母は先程父がそうしたように立ち上がった。

 「何処へ行くの」と、震える声で少女が問う。「お父さんの無事を見てくるわ」と、母は震えを隠し切れていない声で答えた。そうして、こう続ける。「あなたは絶対に家から出ちゃ駄目よ。物置に隠れてじっとしていなさい」と。

 合理性という観点から考えるのであれば、少女の母の選択はあまりにも愚かな行動だといえよう。村を襲う得体の知れぬ暴力が凶暴な魔物の仕業であれ、無頼気取りのゴロツキ共の仕業であれ、女ひとりが立ち向かったところで悲劇がひとつ増えるだけなのだから。けれども彼女はじっとしていられなかったのだ。現在の少女がそうであるように、命を落としてでも己が愛した伴侶が、そして日常が、座して奪われてしまうのを待つだけなのは何よりも耐え難いが為に。

 そうして無謀にも災禍へと身を堕とす母を引き止めることも出来ず、少女は独りになってしまった。


 少女は家の物置の片隅に隠れ、死が通り過ぎるのを懇願することしか出来なかった。湧き上がる村人達の悲鳴、何かが潰れるような湿っぽい音、そして時折響き渡る何者かの狂った嗤い声。

 惨劇が直接見えぬからこそ、恐怖はより一層掻き立てられる。ガタガタと奥歯が鳴る。全身の震えはどうしたって止まらない。このままだと気が触れてしまいそうだった。だからこそ少女は跪くように小さくなって耳を塞ぎ、ひたすらに祈る。それしか出来ぬからこそ、祈る。祈る、祈る、祈る。助けて、神様、と。


 そうして、どれほどの時間が経ったであろうか。永久にも感じられる程の時間を経て、少女は気が付く。外が、しんと静まり返っていることに。凄惨な悲鳴も、誰かの嗤い声も、朝を知らせる鶏達の合唱も、小鳥のさえずりでさえも、全ての音という音が消え去って、自分の心臓の鼓動だけが鼓膜の奥で木霊していた。

 少女は悟る。終わったのだと。自分は生き延びたのだと。


 神なんて天上の存在が本当にいるのだとしたら、確かに主は少女の願いを聞き届けたのであろう。ひとつの村を襲った途方もない災禍の嵐を経て、少女だけは偶然にも難を逃れて生き延びたのだから。

 けれどもどうして、それを歓ぶことが出来ようか。全てが過ぎ去った後、恐る恐る外へと出た彼女が目の当たりにした光景はどうしようもないくらいに紅かった。

 見慣れた村の殆どが足の踏み場も見当たらぬ程に紅一色に染め上げられていたのだ。そんな紅の海には所々に点々と何かが浮かぶ。否、浮かぶというよりは粘着質にへばり付いていた。それを見て、幼い少女は自分の好物だった赤いクランベリーのジャムを連想する。母親の作ってくれる甘酸っぱいジャムに混ざる果肉に酷く似ていたから。

 だからこそ、彼女はそれを注視してしまった。本当はそれが何か、少し考えれば分かる筈だというのに。それでも自分の村を襲った悲劇を、自分自身の永劫に続く筈であったささやかな幸福に何が起きてしまったのかを、幼い彼女はどうしても受け入れることが出来なかったのだ。

 臓物だった。誰のものとも分からぬ臓物が、紅のキャンバスを残酷に彩っていた。それだけではない。肉が、胴が、足が、手が、骨が、歯が、そして頭が。つい先程まで、人だったものの残骸が、辺り一面に、これでもかと、散らばっていた。


 彼女の記憶はそこで一旦途切れている。心の許容量を遥かに超えた惨劇を目の当たりにし、彼女の本能が取った行動は意識を手放すことであったからだ。

 その後、彼女はハンター達に保護されて、自分の幸福を奪った者の正体がひとりの吸血鬼だということを知る。

 独りになった彼女は呪った。手当たり次第、視界に映るもの全てを呪おうとした。今日の今日まで吸血鬼を仕留めることが出来なかった不甲斐ないハンターや王都の騎士団。それが幸福であると知らず、のうのうと安寧を享受するだけの肥えた貴族や名も知らぬ平民達。

 けれども、そんな行為に意味はなかった。何故か。世の幸福を妬むなどという行為はただの八つ当たりに過ぎぬから。無差別に恨みを募らせたとて、ぽっかりと空いた伽藍堂の心が満たされることなどありはしないのだから。


 そうであるのなら、何が自分を満たすのか。何を憎めば、喪った幸福を取り戻すことが出来るのか。

 決まっている。自分から全てを根こそぎ奪っていった紅い悪魔と、震えたまま祈ること以外に何も出来なかった弱い自分のふたつの他に、怨むべきものなどある筈もないのだから。


「だから、あたしは強くなった。どんなに辛いことも我慢して、復讐の為だけに生きてきた。アンタを、殺す為に……!」


 これが、少女の背景。彼女に残された、唯一素性と呼べるもの。


 それが今日、ようやく果たされるのだ。眼前にて項垂れる銀髪の女性を激情に揺れる瞳で睨み付けながら、対照的に奇妙なくらい底冷えした頭で少女は思考する。


 銀髪は一部の吸血鬼にのみ現れる先天的な特徴。この女が今まで自分の追いかけてきた獲物であることは間違いないだろう。そしてなにより、匂うのだ。どれだけ森の奥底で静かに潜んでいようと、魔物達の巣食う辺境にて忍ぼうと、血の匂いまでは隠せない。今まで浴びてきた人間達の濃密な血の気配が、彼女にはこびり付き漂っているのだ。一見か弱き人間のように映るこの女の本性、薄皮一枚を剥いだ先に潜むものは醜悪な笑みを浮かべた悪魔だと、少女は信じて疑わない。


 ――さあ、見せてみろ。人間のフリを止めて、あの日のように穢らわしく嘲笑ってみせろ。それでこそ殺しがいがあるというもの。それでこそ復讐の甲斐があるというもの!


 刹那、ずっと項垂れていた吸血鬼の頭がゆっくりと持ち上がる。彼女の霞んだ真紅の双眸が朧に空を揺蕩い、少女の殺意に彩られた黒い眼光へと絡み合う。そして紡ぐ。ぽそりと、漏らすように。胸の奥から、絞り出すように。


「ごめん、なさい」


「は…………?」


 予想だにもしないひと言だった。今、この女はなんと言った――――?

 虚を衝かれて、少女の思考が一瞬固まる。聞き間違いでなければ、たった今彼女はごめんなさいと、己が過ちを認めて謝罪の言葉を口にしたのだ。信じ難いひと言だった。信じられる筈もなかった。否、信じてはいけないのだ。それを認めてしまえば、今まで自分の歩んできた修羅の道が丸ごと否定されてしまうから。


「……けるな。巫山戯るなッ‼」


 故に叫ぶ。少女は叫ぶ。先程までの冷静な思考は、一瞬にして激情へと染め上げられて、それをそのままぶつけるように。


「ごめんなさい、ですって……っ⁉ ほざくな、この人殺し‼ そんな言葉ひとつじゃアンタの罪は……っ!」


「わかってる。……わかってるから、わたしを、殺して。あなたの銀弾で、どうかわたしを裁いて」


 最早何が何だか、少女には分からなかった。謝罪の言葉を口にしたかと思えば、次に彼女は自らの死を懇願したのだ。掠れた声で、今にも泣き出しそうな表情を浮かべながら、自分を殺せとそう言うのである。


「……ッ! だったら、望み通りにしてやる……ッ!!」


 瞬間、脳裏に這いずり回る幾つもの疑問。彼女はどうしてこんなところで項垂れ佇んでいるのか。数年前まで頻繁に、そして無作為に振り撒いていた筈の殺戮を何故止めるに至ったのか。そしてどうして自身が築き上げてきた数え切れぬ程の死を、今更悔いて裁かれようとしているのか。

 全てが分からない。濁流の如く込み上げる怒りと憎しみ、そして混ざる疑念。

 自分はこの日をどれだけ待ち侘びたか。復讐を果たし、奪われた幸福の仇を取ることをどれだけ切に望んだか。全てが終わった時はきっと、澄んだ空のような晴れやかな気持ちでいられると思っていた。だというのに、何故今の自分は斯様な心持ちで銃を握らねばならぬのか。


 だから、叫ぶ。再び、叫ぶ。自分はかつて誓った筈だ。復讐の為であれば、人の道を捨て修羅へと堕ちても構わないと。この咆哮は己が修羅を奮い立たせ、残った人を拭う為のもの。

 心の中で渦巻く様々な感情を捨て去り、あの日誓った吸血鬼への復讐を完遂する為に、少女は指先へと力を込めて――。


 音が、弾けた。落雷にも似た、強烈な破裂音。ゆらりと銃口から立ち昇る硝煙が少女の被ったマスクを柔らかく撫ぜる。それでも目の前に映る光景は、何も変わりはしなかった。


「どう、して」


 静寂を裂いた小さな呟き。その言葉の主は、人か、魔か、もしくは両方か。

 少女の銃は、今しがた確かに退魔の銀弾を撃ち放った。けれども尚、吸血鬼は未だに生きている。何故か。外したのだ。少女が、銃弾を。吸血鬼のそよぐ銀髪のすぐ隣、彼女が背中を預けていた木の幹に、代わりの大穴が空いていた。

 この距離で狙いを外す訳がない。つまりこれは無意識の領域に残っていた、捨て切れなかった少女の『人』が、吸血鬼の頭部を穿ち貫くことを拒んだのだ。


 何故、殺せなかったのか。少女自身にもよく分からなかった。あれだけ憎んでいた筈なのに。

 兎角、燃え上がるような感情の奔流は、弾けた銃声の中に溶け、硝煙と共に天へと昇っていった。


「……話してよ。どうして、アンタが殺戮を止めたのか。全部、話して」


 今はむしろ、安堵すら覚えるくらいに平静の中にあった。銃を握る手を降ろし、少女は静かな声色で問いの言葉を投げかける。


「それ、は」


 吸血鬼の表情に浮かぶ躊躇いの色。されど少女はその躊躇いを許さない。


「いいから、話しなさい。もしもアンタが本当に、自分の行いを悔いて罪を罪だと感じているのなら、全部話しなさい」


 僅かな逡巡、静寂の刻。そうして吸血鬼は、徐に口を開く。再び目を伏せ、震えた声でぽつりぽつりと言葉を紡ぐその様は、まるで懺悔室の中での告白のよう。


「わたしが人を殺せなくなったのは……好きになってしまったから。人を、愛してしまったから」


 嗚呼、今、ようやく分かった。どうして自分がこの吸血鬼を、夥しい数の人間を殺してきた紅の災厄を、撃ち殺すことが出来なかったのか。

 この女は、自分と同じ。喪ってしまった幸福を嘆き、過去に囚われたまま進むことの出来ぬ停滞の徒であるのだから――――。





 わたしは、獣だった。殺戮と破壊、それだけを好む名前のない怪物。誰かを殺すことでしか生の実感を得られない、生まれついての殺人鬼。


 吸血鬼という種族は自らの生存の為に、人の生き血を定期的に啜らなければ生きてはゆけない。でも、人間という種族を憎んでいる訳じゃない。人が牛や豚を殺して食べるように、そうしなければ自分が死んでしまうから殺すんだ。勿論、中にはその行為を狩りと称して楽しんでいる者もいるだろうけど、根底ではみんな食べなきゃ生きていけないから、他の生命を奪えるんだ。


 でも、わたしは違った。わたしの振るう殺戮にそんな大義名分は存在しない。


 我が身が殺戮を欲しているから、殺す。


 誰かを殺すことにそれ以上の理由はいらなかった。言うなれば衝動だ。『わたし』という存在の奥深く、根源とでもいうべき場所が片時も離さずに囁くんだ。殺せ、殺せ、殺せ、と。世の中の全てを怨嗟の焔で燃やし尽くしてしまいたい。わたしはそんな衝動に一度も抗うことはしなかった。抗おうと思ったこともなかった。


 だから、殺してきた。沢山、数え切れないくらい。人間を、動物を、同胞ですらも。ありとあらゆる生命を壊して、潰して、奪って、殺した。その殆どを喰らいもせずに、唯々殺したいから殺し尽くした。





 ――その結果が、これだ。わたしを取り囲む大勢の人間達。全員が銃や剣、槍を握りしめて憎しみの眼光でわたしを睨みつけている、そんな光景。いいや、人間だけじゃなかった。軍勢の中には人間じゃない者も大勢いた。辺境の地で暮らすドワーフ、全身が鱗に覆われた竜人、沼地の魔女に、わたしの、同胞。銀髪を靡かせた、吸血鬼。


 彼らの中には対立していた種族も少なくはない。人間と吸血鬼なんてその最たる例。そんな彼らが、わたしというたったひとりの存在を討ち滅ぼす為だけに、歴史の軋轢を飲み込んで手を組んでいた。

 そんな光景を目の当たりにして悟ってしまう。わたしは何時の間にか、世界の全てを敵に回していたことを。わたしだけが、世界から孤立していた。


 絶対的な孤立。その事実が殺戮だけだった筈の胸を酷く締め付けるんだ。

 全く我ながら、笑いそうになるくらいに滑稽な話だよ。だって世界を拒絶していたのは、他ならぬ自分自身なんだから。引き金を引いたのはわたしの方なのに、今更になって寂しいだなんて通る訳もない。

 わたしに同胞なんてものはいなかったんだ。わたしは命の理から外れた異端者。誰からも欲されることのない忌み子。


 ならばこそ、最期まで獣でいよう。異端者として、殺し続けよう。


 そして、『わたし』と世界との戦いが始まった。


 多分、誰よりも強かった。今となっては強さしか誇れない生き物なんて馬鹿みたいだとは思うけど、ともかくわたしは強かったのだ。でなければ種の垣根を超えてまで連中が手を結んだりはしないだろう。

 けれども、あまりに数の差が圧倒的だった。わたしが全力を込めて腕を振るうとそれだけで数十人が命を落とし、余波で数百人が怪我を負う。それだけでも充分過ぎる程の虐殺なのに、何度繰り返しても一向に連中の数は減らない。わたしは確かに最強だった。でも、無敵じゃない。腕を撃たれ、脚を刺され、胸を穿たれて、次第にわたしは追い詰められていったんだ。終焉はすぐそこまで、近づいていた。


 徐々に朦朧となってゆく意識の中で、わたしはぼんやりと理解する。


 『わたし』の奥底に根差した殺戮の衝動。『わたし』という存在が本当に殺したかったものが何かを。


 それは多分、わたしそのもの。わたしはきっと、自分を殺したがっていた。消え去りたかったんだ。泡のように、煙のように。静寂に溶けていなくなりたかった。

 だってそうでしょう? とめどなく溢れ出る殺意の赴くまま、あらゆるものを壊してきたというのに、満たされるのは心の表層部分だけ。わたしに殺せと命じる当の『わたし』自身は、むしろその度に乾いて、本当は段々とからっぽになってゆくのだから。ならもう、壊せるものなんてひとつしかないじゃない。

 でも、それももう終わり。わたしは此処で獣として果てる。最期まで、嫌われるだけの化け物として。

 そんな願いがもうすぐ叶うというのに、どうしてこんなにも。


 どうしようもなく、虚しいのだろうか――。


 そうしてわたしは死んだ。殺された。殺された、筈だった。

 なのに、わたしは生きていた。生き延びて、しまった。


 あの世界の殺意全てが集まる戦場をどうやって生き延びたのか。正直に言うと殆ど覚えていない。気が付くと辺りには誰もいなくて、わたしは暗がりの中を独り、行く宛もなく彷徨い歩いていた。何処かの藪の中だろうか。何処を見回しても景色は変わらず緑色。茂る木の幹を支えに、ゆっくりと歩き続けながら、霞む記憶をなんとか辿って断片的な情報を拾い上げると、得られた結論は敗走の二文字。

 そう、わたしは逃げたんだ。戦いの渦中、わたしを中心に敷かれた包囲網に一瞬だけ開いた隙の穴。それを縫うように脱兎の如く駆け出して、今もこうしてのうのうと生き長らえている。

 しかし、そうなると疑問がひとつ湧く。どうしてわたしは死を拒んだのか。わたしという存在の終着点は紛れもなく死であると、他ならぬ自分自身がつい先程認めた筈じゃないか。


 まさか、死を畏れたとでもいうのか?

 よもや、土壇場で躊躇ったとでもいうのか?


 そんな筈はないと内なる自分の声に耳を傾けようとして、しかし次の瞬間わたしは気が付いてしまう。『わたし』の声が聞こえないのだ。この空疎な世界に生まれ落ちた瞬間から、片時も離れずにいた『わたし』の声が、終末を望む怨嗟に彩られた獣の雄叫びが、露ほどにも聞こえやしないんだ。

 あんなにも殺したがっていたのに。あんなにも死にたがっていたのに。自分に唯一存在していた衝動すらも喪って、ならば今のわたしは何だというのだろう。あれだけの死を築き上げて尚満たされぬ貧食者が、果たしてこれ以上何を望むというのだろう。


 まあ、いいか。どうせ、終わるんだから。


 なんとなく、笑ってみようと思って、顔に力を入れてみたけど不器用に引き攣るだけだった。そうしてそのまま、わたしはその場へうつ伏せに倒れ込む。同時に素肌を刻む藪の草木の痛みでさえも、最早わたしには感じられない。

 傷を負い過ぎたんだ。並の吸血鬼であればもう両手の指じゃ数え切れないくらいに死んでる程の深い致命傷が、全身に何箇所も。血を流し過ぎたらしい。全身の感覚は流れる鮮血と一緒に何処かへ行ってしまった。耐え難き激痛ですら、遥か彼方へと遠ざかってゆく。


 逃げたところで、結局は死の訪れが少し遠くなっただけ。意識が堕ちてゆく。闇へと。茫々たる闇へと。寂寞たる闇へと。永劫たる闇へと。何処までも、堕ちてゆく。

 玉響。消えゆく意識の端っこで、わたしじゃないわたしが、『わたし』でもないわたしが、幻想を仰ぎ見て、あり得る筈もない願望を、赦される筈もない憧憬を、たったひと言呟いた。


 独りぼっちはもう、嫌だな、と。




 ――二回目だ。死んだと思った筈なのに、こうして瞳に黒き闇以外の光景を映すのは。

 わたしの視界の先に広がる光景は、何処かの知らない天井だった。


「……おんぼろ」


 見たまま、ありのままの率直な感想。今にも崩れてきそうなくらいにぼろぼろの天井だったから。


「ぼろいって言うなよ。これでも自慢の家なんだ。傷つくだろ」


 何者かの声が、ぼんやりと空を漂っていたわたしの意識を肉体の檻へと引き戻す。わたしにとって他者という存在は例外なく敵だから、声の主へと相対する為、反射的に起き上がろうと全身に力を入れようとする。しかしぴくりとも反応しない。どれだけ全身に命令を下しても、その度に激痛が奔るだけで、どうやっても動きそうにはなかった。今のわたしを表現するなら、さしずめ糸の切れた操り人形というところだろうか。


「止めとけって。お前さん、死んでないのが不思議なくらいの大怪我だったんだから」


 男の声だった。どうにか首だけを動かして、視線を声の主へと向ける。


「睨むなっての。一応これでもオレはお前さんの恩人なんだぜ?」


「恩、人……?」


「ああ、そうだとも。水を汲みに行こうと思って家を出たら、途中で血だらけのお前さんが倒れてたんだ。最初は魔物に襲われて殺された可哀想な死体だと思ったんだがね、よくよく見るとまだ息がある。こうしちゃいられねえと思ってお前さんを家まで担いで治療してやったってワケ」


 なるほど。つまりわたしを囲む狭苦しい小屋はこの男のねぐらで、自分は不幸にも再び生き延びてしまったという訳だ。


「ま、ちょっとくらいは感謝しろよな。オレが運良く通り掛かったからいいものを、そうじゃなかったらお前さん今頃確実に死んでたぜ?」


「……別に、頼んでないし」


 男の浮かべる快活な笑みがどうにも眩しくて、わたしは視線を天井へ戻してから短く答える。


「あらら。お前さん、世捨て人の類かね? まるで本当は死にたかったのに余計なことし腐りやがって、なんて言いたげな表情してやがる」


 当たらずも遠からず、だろうか。確かにあの大軍と相対していた時にはそうだった。けれどもその後、惨めに逃げてから意識を失う直前には、その感情すらも無くなっていた。強いて言うなら――疲れてしまった。これが一番近いだろうか。


「……さあね。ひとつ言えることがあるなら、生き延びたってこれっぽっちも嬉しくないってことくらい」


「なんたってそう不貞腐れるかねぇ。知らない? 命あっての物種って言葉。生きてる以上に良いことなんて、そうそう有りはしないんだぜ」


 煩いな、全く。そんな言葉、聞きたくない。男に背を向け、わたしは自分の身に掛かっていた一枚の毛布を頭まで被って彼との会話を拒絶する。


「おう、寝ろ寝ろ。寝て飯食って、傷が癒えたら気分も少しは晴れるだろうよ」


 なんなんだ、この男は一体。けれども彼の言う通り、自分の意思がどうであれ身体が欲しているのは間違いなく休息だ。今はもう一度、睡眠をとって身体を休めよう。それからどうするかは傷が癒えてから考えればいい。


 ――ちょっと待て。今、わたしは心の中でなんて呟いた?


 そうだ。それからどうするかと、そんな風に考えた。この言葉は本来、わたしにとってはありえない思考なんだ。だって今までのわたしにはどうするもこうするも、常に先には破壊と殺戮以外はなかったから。

 やはり、わたしの中の『わたし』が何処にも見当たらない。殺せという囁きが、言葉では言い表すことの出来ない万物全てへの憎しみが、跡形もなく何処かへ消え去っていたんだ。


 それを認めた途端、なんだか急に酷く心細くなってきた。きゅう、と胸が締め付けられて、喉の奥で吐き気にも似た感覚が暴れている。なんたってこんなにも胸が苦しいんだろう。

 その答えに辿り着くよりも早く、わたしの意識は闇へと溶けてゆく。冷たくなくて、むしろどうしてか温かい。闇にも種類があるんだなって、そんなことを考えながら。


 翌日、わたしはまた目が覚める。そりゃそうだ。寝たら当然、明日が来る。生きているから、生き延びてしまったから、どうであろうと明日は来るんだ。


「よう、寝坊助さん。随分ぐっすりだったじゃねえの。気分は?」


「……まあ、悪くはないよ」


 勿論、まだまだ痛みもあるし到底元気とはいえない状態ではあったが、少なくとも死が付き纏う領域からは抜け出してしまったらしい。全く、余計なことをしてくれたものだよ。


「そりゃ重畳。飯は食えそうか?」


「ご飯? いいよ、別に――っ!」


 食欲がないかと問われれば嘘になる。吸血鬼は人の血を吸って永らえる種族だけど、かといってそれ以外の食事を摂らないわけじゃない。今までは殺してきた生き物の肉を気が向いた時に喰らってきたから空腹なんて覚えたことはなかったけど、言われてみると確かに今のわたしはお腹が空いていた。

 でも、だからって見ず知らずの人間から施しを受ける理由がない。こう言っちゃなんだけど、わたしを助けたというこの男は住んでいるところもぼろぼろで身なりも決していいとは言えない。自分ひとりを喰わせてゆくので精一杯だろう。

 なんてことを考えて、いらないと彼の好意を拒絶しようとした瞬間だった。くぅ、と小さく音が響いた。わたしのお腹が鳴ってしまったのだ。なんて間の悪い。


「ちっ……!」


「はは! 随分と可愛らしい腹の虫だな!」


「うるさい、笑うな!」


「拗ねるなよ。ほら、これでも食えよ。腹減ってんの我慢したっていいことないぜ」


 そういって男は小屋の真ん中のテーブルを指差した。つられて視線をそちらへ向けると、テーブルの上にはライ麦のパンと干し肉が鎮座している。茶色で飾りっ気のない粗末な食事だ。


「…………」


 いらないと言って突き返そうか、少しだけ迷った。けれども彼の言う通り、空腹は事実なのだから此処で意地を張ったって良いことなんてありはしないし、何よりくだらないやり取りで自分が本当に拗ねてしまったように思われるのが嫌だったから、もぞりもぞりと身体を動かし、ゆっくりとベッドから這い出てテーブルの前の椅子へと座る。きぃ、と天井と同じおんぼろの椅子が鳴くように軋んだ。


「悪いな、こんなもんしかなくて」


 硬いパンを手に取り、両手でちぎってひと口分だけ口へと運ぶ。ゆっくりと数回咀嚼し、嚥下に至る。パサパサ……というよりはモサモサだ。味も濃厚なライ麦の中に特有の酸味が混じった、何処にでも有るようなパンの味。


「……美味しい」


 だというのに、それがどうしてこんなにも美味しいのだろう。お腹が空いてたから? それも当然あるだろうけど、そもそも物を食べて美味しいとかそうじゃないとか、味を確かめながらゆっくりと食事を摂ったことそのものが思えば初めてのことだった。


「人間と同じ物を食うのか分からなかったから心配だったが、お気に召したようで何よりだ」


 なんて言葉を、彼は飄々と笑いながら、こともなげに言い放った。彼の言葉は即ち、裏を返せばわたしが人間でないということを知っているが故の言葉。

 食事の手を止め、わたしは男を思い切り睨み付ける。


「っ?! 気付いてたの、あなた……!」


「そりゃあ気付くさ。全身穴だらけだったんだぜ、お前さん。なのに生きてたってだけで驚きなのに、極めつけはその回復力だ。あんだけ深々抉られてたってのに、もう殆ど傷も塞がっちまってさ。幾らなんでも、人間ってのはそこまでガッツねえだろ」


 言われてみれば、その通りだ。わたしが人間ではなく化け物だということを、この男はとっくに分かっていたんだ。

 また、あの痛みだ。締め付けるような痛みが、ずきりと胸の奥で奔った。

 さあ、どうする。気絶させるか、それとも逃げるか。以前のわたしを基準にすると、殺す以外の選択肢が自己の中に存在しているという時点で紛れもなく異常なのだが、そんなことに気を回す余裕もなく、わたしはひとつ薙げば容易く散るであろう人間ひとりを、まるで追い詰められた窮鼠のように睨み付ける。


「そう怖い顔すんなよ。取って食ったりしねえって」


 けれども彼は一切臆することもなく、苦笑混じりで冗談すら口にする有様だった。


「……普通、喰うのはわたしで喰われるのはあなただと思うんだけど?」


 思わず毒気を抜かれてしまい、口の端から溜息が漏れてしまう。


「はは、喰われるのはちょっとやだな。好きじゃないんだよ、痛かったり血が出たりするのは」


「なら、どうして……?」


「あん、何がだよ?」


「決まってるでしょ。わたしなんかを助けた理由。人外と分かってて、わたしみたいなのを助けたって当の本人に襲われるか、そうでなくとも何かしらの火種になるって、明らかじゃない……!」


 少なくともわたしを助けたって何も良いことはない。わたしは世界の敵なのだから。そんな化け物を助けたところで、百害あって一利なし。損をすることはあっても得をすることなんて絶対にないと言い切れる。


「助けた理由ねえ。お前さんが美人だったから、じゃダメか?」


「巫山戯ないで!! ……あなたは、知らないからそんなにおちゃらけていられるのよ」


 ただの人外なら、百歩譲って助けるのも分からなくはない。この世界には人間に友好的な種族もいない訳ではないのだから。だけど、わたしは違う。彼は知らないのだ。わたしがどうしようもない化け物であるということを。数え切れぬ程の殺戮を繰り返し、自らが築き上げてきた死の山を嘲笑いながら踏み躙る、最低最悪の化け物であることを。

 ならばいっそ、知らしめてやろう。その時に彼がどんな表情を浮かべるのか。どんな声色でわたしのことを罵るのか。

 なんて、ある種の暴走。或いは自傷的なやけくそに突き動かされて、わたしはひたすらにぶちまける。手を染めてきた殺戮を、思い出した順に、洗いざらい。


「――これだけ話せば、充分伝わったでしょ。わたしがどんな化け物か」


 どれだけ話しただろうか。わたしがどれ程の人間を殺してきたか。わたしが殺戮をどれ程楽しんで残虐に行ってきたか。そんなものを極めて露悪に、努めて嫌悪を刺激するように語った。

 その間、彼はひと言も喋らなかった。ひとつ殺戮を語る度、胸の痛みはどうしてか再び加速する。


「……あー、その、なんだ。色々とお前さんに言いたいことはあるんだけどよ」


 暫しの沈黙の後、彼は言いにくそうに口を開いた。


「それ、オレに言ってどうしたいワケ?」


「…………は?」


「だってそうだろ。お前さんはお前さん自身が言うにはどうしようもない化け物で、沢山人を殺してきたって言うけどさ。生憎オレはお前さんの被害者なんかじゃない。だからンなこと知ったこっちゃないって寸法よ」


「怖く、ないの?」


「そりゃお前さんが今もオレを殺して喰おうってんなら怖いさ。でも違うだろ? そんだけ回復したんだ。その気になりゃそこのチンケなパンじゃなくて、オレを襲って腹を満たすことだって幾らでも出来た。でも、しなかった。つーことは、だ。少なくとも今のお前さんのそれは唯の威嚇で中身はからっぽなのさ」


「見透かしたようなこと、言うじゃない」


 でも、事実だった。殺すと息巻いたところで、殺意の伴わない虚勢なんて醜いだけ。彼の言う通り、わたしの中からは殺意や憎しみだけがすっぽりと抜け落ちて、何処か彼方へ消えてしまっていた。


「ねえ、わたしさ。どうすればいいのかな。今までずっと、何もかもが憎かった。全部壊そうと思ってた。でも、なんていうかな。憑き物が落ちたみたいって言うと無責任過ぎるかもしれないけどさ……そういうの、もう全部無くなっちゃったんだ。あなたの言う通り、からっぽ」


 気が付けば、そんなことを口走っていた。自分の内に広がる漠然とした不安感を吐露するように。どうしてか、この男になら零してもいいと感じたから。

 認めよう。だからこそ、不安なんだ。今まで唯一の寄る辺であった『わたし』を喪って、残ったものはちっぽけな自分と、世界にとってわたしが敵だという事実だけ。わたしは『わたし』がいたから、孤独に耐えることが出来たんだ。もうこれ以上誰も殺さないと叫んだところで、世界は決してわたしを受け入れることはない。


 自業自得なのは分かってる。でも、それがどうしようもなく悲しいんだ。


 『紅の災厄』だとか、そんな大層な名で呼ばれたところで、所詮はわたしも世を生きる一匹の生命でしかなかったということなのだろう。それに気が付くのが、あまりにも遅すぎた。


「やだ、なぁ……。我ながら、馬鹿みたい……っ! あれだけ殺して、あれだけ憎まれて、そうしないと自分の寂しいって気持ちにも気付けないなんて……遅すぎだよ、ホント……っ‼」


 紅に染まった道を振り返ってみれば、それに気が付くことの出来る機会は確かにあった筈なんだ。幾つも、幾つも。何処かで一度立ち止まって、ちゃんと自分の声に耳を傾け、自分の本当の姿を識ることさえ出来ていたのなら、或いは。


 そうだ、わたしはきっと。本当は、死にたいのと同じくらい、生きていたかったんだ。

 生きていたいっていうのは、生命として生まれ落ちた以上、どうしても拭えない仄かな欲求なんだ。生きるってことは他の誰かと繋がること。世界を巡る大いなる命の循環の一部であることを受け入れること。


 わたしにはそれが、出来なかった。

 

 故に、殺した。死にたいという気持ちと生きていたいという気持ち。相反する感情がせめぎ合い、その果てにわたしという存在が選んだ手段こそが、他でもない殺戮だった。

 自分を取り囲む世界の全てを壊すことは、即ち自己の喪失と同義なのだから。殺戮を繰り返して世界の敵でいる内は、歪ながらも世界と関わり合いを持てるのだから。


 なんて、身勝手なのだろう。

 なんて、馬鹿馬鹿しいのだろう。


 死にたいのなら勝手に独りで死ねばいい。独りが嫌ならこんな八つ当たりめいた手段に訴えず、衝動に抗えばいい。


 そんなことをひたすらに、泣きじゃくる赤子のように取り繕うこともせず、気が付いたら全部零してしまっていた。


「ホントに、馬鹿みたい……っ!」


 いったい、どうしてわたしは泣いているのだろう。悲しいから? それとも悔しいから? 惨めだから? 分からない。唯々、ぐちゃぐちゃの感情が渦を巻いて溢れ出るんだ、とめどなく。

 どれだけ泣いたって何も変わりはしないのは分かってる。一度足を踏み外してしまった以上、二度と陽のあたる場所には戻れないなんてことは、とっくの昔に分かってた。分かってた、筈だった。


「なら、さ。やり直せばいいじゃねえか」


「は……?」


 この男は何を言っているのか。今までも大概わけの分からないヤツだったけど、今回ばかりは幾らなんでも常軌を逸している。けれども彼の浮かべる表情は至って真面目で、浮かぶ瞳は清流のように澄んでいた。


「やり直すなんて、出来るわけない。……やり直すには、わたしは殺し過ぎたもの」


「殺したら幸せになっちゃいけない、か。どうだろうな。少なくとも、オレはそんな風には思わない。第一、殺したから幸せになっちゃいけないってんなら、世の生き物は全員何かしら殺して喰らって生きてんだ。生命全てが幸せになっちゃいけないだなんて、虚し過ぎるとは思わんかね?」


「それは、食べる為でしょ。食べて生きる為だから……」


「理由なんて殺した側の都合でしかねえよ。喰われる為に殺されようが、快楽の為に殺されようが、殺された側にとっちゃそこで終わり。だからこそオレ達は必死に生きているんじゃねえの? 他人の命を奪ってることに対する感謝とか贖罪だとか、そういうのも無いわけじゃないんだろうけどさ。結局は生きたいから生きてんのよ。何時か必ず死ぬのを潜在的にどっかで悟ってて、それが怖くて、だから必死に生きてんの」


「必死に、生きる……」


「今話してたようにお前さんにとっちゃ殺すってのは、自分の生きたいって気持ちが死にたいって気持ちに潰されないようにする為の手段だったんだろ?」


 八つ当たりじみていて褒められたことではないだろうが、なんて言葉を前置いてから、彼は真っ直ぐわたしを見つめて続ける。人と目を合わせて話すなんて経験も思えば初めてだ。吸い寄せられるように、わたしの視線は彼の瞳から離れなかった。


「ならさ、お前さんもお前さんなりに必死だった……ってことじゃねえかな。手段は確かに間違っていたのかもしれねえが、その想いまで間違いだったとは少なくともオレは思わんね」


「わたしの、想い……」


「ああ。お前さんは自分の本当の心に気付いて、自分の間違いにも気が付けた。だったらやり直せるさ。やり直せるに決まってる。……上、見てみろよ」


 上を見ろと言われたって、涙に濡れる視界を拭ったところで映るものはおんぼろの天井だけだ。わたしが不思議そうな顔をしていると、彼はくつくつと喉の奥を鳴らしながら破顔してみせた。


「ボロっちい小屋だろ? 狭くて隙間風もびゅうびゅう吹きやがるし雨漏りも酷ぇ。けど、結構気に入ってんだ。汗水流してそのへんの木を切り倒して自分で建てたからな」


「急に、何の話?」


「いいから聞けよ。オレの話、ちょっと話したくなったんだ。さっきオレがどうしてお前さんを助けたのかって、そう聞いたろ? ……こっ恥ずかしいから一度しか言わんが、放っておけなかったんだよ、お前さんのこと。覚えてないかもしれんが、意識失ってたときのお前さん、まるで何かを掴むように手を伸ばしてたんだ」


 勿論覚えてはいない。戦いの後に藪へ逃げ込み、少しの間行く先も分からずふらふらになりながら歩いていた記憶しかない。


「それがさ、昔の記憶と重なっちまったのよ。オレ、こう見えても昔は王都の騎士団で働いてたんだ。……まあ、沢山殺したよ。人間じゃないってだけで、ちょうどお前さんみたいなただの女子供にしか見えねえ連中も。そんでさ、ある時妙な任務を受けた。獣人の親子だったかな。親の方は殺してガキの方は生け捕りにしろって。聞いてみたらガキの方は魔術の研究に使うんだと。多少疑問には思ったが、それで人の暮らしがより良くなるなら、なんて馬鹿みてぇな正義感で蓋をして、まんまとオレは従ったよ」


 深い溜め息が小屋の中に響いた。男が語りながら浮かべる表情は、何処か憂いと疲れを伴った自虐的な微笑みで、彼と知り合ってからの時間はとても短いものだけど、なんだか似合わないなとぼんやり思う。


「売られてたよ、ガキの方。城下町の闇市で、肥え太った下衆共が大金積みながら檻の中のガキを舐め回すようにみてやがった。ガキは心底絶望したような瞳で、何かに縋るように檻の間から腕を伸ばしてた。まあ、要するに悪趣味な好事家共の慰み者だよ。繋がってたんだ。正義を謳う筈の騎士団の上層部が、パトロンになってもらう代わりに金持ち連中の私利私欲を叶える為の使いっぱしりになってたってワケ。それ知ってさ、なんつーか何もかも嫌になったんだ。騎士団も辞めて、どっか人のいないところに行こうと思って、気が付いたら此処にいたんだ」


 そうして彼はもう一度ぼろぼろの小屋を見渡してから笑って言う。今度は今までの彼と同じ、なんだか見ていると此方まで胸が暖かくなるような快活な笑み。


「良いもんだぜ、やり直して生きるってのも。確かに王都で暮らしてた頃と比べると不便なことばかりだが、心を圧し殺して腐ってゆくよかよっぽど良い。だからお前さんも、きっとやり直せるさ。やり直して、何をしたらいいのか分からねぇなら、それまでずっと此処に居りゃあいい。それが見つかるまでは一緒にいてやるからさ」


 言い終わり、彼は照れ臭そうに視線を逸し頭を掻いていた。対するわたしは……泣いてた。さっきまでの行き場を失ったぐちゃぐちゃの感情が溢れたのとは違う。

 純粋で暖かい、たったひとつの感情の発露。それはきっと、安堵。自分独りだと思っていたこの世界に、わたしの居場所があったということへの安堵。わたしを受け入れてくれる生命があったということへの安堵。

 嬉しかった。唯々、嬉しかったんだ。暖かい何かがじんわりと胸の底へと染み込んでくるような、不思議な感覚。


 そうしてわたしは、彼と暮らすことを決めた。今までとは正反対の日々だった。朝になったら起きて、彼が用意してくれた食事を摂って、日が沈んでからは彼の自給自足を時々手伝ったりもして、寝る前には適当におしゃべりをして。そんな起伏のない、穏やかな日常。


 満ちていた。満ち足りていたんだ。幾ら壊しても満たされなかったあの頃とは違う。視界に映る全てが愛おしくて、紅色だけだった世界が鮮やかに色づいて見えた。


 そうだ。もう、『わたし』は何処にもいないんだ。いなくて、いいんだ。


 彼はわたしのやりたいことが見つかるまでは此処に居ていいと言った。でも彼が許してくれるなら、ずっと此処に居ようと思っていた。暖かい人の側に居ることが、わたしが奥底で渇望していた本当の願いだったから。


 ――でも、わたしはこの時点ではまだ分かっていなかった。わたしという存在が積み上げてきた罪の重さを。生命を奪うということの本当の意味を。


 わたしがそれを後悔してもしきれない程に思い知ったのはこれから約ひと月のこと。

 それは雲ひとつない真っ青な空の真ん中で、太陽の光が煌々と笑う、或る日の昼下がりのことだった。




「大丈夫か、お前さん……っ‼」


 わたし達は走っていた。木々の作る影に隠れるように日光を避けながら、必死になって藪の中を駆けていた。彼はわたしの手首を固く握りしめ、抑えた声で問いの言葉を口にする。


 迂闊だった。彼との幸せな生活が、わたしから警戒心という名の牙を奪ったのだ。故に小屋を取り囲まれ、火を放たれるまで追っ手の存在に気が付くことが出来なかった。我ながら随分と腑抜けになってしまったものだ。


 先の戦いで負った傷は完全ではないが殆どが癒えていたからどうにでもなる筈だった。しかし燃える小屋を脱出し、彼のことを護りながらハンター達の敷く包囲網を強引に突破した代償として右脚を撃ち抜かれてしまったんだ。

 地面を蹴る度、熱された鉄の棒を直接傷口にねじ込まれているかのような鮮烈な痛みが迸る。恐らく、最近になって人間が用いるようになった銀弾の効力だろう。

 今はまだ、なんとか走れている。けれどもあまり長くはない。


「なんとか、ね……っ!」


 確認できた追っ手の数は四人。そのうちひとりは仲間を呼びに戦線を離脱したから今は三人だろうか。本来であればこの程度の人数なら、幾ら対吸血鬼用の武装を用いていようともわたしの敵じゃない。瞬きする時間すら与えず、物言わぬ肉塊へ変えることなど容易だった。


「すまん……っ! オレが足手まといだ……っ!」


「お互い様、でしょ……! 追われてるのはわたしのせいなんだから……っ!」


 しかし、わたしが人を殺めているところをどうしても彼にだけは見せたくなかったんだ。彼はやり直せるとそう言ってくれたから。わたしなんかの為に、暖かい言葉を紡いでくれたのだから、彼のことだけは裏切りたくなかった。


 その結果がこのザマだ。自分以外の誰かを護りながらの戦いなんて初めてだったから、隙を射抜かれ手痛い一撃を貰ってしまった。


「いたぞッ‼」


「くそ……っ‼」


 背後で叫ぶように声が弾けた。なんとか撒けたと思っていたが、よくよく考えてみれば今わたしが流しているものはなんだ? 決まってる、血だ。それが点々と地面を染めてわたしまでの道標となっていたんだ。

 ぎり、と無意識で奥歯が鳴る。わたしが世界を塗り潰す為に用いてきた液体が、この土壇場になって自分自身に牙を剥くとは、なんて皮肉――‼


「もう少し走りゃ森がある! 魔物共が巣食う危険な場所だがそこなら連中も追っては来れねぇ! 日光も防げる! だから走れっ‼」


 彼はそう言うが、こうなった以上逃げられる筈もない。最早彼を護りながら逃げ切るのは不可能。かといって連中を殺すことも出来ない。だったら、もう。選択肢なんてひとつしかないじゃない。

 わたしが囮になって、彼を逃がすこと。無論、この採択の結末は己が死をおいて他にはないだろう。


 悔いはないかと問われたのなら口惜しくはある。名残惜しさは拭えない。だが、それでいい。もとより拾ったこの生命。彼に救われなければわたしはあのまま、一切の暖かさを知ることもなく死んでいたのだ。彼が与えてくれた暖かさに比べれば、この程度の冷たさなんて取るに足らない塵芥のようなもの!


 だから、わたしは切り出そうとした。別れを。今生の惜別を。永久の離別を。


 ――そんな言葉を胸の内にて羅列して、自分を奮い立たせる為に費やした時間が、あまりにも致命的だった。


 ぱん、と乾いた音が間抜けな程に虚しく響いた。


 須臾に満たぬ僅かな後、奔る衝撃。追っ手達からの攻撃じゃない。自分の真横で生じた、軽い衝撃。次いで、視界がぶれる。まるで目眩のように、意識に反して視界が揺らいだ。何が起きたのか。彼は、大丈夫なのか。地面へ向かって倒れ込みながら、わたしは彼の安否を確かめる為に視線を横へと向ける。

 彼もまた、今のわたしと同じように地面へと倒れ込もうとしていた。けれどもひとつ違うのは、倒れ込むまでの過程だ。わたしは何かに押された衝撃でバランスを崩したのに対して、彼の様子を表すのならもっとこう、ふっと力が抜けて膝から崩れ落ちるみたいな、朝の微睡みにも似た曖昧さを孕んだ倒れ方。


 そんな彼の瞳が映していたのは前方ではなく、わたし。他でもない、わたし。どうしてわたしの方なんかを見ているんだろう。疑問はそれだけじゃない。更に奇妙だったのは彼の腕の位置だった。今しがたわたしの肢体があった空間を侵食するように、彼の両の手のひらが此方に向かって突き出されていたんだ。


 粘着質にまとわりつく、極限まで引き伸ばされたスローモーションの空間。肉体から意識だけが切り離されて普段の何倍もの速度で脳が思考を始めているような感覚。

 何の為に? 決まってる。たった今、彼の身に起きてしまったであろう最悪の事象を翻す為の反証材料を探しているんだ。

 けれども探せば探す程、この状況であり得る未来などひとつしかなくて、あれでもない、これでもないと思考を巡らせる度、『それ』以外の可能性が彼方へと遠のいてしまう。


 限りなく静止した刻の中で、わたしと彼の視線が絡み合う。


 嫌だよ、とわたしは声にならない悲鳴を漏らした。

 仕方ない、と彼は寂しそうに笑って受け入れた。

 

 事象は確定した。確定、してしまった。追っ手の放った銃弾からわたしを突き飛ばして庇い、本来わたしが背負うべき筈だった裁きの凶弾を、彼が代わりに一身に背負ってしまったなどという、あまりに認め難く残酷な仮説が、変えようのない冷たく無機質な現実に射止められてしまう。


 それが、わたし達の終わりだった。そんなものが、終焉だった。


「……っ?! ねえ!! 大丈夫?!」


 思い切り地面に叩き付けられ、露出した木の根や枝がわたしの素肌を赤黒く裂いてゆく。だけどそんなものに割く意識の暇など何処にもない。地面を這うように彼の元へと急いで近寄り、双肩を掴んで揺らし問い掛ける。

 しかし返事の代わりに喉から漏れ出たのは、空気混じりの濁った水音だけだった。同時に溢れ出るのは、紅い液体。

 それと全く同じ色をした液体が、彼の胸元からゆっくりと滲んで地面へと広がってゆく。

 彼の傷は、間違いなく致命傷。わたしはどれ程の破壊を加えられたら人が死ぬかをよく熟知しているから分かってしまうのだ。

 この人はもう、助からないと。


「ねえってば!! ねえ!! 返事してよ!!」


 でも、理解と納得は似ているようで全く別個の概念だ。わたしは彼に迫る死を理解は出来てもそれを嚥下し納得することは到底出来そうにもなかった。だから問う。ひたすらに語り掛ける。例え奥底でその行為がどれだけ意味のない徒花であると分かっていても。


「だい……じょうぶ、か……?」


「この期に及んで他人の心配?! 馬鹿じゃないの?!」


 ああ、本当にこの人は馬鹿だ。どうしようもないくらいにお人好しなんだ。死の間際、自分自身ですら助からないのは悟っている筈なのに、彼は血に濡れた口元をぎこちなく緩めて微笑んでいた。死を恐怖して嘆く訳でもなく、果たせないままの心残りに思いを馳せる訳でもなく。彼は終わりのその瞬間を、自分の為ではなく他人の為に費やそうとしているんだ。

 段々と暖かさを喪ってゆく彼の肢体に、ぽつりぽつりと雨のように透明な液体が降り注いでは紅色に溶けてゆく。


「追い詰めたぞ悪魔めがッ! 」


 背後で三人分の足音が連続する。そして同時に響き渡る怒号。彼らの抱く殺意の向かう先は当然わたし。見なくたって分かる。彼らは今、きっとわたしに銃口を向けているのだろう。


「これで貴様との因縁も終わりだ。死ね――ッ!」


 ……煩いな、全く。人間っていうのはいちいち前置きをしなくちゃ殺すことすら出来ないのか。なら、見せてやるさ。本当の破壊ってヤツを。

 思考がそんな結論に至ると同時、わたしの身体は殆ど反射的に動き出した。素早く振り向き、全力で右腕を振るう。近くを飛ぶ鬱陶しい虫を払うように、何もない虚空を右腕が薙いだ。一瞬、人間達の表情が怪訝に染まる。きっと彼らはわたしのこの行為を威嚇か、もしくは気でも触れたかとでも思っているに違いない。

 だからこそ、彼らは撃とうとする。わたしという紅の災厄を討ち滅ぼさんと指先に力を込める。そしてぼとり、と湿っぽい肉の音が響いた。彼らはこれを紅い血を散らしながら地へと伏す、わたしの奏でた死のアンサンブルだと信じただろう。されど、銀弾は放たれなかった。わたしはまだ、生きている。

 何故か。彼らにはもう、引き金を引く指など何処にはありはしないから。わたしの不可視の一撃が、彼らの腕を握る銃ごと切り飛ばし、地面へと落としたから。


「う、うわぁぁぁあああああぁあぁぁぁぁぁぁっ⁉」


 彼らの内のひとりがその事実へと気が付き、我が身に何が起こったのかを理解した瞬間、

張り裂けんばかりの絶叫が弾けた。


 殺そうと思えば今の一撃で終わっていた。二の太刀など要らない。手首ではなく首を刎ねていればとっくに決着は着いていた。否、決着と呼ぶのも烏滸がましい。地を這う蟻を踏み潰すように、彼らの生命など指先ひとつで簡単に奪い去ることが出来た。

 でも、わたしはそれをしなかった。どうしてか。あいつらを、苦しませてから殺したかったから。快楽の為じゃない。そうしなければどうにかなってしまいそうだったから。


 昔は、こんな悲鳴を踏みにじるのが快感だと信じていた。残虐に殺せば殺す程、それがわたしの心を満たすのだと信じて疑わなかった。だが、今はどうだ。わたしの一切は満たされない。表層ですら乾いたままだ。なのに、あいつらをどうしても殺したいんだ。


 ――そうか。これが、憎悪か。わたしが『わたし』だった頃の理由のない殺意じゃない。憎いから、殺すんだ。わたしの大切な人を撃った彼らを憎んでいるから殺すんだ。

 ならばもう、壊してしまおう。彼の最期の安らぎを、不躾にも土足で荒らす不届き者を、わたしのこの手で消してしまおう。


 死の恐怖に支配された生命が取る行動は得てしてひとつ。逃げることだ。脅威に背を向け、無様だと罵られようが構わず逃げること。彼らも同じだ。威圧的な黒衣に身を包もうが、退魔の銀銃を携えようが、所詮は弱き人間であることに違いはない。だから逃げる。だからわたしは狩ろうとする。野生の肉食動物が、逃げてゆく生命を反射的に襲ってしまうように、思い切り地面を蹴って人間達へと飛びかかろうとする。その瞬間だった。


「ころ……すな……っ!」


 羽虫の鳴くような、小さな水音混じりの声。背後であの人の紡ぐ今際の声が、ふっとわたしの意識を引き止める。

 わたしはその場で足を止め、彼らはその隙に逃げていった。


「殺すなって……どうして?! あいつらはあなたを撃ったんだよ?!」


 頭の中がぐちゃぐちゃだった。わたしは自分の一番大切な人を撃たれたというのに、彼はあいつらを殺すなと言うのだ。だったら今わたしの胸の内で暴れている行き場のない憎悪は何処へ往けばいいというのだろうか。

 違う。今は憎悪ですらどうだっていい。今は『彼』だ。彼だけ見ていなきゃ。自分にそう言い聞かせて、わたしは再び彼へと駆け寄りその身を抱いた。ぬるり、と両手に生暖かい感触が広がってゆく。


「それでも、だ……。やり直す、んだろ……?」


「……っ! 確かにやり直すって約束したけど……っ‼」


「いい、か。殺すヤツの、世界は、絶対に広がらねえ……。殺しの末路は、閉じてゆくだけ、なんだよ……」


 息も絶え絶えに、彼はそれでも言葉を続ける。彼の言っていることは正しい。わたしの今までの人生そのものが彼の言葉の証明だからだ。


「分かった! 分かったからもう喋らないで‼ もう二度と、絶対殺さないから……っ!」


 だから、生きて。あらん限りの力で叫ぼうとしたその言葉は、しかしわたしの口から放たれることはなかった。彼が、わたしの頬を撫でたから。触れているかどうかも分からないくらいの微細な力で彼の右手がわたしの頬へと触れる。暖かかった。仄かに暖かさを宿した手だ。だからわたしは、彼の暖かさをより鮮明に感じたくて――或いは、手放したくなくて――己が左手を彼の右手にぴったりと重ねた。


「よか、った……」


 良かった? 何が良かったというのだろう。もうすぐ死が、決して逃れられぬ死神の刃が、すぐそこまでに迫っているというのに、彼は一体何を喜んでいるというのだろうか。


「なんで、笑ってられるのさ……っ」


 ああ、そっか! きっとこの人は死なないんだ。最初に会った時からずっと変な人間だと思ってた。だから多分、彼は人じゃないんだ。人じゃないから、死なないんだ。

 だって人が死の間際に笑っていられる筈がないもん。


 だから、良かった。ああ、本当に――。


「お前さん、は…………」


 でも、現実は無慈悲だった。


「お前さんは、何⁉ ねえ、聞こえないよ‼ ねえ‼ ねえってば‼」


 それが、最期だった。言い終わることもなく、彼の腕から力が抜けて、触れていたわたしの頬から遠く離れてゆく。いいや、腕だけじゃない。足から、胴から、頭から、そして表情から。

 全ての暖かさが、抜けてゆく。彼の全てが、飛散する。世界を巡る循環の中へと還ってゆく。


 彼は、死んだ。たった今、生命がひとつ喪われたんだ。わたしを置いて、去ってしまった。


「一緒居てくれるって……言ったじゃん……」


 わたしは多分、彼のことが――好き、だったんだな。


 返事は勿論、返ってはこない。独り、物言わぬ抜け殻と化した彼の亡骸を抱きしめながら、わたしはようやく悟った。


 これが、死ぬことの本当の意味。これが、殺すことの本当の罪。


 酷く、胸がきりきりする。指先が震えて、目の奥がどうしようもなく熱い。彼はもう、動かない。喋らない。笑わない。怒らない。泣きもしない。側にあった筈の束の間の幸福は、決して戻ることはない。


 それを今まで、わたしは一体どれほど振り撒いてきた?

 どれほどの悲劇を、この世界に刻んできた?

 わたしにとっての『彼』を、いったい何人奪い去ってきた?


 何が、やり直すだよ。こんなに辛くて悲しいことを、何度も何度も世界に強いてきた化け物が、幸せになっていい筈がないんだ。

 彼はわたしが化け物じゃなければ殺されなかった。いいや、彼を殺したのは人間じゃない。さっきのハンター達なんかじゃない。


 『わたし』だ。『わたし』が、彼を殺したんだ。過去の『わたし』が、わたしの愛した人を殺した。

 どれだけ時間が経とうとも、どれだけからっぽになろうとも。わたしの犯した罪は決して消えはしないんだ。わたしはやっぱり、赦されぬ咎人。生まれてきちゃいけなかった。生きてちゃいけなかったんだ。


 そうしてこれは、赦されぬ身でありながら、誰かを愛してしまったわたしへの罰――。




「――そうして、わたしは彼の遺体を抱いて、此処まで逃げてきた。何もかも嫌になったから。此処ならきっと、わたしの振り撒く殺戮は世界に届かないと思ったから」


 長い、語りであった。語りを終えて、吸血鬼はそれまでと同じように力なく木にもたれかかり、一瞬だけ隣で朽ち果てていた骸骨を見やる。少女も同じく視線を向けて、それが吸血鬼の愛したなどという男の亡骸であると悟る。


「何度も、何度も。死のうと思ったよ。手首を思いっきり切ってみたり、そこら辺の蔦で首を吊ってみたり。でも、死ねなかった。吸血鬼として生まれたわたしの肉体が、それを許してくれなかった。普通の吸血鬼ならもうとっくに死んでるくらい血も吸っていないけど、わたしは血を浴び過ぎたから……」


「だから、あたしに殺せと?」


 言葉なくして吸血鬼は頷き、少女の言葉を肯定する。彼女の纏う最早服の機能を果たしていないボロ布の間から覗く痣や、手首や首元に刻み込まれた赤黒い無数の痕。それらは明らかに自傷行為によって付けられた傷が原因であり、少なくともそれらに関しては彼女は嘘は言っていないと少女は判断する。


 ――いや、多分それらだけじゃない。この吸血鬼の言葉に嘘偽りは微塵足りとも含まれてはいないのだろう。目だ。目を見れば分かる。嘘や欺瞞で、あんなに哀しい目を浮かべることなんて絶対に出来やしない。


 認めよう。確かに、この吸血鬼は自分と同じなのだ。やはり過去に大切な者を喪って、それを悔いることしか出来ない哀れな祈り子。


「巫山戯ないで」


 少女は先程と同じ言葉を口にする。しかし激情に駆られていた先程とは違い、今の彼女は至って冷静であり、だからこそ突き放したような言い方に聞こえた。少なくとも、吸血鬼にはそう聞こえたのだ。


「死ねば赦される? 死ねば贖える? 馬鹿じゃないの。アンタの背負った罪はね、その程度じゃ消えないの。……あたしはアンタが愛した人間と違ってね、優しくはないわ。死にたがってる大罪人を言われた通りに殺して楽にしてあげるなんて、するわけじゃない」


 少女は己が胸元に手を当て確かめる。そして、ほっとする。決して我が身に滾っていた筈の、あの日誓った復讐の炎が霧散した訳ではなかったからだ。この吸血鬼を殺せなかったのは、彼女に対する同情や哀れみが復讐の念を塗り潰したからではない。彼女自身が死を望んでしまっているから。死を望む者に殺しを施して、それの何処が復讐になるというのだろう。そんなもの、救済にしか成り得ないのだ。


「アンタにヴァルハラは勿体ないわ。今のアンタがやってることは逃げよ。大切な者を喪って、その現実が受け止められなくて、拗ねて前に進むことを拒絶しているだけ」


 その言葉は果たして、吸血鬼に向けてのみ放たれた言葉なのであろうか。

 恐らく、違う。彼女は目の前の吸血鬼という鏡に自分を映し、重ねていた。


「それにアンタは今此処なら自分の殺戮が他人に及ばないって言ってたけどね、残念だけど大間違い。アンタみたいな血生臭い化け物が居るせいでね、普段はこの森から出ることのない魔物達が森の外に出て人を襲っているのよ。アンタは生きてるだけで災禍を振り撒く存在なの」


 その言葉は推測ではあったが、しかし当たらずとも遠からずだと少女は辺りを見回し思う。彼女の周辺に魔物の姿がないのは、当然彼女が聖女だからでもなければ、この場所が聖域だからでもない。単に畏れているのだ。あまりにも強い力を持ったこの吸血鬼を畏れ、生態系が乱れているのだろう。その余波として、普段は出てこない森の魔物に村人が襲われ、本来なかった筈の悲劇が生まれた。


「それ、は……」


 吸血鬼は言葉に詰まる。何も言い返すことが出来なかった。言い返す気もなかった。


「まあ、それはいいわ。ともかくあたしはね、アンタの事なんか聞いた以上のことは知らないし、アンタが好きだったっていう男のことも同じ。でもね、これだけは言えるわ。今のアンタを見たら、きっとその人は心底悲しむでしょうね」


「……どうして、そんなことが言えるの」


「アンタが今、生きちゃいないからよ。死んでないだけでアンタは生きてない。死んで欲しい相手のことを身を呈して庇う? 自分が死ぬって時に、嫌いなヤツに向かって笑える? そんな筈ないわ。だからね、アンタだけじゃなくてきっとその人もアンタのことが好きだったのよ!」


 これも、同じだ。少女は語りながら、想う。復讐に囚われ生きてきた自分を、両親が見たらどう思うだろうか、と。

 きっと悲しむに決まってる。両親は常に少女のことを愛していたからだ。そんな彼らが、自分達の娘が常に死の付き纏う修羅の道を歩んでいると知ったら必ず悲しむだろう。或いは怒るかもしれない。激怒し、涙を流して、それでも少女のことを抱きしめ愛しているといって消えるだろう。

 そんなことは少女自身はとっくに分かっていた。気が付いていた。でも、見ないふりをしていた。何故か。結局のところ、復讐とは他人の為に果たされるものではないのだ。遺された当人が、そうしなくては生きてゆけぬからと、そう己に言い聞かせて埋没する生き方なのだ。


「……分かってるよ。本当は、全部分かってる。こんなところで緩やかな終わりを待つのは贖いでもなんでもないって」


 ――でも、今更だ。今更生き方は変えられない。変えようとも思わない。少女の人生は復讐の為に存在している。そして、これからも。

 だからこそ、彼女はひとつ決意を抱く。


「でも、だったら……わたしはどうすればいいの……? どうすれば贖えるの……? 分かんないんだよ、それが、どうしても……」


 少女はゆっくりとしゃがみ込む。そして吸血鬼の顔を覗き込み、自分の被っていた黒いマスクを脱ぎ去った。森の中は有毒の瘴気や胞子が舞い、このマスクなしで人は生きてゆくことは出来ないが、この吸血鬼の座る大樹の周辺だけは瘴気も薄く少しであればマスクを外しても活動が出来ると判断したからだ。


「見なさい、あたしの目を」


 俯いていた吸血鬼の紅い瞳が、少女の黒い眼差しと交差する。


「教えてあげる。殺しを償う方法なんてのはね、何処にもありはしないのよ。人が背負える人の生命は、たったひとり分だけだから」


「何処にも、ない……」


「ええ。人は自分の分しか生命を背負うことが出来ないから、食べる為って理由を付けて家畜や植物の死を肯定する。でも、人同士の殺しだけはどうやったって肯定しきれないのよ。他人の生命まで背負える程、人の器は大きくない。だから一度背負ってしまうと、必ず自分が溢れてしまうの。少なくともあたしはそう考えてる。だからね、一度人を殺した人間は――絶対に、幸福にはなれないの」


 そんなことは銀髪の吸血鬼だってとうの昔に分かっていた。大切な者を喪い、自分が如何に存在してはならぬ悪魔であるかを嫌という程に思い知り、望めば望むだけ、幸福は離れてゆくことは。それでも、やはり他人から事実として突き付けられるのは、どうしても苦しいことだった。だから思わず彼女は目を逸らそうとする。少女から、少女の強い眼差しから。


「駄目。逸しちゃ、駄目。アンタが本当に贖いたいと思ってるなら、目を背けるな」


 だが、少女はそれを赦さない。


「………………うん」


 吸血鬼もまた、思い直す。彼女の眼差しから目を背けてはならないと。彼女の瞳を最後まで見つめ続けることが、自分のやるべきことだと思ったから。


「今のアンタは、もう無作為に殺戮を撒き散らすだけの獣じゃない。人のことを餌としか思っていない傲慢な吸血鬼でもない。そう、なんでしょ?」


「……そのつもり、だよ」


「だったらあたしに、信じさせて。言葉じゃなくて、行動で」


 そう言って、少女は懐から何かを取り出した。それは木漏れ日の淡い光を反射してぎらりと光る。ナイフだ。銀の、ナイフ。彼女はそれを右手で握り締めてから溜息をひとつ吐く。

 吸血鬼は一瞬、少女がそれで自身を刺すつもりかと身構えた。もしそうだとしても、抵抗をするつもりなどは毛頭なかった。銀のナイフで刻まれ、傷口が焼かれるのだとしたら、むしろその痛みは望ましいとすら思う。その行為で目の前の少女の気持ちが少しでも晴れるのなら、自分は幾らでも捌け口になろう。

 しかし、そんな吸血鬼の思考を見透かしたかのように少女は口元を歪めてみせる。そしてナイフが振るわれる。ひゅう、と風切りの音が響き渡る。振るわれたナイフは、物を切るというその存在理由を遂行し、確かに手首の皮膚を裂いて流血を招いた。但し、刻まれた傷は吸血鬼のものではなく少女自身のもの、であったのだが。


「何を……⁉」


 少女の行いの意図が分からず、吸血鬼の表情が驚愕に彩られる。


「飲みなさい。アンタがこれを飲むの」


 少女の手首から垂れる血液は、皮膚を伝い手の平で作られた器の窪みへと溜まってゆく。それが充分な量に達したことを認めた少女は、再び吸血鬼の双眸を見つめ、静かにそう告げる。


「飲むって……っ!」


 吸血鬼に血を飲めと言うのは、鳥に飛んでみせろと言うようなもの。魚に泳げと言うようなもの。言うなれば種の根底に存在する生存の為の最低条件だ。それを果たすなど、あまりにも容易いことの筈。


 されど、吸血鬼にはそれが出来なかった。彼女は少女の血を見た途端、突如としてその顔を青白く染め、瞳には恐怖を宿し、小刻みに肩を震わせる。明らかに血を恐怖している。それも無理はないだろう。彼女の脳裏に浮かぶ光景は、あの日自身の最も大切だった者を喪った日のことだから。己が愛した男の最期――いや、それだけじゃない。彼女の今までは常に血に覆われていたのだ。彼女にとって今までの自分というものは全て過ちだ。出来ることなら拭い去り、最初からいなかったことにしてしまいたいと強く願う程に。

 故に、自分の全てともいえる血を、紅い色の生命を、彼女は拒絶しようとしていた。吸血鬼でありながら、彼女は血が、吸えなかったのだ。


「逃げるなっ‼ アンタに出来ることはね、真っ直ぐ見つめ続けることだけなのよ‼ 自分が嫌われていて、憎まれていて、どうしようもないくらい自分の背負った罪が重いってことを嫌というほど思い知って、自分は幸福になっちゃいけないってことに絶望しながら、それでも世界と真っ直ぐに向き合うことだけなの‼ だから逃げんなっ‼」


 そう、それこそが少女の復讐なのだ。殺しや痛めつけることじゃない。自分の全てを奪った存在に、その罪を真正面から見つめさせること。それが一番、この贖罪に迷う吸血鬼に対しての復讐になると悟ったが故に。だから彼女は突き付ける。まず最初に、自分が何者であるかという問いを。世界へと踏み出す第一歩として、自分が何者であるかを自覚させる為に。


 吸血鬼は震えていた。血が怖いから。自分の罪に本当の意味で向き合うことが怖かったから。だが、彼女の脳裏にひとつの言葉が浮かぶ。それは自らが愛した男の言葉。


 みんな、死ぬことを怖がっているから、必死に生きている。


 ――嗚呼、そうだ。わたしは今まで必死に生きてこなかった。やり直すっていうのは今までの罪を全部忘れて新しい自分に生まれ変わることなんかじゃない。今までの自分がどれだけ醜くても、どれだけ穢らわしくても、それら全て、清濁全てを併せ呑んで、必死に前だけを見つめて生きることなんだ。

 だから、向き合おう。過去から、止まった過去から、世界という海原へと漕ぎ出そう。きっと世界はわたしのことを赦さない。赦す筈もない。赦されたいとも、思わない。

 漕ぎ出した大海原には嵐ばかりで、荒れ狂う波風はわたしという船を転覆せしめようと容赦なく吹き荒ぶだろう。だけど、それでいい。その痛みに耐え、這ってでも前に進むということが、わたしにとってのやり直すということなんだ。


 だから吸血鬼は、銀髪を靡かせたひとりの吸血鬼は、受け入れる。少女の血を啜り、自分が吸血鬼であるという変えようのない事実を。そして殺戮以外に生きることの出来なかった獣である『わたし』を。人という存在に恋をして、大切な者を喪う哀しみとその罪の重さに打ちひしがれ、『人』の生命の暖かさを知った自分を。


 それら全てが、どうしようもなく自分であるのだから。


「久々の血の味は、どうかしら」


 自分の血を啜り、その際に零した血液で胸元を真っ赤に染めた吸血鬼を見下ろしながら、少女は問う。彼女は下を向いたまま、小さく漏らすように答えた。


「……美味しいよ。どうしようもないくらい、美味しい。血を怖がろうと、人を愛そうと、結局わたしのルーツは吸血鬼。そして、殺人鬼。どれだけ目を背けても、この事実だけは変えられないんだよね」


「……そうね。自分が何者なのか。自分がどういう生き方をしてきたのか。それだけはどうやったって変えられない。でもね、きっと――どう在りたいかだけは、何時だって変えられるから」


 ふっと、少女の口元が僅かに緩む。それを隠すように、彼女は空を仰ぎ見る。深い森の切れ間から、ぽつりぽつりと漏れ入る淡い木漏れ日が、じんと目に染みて仕方がなかった。


「『紅の災厄』は……かつて『紅の災厄』と呼ばれたひとりの吸血鬼は、今死んだわ。少なくとも、あの日からずっとあたしに付き纏っていた紅い影だけは、あたしの心の中で死んだのよ。あたしが、殺したの」


「え……それって……」


「勿論、アンタのことを赦した訳じゃない。アンタの罪が赦されることはない。……でも、言ったでしょ。人が背負える生命の重みは、誰しもひとつだけだって。殺したら最後、殺した人の重さに耐えきれなくて潰れてしまうって」


「……うん、そうだね」


「だから、『紅の災厄』を殺したのよ、あたしは、あたしの心の中で。『紅の災厄』ってのは、確かにアンタ自身。でも、アンタの全てじゃない。全てじゃないって、あたしは信じてる。……だからね、だから半分だけ。半分だけアンタのことを殺して――アンタの半分を背負ってあげる」


 それだけを言って、少女は再びマスクを被り、森の中心に聳える大樹に背を向けて来た道を戻り始めた。彼女の言葉をゆっくりと咀嚼し、銀髪の吸血鬼は彼女の言葉の意味を心の底で受け止める。

 それは少女の『人』が見せた優しさでありながら、また或る意味では彼女の『修羅』が下した決して逃さないという復讐の意思表示でもあるのだろう。

 けれども、どちらにせよ。その言葉がひどく、嬉しかった。吸血鬼にとっては、なによりもそれが嬉しかったのだ。


「――ありが、とう」


 だから、紡ぐ。そして、受け入れる。自分という存在以外の生命を。この世界と真っ直ぐに向き合い、この世界を歩いてゆく、その第一歩として。


「あーもう! 調子狂うわね‼ いい⁉ これはあたしなりのアンタへの復讐なの‼ だから礼とか見当外れもいいとこ‼ 馬鹿言ってないでとっとと着いてきなさい‼」


 それが少女の照れ隠しであるのは誰の目にも明らかであろう。そんな少女の後ろを数メートル離れて追いかける吸血鬼は、この時僅かに微笑んでいた。微笑みながら、泣いていた。

 その煌めきは、一生幸福になってはいけない咎人に、それでも与えられた、ほんの僅かで、それでいてかけがえのない、暖かな、幸福。

 そして大樹を離れる直前、吸血鬼は一旦立ち止まって、振り返る。静かに佇む骸骨の落ち窪んだ黒い眼窩に、優しく暖かい眼差しを幻視する。そしてあの日、愛した人が最期に紡ごうとした言葉へと想いを馳せるのだ。


 きっとあの人は、こう言いたかったんだろうな。お前さんは、生きろよ……って。


 生きろ。その言葉は、なんと優しく、なんと残酷なのだろうか。


 確かに彼女の歩むこの世界は、当然彼女のことを嫌悪し、憎悪するだろう。時には石を投げられ、心無い言葉を掛けられ、命を狙われることだってある筈だ。

 それでもきっと、彼女は必ず前を向く。その生命が尽き果てるまで、この世界と真っ直ぐに向き合い続けると決めたのだから。

 愛した人が、生きろと言ったから。彼女のことを半分背負うと言った少女が、逃げるなと言ったから。そしてなにより、自分自身がどんなに辛い茨の道でも、生きたいと願ったから。


 黒の少女と紅の吸血鬼。ふたりの道は、続いてゆく。遥か遠く、何処までも――――。

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